旅先の歴史ものがたり・千葉

 

 

千葉には、知られざる物語があります。



町や村などの成り立ち、


その町や村にこそ他の地域には見られない物語があります。


「面白い感動話」「歴史や伝統」「男の女の哀しい物語」


「地域ならではの温泉の由来」「歴史的な神社仏閣」


「歴史上活躍した人物の横顔」「哀れな城跡や址」


「町や村、施設の命名縁起」「千葉ならではの特産物」


「国指定の国宝・重要文化財」など。
 


旅に出たら、単なる物見遊山ではなく、こうした千葉を代表する人間物語


を訪ねてみたいものです。


旅のその先に……新しい発見が。


それこそが「旅の醍醐味」ではないでしょうか。

 

 

鋸山 地獄のぞき.jpg

 

鋸山 地獄のぞき 

 

鴨川.jpg

 

鴨川

 

房総半島と紀伊半島

日本列島の太平洋岸は、黒潮という大きく早い海流が北上しているので、古代から舟による東西の交流が行われていまし

落花生

明治維新になって、初代の千葉県知事になった、柴原和という人が、大層この房総の土地を開拓しようと努め、大変な努力をしました。落花生

旭市の名の起り

干潟八万石の中心は千葉県旭市です。今から五○○年以上前、木曾義仲の子孫(十九代の孫)木曾義昌という方が、この辺りを

助五郎の墓、繁蔵の首塚 旭市

飯岡の町の大親分、飯岡の助五郎のお墓が光台寺にあります。笹川の繁蔵は利根の河原で助五郎勢を撃退したものの、

鎌数伊勢大神宮 旭市

椿の海の干拓工事の成功を祈願して、白井次郎右衛門と大工の頭領辻内刑部左衛門が、伊勢神宮にお願いし、工事が竣工した寛文

落花生の碑 旭市

千葉県は、おいしいピーナツの産地として知られております。鎌数伊勢大神宮の境内には、落花生の碑があります。落花生と

干潟八万石  旭市

昔、椿湖という湖を干拓して出来たもので、県下(千葉県)でも指折りの米どころです。椿湖は、香取、海上、匝瑳の三

大原幽学先生 旭市

大原幽学先生は、尾張藩の家老をつとめておられた家に生まれた方ですが、後半生を千葉県の山の中の集落で過ごされ、

長禅寺の血の池のお話 旭市

旭市野中の集落のはずれに、長禅寺という真言宗智山派のお寺があります。この寺の境内には”血の池”と呼ばれる小さな池が

海上胤平誕生碑 旭市

文政一二年(一八二九)にこの地に生まれた海上胤平誕生碑があります。千葉周作に剣を学び、判事補などをつとめまし

鋸山 安房郡

標高三二九メートルの鋸山は、市の南西端、千葉県安房郡鋸南町との境界上にそびえています。その名のとおり、鋸の刃のような

田子台 安房郡

縄文時代後期から弥生時代におよぶ長い間、古代人達の居住に利用されていた住居跡で、県の史跡に指定されています。

日本寺 安房郡

聖武天皇の勅願所として、僧行基によって建てられたといわれます。また寺の近くに大小のほこらがあって、中には一五○

