青森ペイブリッジ 青森市安方
柳町通りと沖館の間二キロメートルを結んで平成四年七月に、「青森ベイブリッジ」が完成しました。総工費二四○億円をかけた、この橋は、青森駅
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メモリアルシップ「八甲田丸」青森市柳川
明治四十一年(一九○八)から八十年に渡って青森と函館を結んでいた青函連絡船、その長い歴史にピリオドを打った「八甲田丸」が、港湾文化交
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ねぶた祭 青森市柳川
ネブタ祭りは、「秋田の竿燈」山形の「花笠まつり」「仙台の七夕」と共に、東北四大祭りの一ツで、重要無形民俗文化財に指定されています。
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浄満寺 青森市油川
戦国時代の油川城主、奥瀬氏の菩提寺であったと伝えられ、五基の五輪塔があります。一時衰退しましたが、元和五年(一六一九)に再興
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明誓寺 青森市油川
青森市内最古の建築物です。津軽為信の津軽統一に協力した、北陸系の門徒が弘前に移った後も、当地に残った尼僧、妙誓の庵が寛文三年
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横内城跡と常福院 青森市横内
南部氏二○代信時の四男・堤弾正光康が明応七年(一四九八)に横内城を築きましたが、その後天正一三年(一五八五)に津軽藩祖為信にほろぼ
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絵馬の里 上北郡七戸町
七戸は、牧場の町、絵馬の里としての横顔も持っています。宇治川の先陣争いで知られる名馬磨墨(するすみ)は三戸の、生唼(いきずき)、池
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七戸町 上北郡七戸町
古い歴史を津むつ城下町七戸は、かつての郡役所、所在地として上北地方の中心地でした。藩政時代は盛岡南部藩の支藩として栄え、一万
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七戸城跡 上北郡七戸町
七戸城跡は、町の西側台地にあって、国の史跡指定を受けております。別名柏葉城ともいわれ、現在、城跡は日本庭園や復元した堀のある柏葉
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坪の石碑 上北郡七戸町
坪は、アイヌ語のツムオから変化したもので、「強く勇ましい」という意味だそうです。今から千三百年以上前、この地方には蝦夷
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下田町 上北郡下田町
下田町は、奥入瀬川が東へと流れています。米を中心に、葉煙草、畜産が盛んで、耕地は町の半分ほどです。又、木の下集落
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千曳の伝説 上北郡東北町
この地名についてはつぎのような伝説があります。昔、ここの部落の美しい乙女に、石の精の化身である若者が恋をしました。
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愛宕山 上北郡野辺地町
麓一帯は公園になっており、桜、ツツジがほどよく配され、町の人々の憩の場所となっています。公園内には、松尾芭蕉の句碑や
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野辺地 上北郡野辺地町
野辺地は、陸奥湾に面し下北へ通ずる南の玄関口として叉、昔は盛岡藩の交易港として栄えました。その当時の名残りの石灯
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野辺地戦争 上北郡野辺地町
戊辰の役の時、東北諸藩の多くは同盟を結び、幕府側へつきましたが、津軽藩は親しい関係にある近衛家のすすめもあって、
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馬門温泉 上北郡野辺地町
馬門温泉は、古くから人々の湯治場として知られていたようです。たとへば、馬門温泉薬師堂の鰐口(仏堂の前の軒につるし、
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藩境塚 上北郡野辺地町
藩境塚は、野辺地、平内町との境、狩場沢の海岸に沿ってあります。笹、雑木が密生した、高さ五メートルの円丘が、双股川を
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十符ケ浦 上北郡野辺地町
このあたりの砂は、小豆砂といい紫色を帯びています。荒波に砕かれ、粒のそろった砂のひろがる美しい海岸です。毎年
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百石の伝説 上北郡百石町
昔々、この辺りは食べる桃の石と書いて桃石と呼んでいました。ここに村一番のお金持で、大変ケチン坊な人が住んでいました。
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百石町 上北郡百石町
百の石と書いて百石町です。アイヌ語で、「流れゆるやかに曲つた川」という意味だそうです。奥入瀬川の様子が、そのまま町の名