大多喜町 夷隅郡

この町の歴史は古く、その昔の天正十八年(一五九○)徳川家康の四天王の一人本多忠勝が、大多喜城を構築して入城して以来

大多喜城跡 夷隅郡

昭和五十年の夏八本丸跡に天守閣を復元したもので、内部は博物館になっています。夷隅川が東へ大きく曲がるところ、その北岸

栗又の滝 夷隅郡

養老川の上流にあって「上総養老の滝」ともよばれています。本物の養老の滝は、岐阜県の養老川上流にあり、流れの

大原町 夷隅郡

昭和三十年三月旧大原町と、近隣四村を合併して成立した町で、町域内には海抜五○~一五○メートルの丘陵性山地があり

海女の情熱と悲恋の伝説 夷隅郡

太平洋の荒波に面した御宿町に次のような悲しい伝説があります。昔、美しい海女と若者が恋をしました。若者は漁に出かけ

御宿町 夷隅郡

町の中央を流れる清水川の河口付近に御宿町があって、清水川は網代湾で太平洋にそそいでいます。網代湾の西岸にある

月の砂漠 夷隅郡

「月の砂漠を はるばると 旅のラクダが 行きました 金と銀との 鞍おいて 二人並んで 行きました」。童謡「月の砂漠」の

岩船地蔵尊 県いすみ市

岩船漁港近くの海沿いに海に突き出た岩場に岩船地蔵尊をまつる地蔵堂があり、岩場一帯が境内になっています。本尊の地蔵

八幡岬 いすみ市

八幡岬は太平洋に突き出た岬で、ほとんど垂直に近い断崖が海にのぞんでいます。岬の形が鳶に似ているところから「ト

大聖寺・浪切不動 いすみ市

天台宗、山号を明王山と号し、境内の不動堂は国の重要文化財に指定されています。これは鎌倉時代中期の後深草天皇

太東岬 いすみ市

太平洋の荒波をもろに受ける岬が太東岬で、ここは九十九里浜の南のふちを区切り、荒波に洗われて、断崖絶壁になっており

太東海浜植物群落 いすみ市

この群落は、太東崎の先端から南方海岸ぞい三万平方メートルほどの地域で、日本中部海岸における代表的な、海浜植物

市川市

千葉県で一番古い都市です。大昔の「ふさ」の国のころから、国府が置かれ、聖武天皇の「国毎に設けよ」といわれた国分寺、

法華経寺 市川市

正式には中山妙宗の大本山、正中山法華経寺といいます。文応元年(一二六○)鎌倉で迫害を受けた日蓮を、下総国八幡の

新浜御猟場鴨猟 市川市

宮内庁の御猟場は、江戸幕府時代から鴨の猟場で、毎年初冬には数万(約五万羽)の鴨が、シベリャ方面から渡ってきて

常夜灯 市川市

常夜灯は、本行徳の江戸川堤にあり、文化九年(一八二一)江戸日本橋の蔵屋敷西河岸の成田山講中が、航行の安全を願って

真間の手児奈・手児奈霊堂 市川市

その昔真間の里(現在の市川市真間周辺)に住んでいた手児奈という美しい少女の言い伝えに由来します。およそ、一五○○年

 

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粟又の滝

 

八幡のやぶしらず  市川市

このやぶは、昔は相当大きなものでしたが、今では、五○メートル四方位の竹やぶになってしまいました。天慶年間、平貞盛がこの

市原市 

市原市の歴史は古く、養老川両岸の洪積台地の上にのこる縄文・弥生時代の多くの遺跡があり、それらが今日なおも千葉県市原

宝林寺 市原市

曹洞宗のお寺で、その昔里見義蕘(よしたか)の娘種姫が、国府台合戦(一五三八)で戦死した夫の菩提をとむらうために建て、

姉崎神社 市原市

老樹の生い茂る高台にあり、むかし、ヤマトタケルノミコトが東征のおり、海路の安全を祈って、シナトベノミコトを祀ったのが

養老渓谷 市原市

大多喜町との境界付近を流れる養老川がつくり出した渓谷で、美しい流れがまわりの岩をけずって深い谷をつくり、樹木におおわれた

上総国分尼寺跡 市原市

国の史跡に指定されています。天平十三年(七四一)、聖武天皇は国分寺建立の詔勅を発し、国ごとに国分寺と国分尼寺を

上総国分寺跡 市原市

上総国分尼寺跡から南へ七百メートル離れたところに上総国分寺跡があります。西塔のない薬師寺式伽藍配置になっており

高瀧神社 市原市

お社は大変古く、もとは養老川上流の栗又の瀧近くにあったもので、ニニギノミコトとワケイカズチノミコトを祀って高瀧神とよば

府中日吉神社 市原市

この神社の創建は古く、天武天皇二年(六七四)近江の国の日吉神社の分霊を、奉祀したのが始めとされています。社域は上総国

蓮蔵院 市原市

蓮蔵院は一般には「引田の観音さま」とよばれ、いつのころに出来たのか定かではありませんが、寺伝では平安時代初期の開基

西願寺 市原市

明応一九年(一四九二)平蔵の領主・平将経が、お城の鬼門守護のため、七堂伽藍を建立し、阿弥陀如来を安置したのが

橘禅寺 市原市

養老川の左岸皆吉の橘山とよばれる小高い丘の上にあるお寺で、天平時代僧行基の開創といわれ、のち、弘法大師空海が

飯香岡八幡宮 市原市

白維四年(六五三)に創建されたと伝えられております。いまからおよそ千二三百年のむかし、律令制度のもとで、東海道上総国

夫婦公孫樹 市原市

飯香岡八幡宮の境内にご神木とされている、夫婦公孫樹です。神社創建のときの勅使桜町中納言季満卿(すえみつきょう)の

鳳来寺観音堂 市原市

吉沢川のほとり、山を背にしたこのお堂は、もとは、近くにあった善福寺の仏堂でしたが、明治十六年、善福寺が廃寺となり

酒々井町 印旛郡

名前から見ても酒に縁の深い感じがしますが、この町の円福寺の境内に「さかずききの井戸」といわれる井戸があります。昔この

麻綿原高原 大多喜町

麻綿原高原は大多喜町の南西部に位置しており、天津小湊町との境界に近いところに拡がる海抜二五○メートル前後の高原

飯岡町 海上郡

一宮から六十六キロも続く日本最大のロングビーチの終点でもあります。ここから犬吠まで英国のドーバー海峡にも匹敵する

穴沢松五郎先生 海上郡

千葉県は有名なさつま芋の産地です。さつまいもの栽培法を始めて千葉県に伝えた方は、江戸時代の有名な学者、青木昆陽先生

戸張城跡 柏市(旧沼南町)

柏トンネルの上のあたりには文京区柏養護学園や文京区柏総合運動場がありますが、中世には戸張弾正忠のかまえた戸張城

手賀沼 柏市・我孫子市・沼南町

柏市と我孫子市と沼南町にまたがり、東西の長さ十二キロ、幅一キロと細長く、面積は六・五キロ平方キロメートルで、深さは深

勝浦市 

房総丘陵地帯の海抜一五○から二五○メートルの丘陵性山地がひろがり、平坦地にはとぼしく、中東部に源を発する夷隅川が、

鵜原理想郷 勝浦市

吉尾漁港から明神岬へかけての、延長約二キロの海岸線を鵜原理想郷といい、外房の荒波がつくりあげたリアス式海岸線

おせんころがし 勝浦市

昔土地の豪族の家におせんという一人娘がおり、おせんの父は村人達を見下し、強欲非道な人なので、おせんはこれを改心さ

妙覚寺 勝浦市

広栄山と号する日蓮宗のお寺で、日蓮上人の有力な檀家の一人、佐久間重貞の館跡といわれ、文永年間(一二六四〜七五)重貞

官軍塚 勝浦市

県指定の史跡で、猿ケ城遊園地や勝浦灯台をへて東へ約一・五キロの、太平洋を見はるかす高台にあります。明治戊辰戦争末期の

勝浦城跡 勝浦市

勝浦湾の東側に突き出た八幡岬一帯にあり、北、西、南の三方は切り立ったような断崖で海に臨み、北東は山をめぐらせた天然

龍蔵寺 勝浦市

山号を妙法花山、宗派は日蓮宗で、建長五年(一二五三)、日蓮の父妙日と母妙蓮の創建と伝えられ、ここは日蓮の伯父畠山

守谷洞窟 勝浦市

洞窟は守谷湾の西岸にある海食洞窟で、入口の高さ六メートル、幅八メートル、奥行三○メ-トルあまりで、大正十三年に洞内

神崎神社 香取郡

御祭神は天鳥船命(あめのとりふねのみこと)をお祀りしています。当社には楠の大木がありナンジャモンジャの木と呼ばれて

 

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鵜原理想郷 

 