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七百 上北郡六戸町
今から三百年以上前、盛岡から作助という人が、新しい田圃を開こうとしてこの地を訪れ、方々の土質を調べ、ここに千刈の
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黒石温泉郷 黒石市
弘前側から浅瀬石川に沿って温湯(ぬるゆ)・落合・板留(いたどめ)、温川(ぬるかわ)と温泉が続いています。青荷(あおに)と
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黒石市
黒石地方は陸奥の国津軽田舎館黒石郷といわれ、古くから拓けていたところです。昔、蝦夷の住むところを「久慈須(くじす)
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黒石ねぷた 黒石市
津軽地方の風物誌である、黒石ねぷたまつりは、毎年八月一日から七日まで開催されます。子供ねぷた、人形ねぷた、扇ねぷた
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黒石よされ踊り 黒石市
日本三大おどり(阿波おどり、郡上おどり、黒石よされおどり)の一つといわれる”黒石よされ踊り”の起源は恋のかけ合い唄とし
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板留温泉 黒石市板留宮
その昔、花山院忠長が浅瀬石川から湧き出るお湯と川の流れとでうまく入湯できなかったので、板で囲って入ったことから板留
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黒石神社 黒石市市ノ町
黒石津軽藩を創立した津軽十郎左衛門信英を祀った神社です。津軽四代藩主信政の叔父で後見人であった信英(のぶふさ)
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秋田雨雀記念館 黒石市内町
御幸公園の内には児童文学者・劇作家・詩人・社会運動家、そしてエスペラント語普及運動家、と幅広い活躍をした、黒石名誉
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浅瀬石川ダム 黒石市大字板留
東北地方でも、最大級の多目的ダムで、津軽平野約九千ヘクタールもの水田を潤すために建設されたのが浅瀬石川ダムです
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御幸公園 黒石市大字内町
黒石津軽家の陣屋があったところで、今公園となっているところは馬場があったところです。明治三十三年(一九○○)、大正天皇
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稲荷神社 黒石市大字甲大工町
御幸公園内に、黒石の産士神を祀った稲荷神社があります。江戸時代の初めに当地に流罪となった花山院忠長(江戸前期の公卿
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大川原の火流し 黒石市大川原
冬期には大川原と城ケ倉の間は閉鎖をされてしまう地域ですが夏の暑い頃、大川原の火流しの行事がおこなわれます。平家の
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青荷渓流 黒石市沖浦青荷
南八甲田連峰の一つ、櫛ガ峰(一五一七)を源とする青荷渓流は、龍ガ滝・扇滝・七段滝・大滝などが続く急流と原生林にかこま
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青荷温泉 黒石市沖浦青荷
浅瀬石川の支流、青荷川をさかのぼると青荷温泉に出ます。ラジウムを含む単純炭酸泉で、ここはランプの灯る温泉宿とし
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薬師寺 黒石市温湯鶴泉
薬師寺は寛永元年(江戸時代初期・一六二四)、入湯にきた花山院忠長(京の公卿・むつの地に流されていた)が、夢のおつげ
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遠光寺 黒石市温湯鶴泉
温湯温泉の北側にある、日蓮宗の遠光寺は、寛永元年(一六二四)の創立で、歌人丹波洋岳にあてた石川啄木の書簡が残されています。
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温湯温泉 黒石市温湯鶴泉
黒石温泉郷の西玄関口にあたる温湯温泉は四○○年以上の歴史を持ち、薬師寺をさらに東へ進んだところにあります。
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黒石ほるぷ子ども館 黒石市温湯派
昭和五十年、㈱ほるぷ出版が黒石市に子供のための小さな図書館を寄贈いたしました。「黒石ほるぷ子ども館」と名づけられた
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中町のこみせ通り 黒石市中町
日本の道百選に選らばれました。藩政時代にはたご屋、造酒屋、呉服屋・米屋が軒を連ねていたところです。ここに雪から通路
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津軽こけし館 黒石市袋富山
国指定重要文化財である江戸時代の商家「高橋家」と、全国的に例をみない「こみせ」、のイメージを組み合わせた外装か
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黒森山・浄仙寺 黒石市南中野黒森下
寺伝によると文政七年(江戸時代後期・一八二四)、弘前貞昌寺の末山として開かれた浄仙寺開基の山崎是空は、中野不動尊の洞窟で
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中野紅葉山・中野神社 黒石市南中野不動舘
浅瀬石川と中野川の合流点付近に中野紅葉山と呼ばれる高さ二六九メートルの小山があります。ここは中野神社の境内で、津軽藩九代藩
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愛宕山地蔵院 黒石市山形町
一般には”愛宕様”と呼ばれています。ここは”黒石よされ”の発祥地で、境内での盆踊りは、俗謡にも残っていて盛んであったといいます。
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法眼寺 黒石市山形町
法眼寺は以前、温湯(ぬるゆ)にあったものを元禄五年(一六九二)に豪商加藤勘兵衛が現在地に移転させたものです。延享
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津軽三千坊 五所川原市高野
津軽三千坊は、阿闍羅(大鰐)、十三(とさ)(市川)、梵珠山の西麓にある高野(五所川原)をいいます。津軽の古書には、「比叡山三千坊
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平家落人伝説・日本の三大虚空蔵 三戸郡
南郷村の島守地区(南郷I・Cの右側)には、源氏に敗れた平重盛一族が隠れ住んだという、平家落人伝説が残っています。平清盛
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福地村・剣吉の地名の由来 三戸郡南部町
福地村は、村の中央部を馬渕川が貫流し、かつては馬の産地でしたが、今は果樹栽培、葉煙草の生産が主体となっています。
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法光寺 三戸郡南部町
法光寺は、標高六十五メートルの山、県立公園名久井岳の中腹にあり、曹洞宗の奥羽三大本山のひとつに数えられております。
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寺下観音堂 三戸郡階上町
階上岳登山コースのうち、寺下口コース内に、多くの信者を持つ、寺下観音堂があります。観音堂の創建は、神亀年間
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ホーハイ節 つがる市森田町
青森県津軽地方の民謡です。こんお民謡には面白い話があります。今から三百数十年以上前の事です。お玉という女の人が営んでいる
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民謡・弥三郎節 つがる市森田町
文化五年(一八○八)の秋、下相野の弥三郎という百姓が、人を介して大開の万九郎家から、嫁を貰ったのですが、嫁は親達の
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三本木原の開拓・新渡戸伝 十和田市
三本木原は、上北郡の東部に位置する、東西四十キロ、南北三十二キロの広々とした台地です。その中心都市、三本木町は、
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十和田湖 十和田市
青森・秋田両県の県境にある十和田湖は、十和田八幡平国立公園内にある、典型的な二重式カルデラ湖です。湖の一番深いところは
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十和田湖温泉郷 十和田市
十和田湖温泉は、奥入瀬渓流の入口、焼山に開かれた温泉郷で、奥入瀬探勝の絶好の基地になっております。昭和三十八年、
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十和田山 十和田市
標高一○五四メートルの十和田山が、湖の東にそびえています。十和田山は十和田湖四大展望所の一つで、ここからは湖はもちろん、
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南祖坊と八郎太郎の伝説 十和田市
昔、陸奥国鹿角郡柴内に、八郎太郎という偉丈夫がおりました。あるとき山の仕事に出かけた八郎太郎は三匹の岩魚をつかまえ
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発荷峠 十和田市ほか
発荷峠は、湖面からの高さおよそ二五○メートルあり、湖をへだてて北方に雄大な八甲田の山々を望み、眼の下には中山半島
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稲生町 十和田市稲生町
稲生町は、新渡戸十次郎が町づくりを開始した所です。十次郎は稲生川が竣工した時に、将来の都市計画をも考雲え、父、伝と共
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蔦温泉 十和田市大字奥瀬
八甲田火山群の山ふところに抱かれたこの蔦湯は、発見は約八○○年前といわれ、蔦川から少し西に入ったところに、ただ一軒
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猿倉温泉 十和田市大字奥瀬
猿倉温泉は、蔦川の渓流ぞいに湧く温泉です。乳白色の豊富な湯量で、十和田温泉に引湯しています。
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十和田神社 十和田市大字奥瀬
そのむかし坂上田村麻呂が東征のみぎり、湖が荒れて渡れなかったので、ここに小さなほこらを建て、戦勝を祈願し、イカダを
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十和田神社の遥拝所 十和田市大字奥瀬
十和田神社の遥拝所です。かつて神社が女人禁制とされていた時代、女子供や老人達は、ここから礼拝して帰ったそうです。
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瞰湖台 十和田市奥瀬宇樽部
この展望地はその名の示す通り、中湖が一目で見おろされる所で、御鼻部山、十和田山、発荷峠とともに、十和田湖四大展望
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雲井の滝 十和田市奥瀬
高さ約二○メートルの三段の滝は雲井の滝です。奥入瀬で二番目の大きさで、水量も豊富です。この付近から銚子大滝までは、
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銚子大滝 十和田市奥瀬奥入瀬
十和田湖から流れ出て奥入瀬川となった水は、やがて銚子大滝となって、下流の奥入瀬渓流となりますが、この滝は幅
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石ヶ戸 十和田市奥瀬
”ケ戸(がど)”というのはこの地方の方言で、小屋という意味があります。厚さ一メートルの自然石がカツラの木にもたれかかり
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湖畔の乙女像 十和田市奥瀬
十和田湖が国立公園に指定された十五周年を記念して、昭和二七年、時の青森県知事津島文治氏(作家太宰治の長兄)が
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御鼻部山展望台 十和田市奥瀬尻辺山
ここは標高一○一一メートルあり、十和田湖を囲むカルデラ壁のなかでは、最も高い山で湖と外輪山外側の両方が見える数少
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蔦七沼 十和田市奥瀬
蔦温泉から北西に少し入ったところに蔦沼(つたぬま)、鏡沼、月沼、長沼、菅沼、瓢箪沼、少しはなれて赤沼と七つの沼が点在して
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旧笠石家住宅 十和田市奥瀬
約三○○年前の建築物といわれ、かや葺の屋根や釘を一本も使っていない寄せ棟造りが、昔の人々の生活をかたってくれます。
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法蓮寺 十和田市洞内
七百五十年の歴史を持つ寺で法身(ほっしん)、道無(どうむ)の二体の木像が安置されております。*法身、道無:法身は、
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休屋 十和田市十和田湖畔
中山半島の付根にある休屋です。十和田湖の中で最も賑やかな場所で、バス、観光船などがここに集中しています。
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子ノロ 十和田市十和田
十和田湖の「子(ね)」の方角、すなわち北にあたる水の出口であることから、「子ノロ」という地名がついています。湖岸一周
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一万一千五両ノ眺め 十和田市十和田
渓流にかかる橋を”百万両”と呼び、清らかな流れを”万両の流”、橋の右手に見える滝を”五両ノ滝”となりの岩は”千両岩”と
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奥入瀬渓流 十和田市十和田湖畔
子ノロから焼山までの区間約一四・二キロメ1トル(奥入瀬上流)を奥入瀬渓流と呼んでいます。十和田湖の湖水の美しさを
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新渡戸稲造 十和田市東三番町
”願わくは我れ太平洋のかけ橋とならん”の言葉で知られる稲造は、新渡戸伝の長男、十次郎の三男として、文久二年(一八六二)に
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新渡戸伝のお墓 十和田市東三番町
森の見える所は十和田市の開拓者、新渡戸伝のお墓のある太素塚です。また両脇に、息子十次郎、と、孫の稲造博士のお墓
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法量 十和田市
法量の地名は、アイヌ語のポロウレカムイから来たもので、ポロは大きい、ウレは足、カムイは神で、「大きな足の神様」の意味で、
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谷地温泉 十和田市法量
高田大岳(一五五一メートル)の山麓の、標高八○○メートルの高地に湧く温泉で、高田大岳の登山口であり、田代平への入口
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睡蓮沼 十和田市法量
標高一○四○メートルにある睡蓮沼は大小無数の沼が散在しています。もっとも大きい大沼には展望台が設けられ、正面の
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