多古町・多古城  香取郡

昔は太平洋の入江だったとの辺り一帯は、小さな湖が沢山ありましたので、多古とは、たぶん湖の沢山ある町という意味でしょう

笹川繁蔵 香取郡

笹川といえば講談や浪花節「天保水滸伝」でおなじみの親分です。笹川の繁蔵は、笹川の町から少し山手に入りました羽許(はばかり

側高神社・鬚撫祭 香取市

鳥居の下に見えております急な石段は、一八五段もあります。この高台の上に祀られてあります側高神社の境内からは、水の里

大戸神社 香取市

日本武尊が東征の折、東夷討伐の祈願により、たてられたものと伝えられております。社殿は今から千三百年以上前の、

佐藤尚中 香取市

小見川町は、近代の名医の佐藤尚中先生の誕生の地で、そこには記念碑が立っています。県史跡に指定されています。先生は、

小野川 香取市

両岸は苔むした石で見事につまれて、堀割のような美しい流れです。吉田玄二郎、長田幹彦左ど多くの文学者に、こよなく愛され

じょんぬき橋 香取市

香取神宮の裏参道に行く途中に、じよんぬき橋という大変かわった名の橋があります。草履をぬく橋というのがなまって、じよん

香取神宮 香取市

香取神宮には、経津主命(ふつぬしのみこと)がお祀りされています。この神様は、鹿島神宮の神・タケミカヅチノ命とともに、天照

佐原の祭り 香取市

佐原の町は、大変威勢のよいお祭りで知られております。毎年七月の八坂神社の夏祭りと、諏訪神社の秋祭りには、町内の若衆達

水郷大橋 香取市

この水郷大橋をつくります時、橋の設計者は、美しい大自然の姿をそこなうことのないようどんな形にしたらよいかと大分苦労

水郷について 香取市

水の都、水郷は東洋のベニス、水郷と幾多のうたにうたわれ、幾多の筆によって描かれています。。南に利根川、北に北利根川、

荘厳寺 香取市

寺歴は比較的新しく、寛永十八年(一六四一年)の開基といわれています。ただ寺宝の木造十一面観音立像は平安朝初期の作と

伊能忠敬旧宅 佐原市

小野川の畔にある、伊能三郎右エ門のお宅が、我国測量科学の先駆者、伊能忠敬先生の旧宅です。母屋と店舗からなっており、母

伊能忠敬 佐原市

伊能忠敬は十八歳の時、佐房の伊能家を継ぎ、当時衰えていた伊能家を再興し、名主となって大いに力を尽されるかたわら、算術

津の宮 香取市

「夕べ出てみろ 津の宮つつみ 招く潮来の 灯がみえる」。古くから知られた津の宮です。ここは優れた良い眺めで、容々と流

観福寺・伊能忠敬の墓塔 香取市

国の重要文化財を寺宝としており、鎌倉期の作と伝えられる本尊の銅造十一面観音および何れも銅造の薬師如来、釈迦如来

江見海岸 鴨川市

「花の房総」を代表するお花畑で知られているところです。海岸に面した耕地の九十パーセント近くが、露地栽培の花畑で、十二月

日蓮寺 鴨川市

日蓮寺は、山号は岩高山といい、は岩高山の山中にある日蓮宗のお寺です。誕生寺の末寺で建治三年(一二七七)の創建と

名馬橋 鴨川市

この川の上流に駒穴という洞穴があり、そこには源頼朝の愛馬となった太夫黒がすんでいたところから、「名馬橋」の名があり

万騎坂 鴨川市

源頼朝が旗揚げをしたとき、この地に一万人以上の兵が集まった、というところから名づけられたそうです。坂道をはさんだところ

清澄寺 鴨川市

宝亀二年(七七一)不思議法師とよばれる僧が、木の枝で今の本尊の虚空蔵菩薩像をきざみ、ここに一宇を建てて安置したのが

誕生寺 鴨川市

内浦湾の海岸べりにあるこのお寺は、日蓮宗のお寺で、建治二年(一二七六)日家上人が、師の日蓮上人のために、上人生誕の

鯛の浦 鴨川市

鯛の浦というのは、内浦湾の東側、誕生寺前の海岸から、約一○○メートル沖合の、蓮華潭岩礁、その南方海上一キロあまりの

日澄寺 鴨川市

日蓮聖人が小松原でのご法難のとき、おたすけ申しあげ、みずからは小松原の露ときえた工藤吉隆の館あとで、後に建てたのが

鏡忍寺 鴨川市

山号を小松原山、日蓮宗のお寺で文永元年(一二六四)十一月、鎌倉から小湊に帰っていた日蓮は、信者である天津城主工藤吉隆

太海 鴨川市

太海は、房州名物のアマさんの多いところで、「アワビ」「サザエ」がたくさんとれるところです。このあたりのアマさんは女性で

仁右衛門島 鴨川市

太海浜の沖合い二○○メートルほどのところにある島で、県の指定名勝になっています。島は主として砂岩でできており、周囲は

鴨川松島 鴨川市

房総十二景中随一の景勝地といわれます。手前が雀島、お宮のあるのが弁天島、灯台の白さが目にしみる島が、荒島です。さらに

木更津市 

日本武尊が東征のため、走水(神奈川県横須賀市)から上総国へ海をわたろうとしたおり、海が荒れ狂い、妃の弟橘姫(おとたちば

簀立て遊び 木更津市

木更津市から千葉県富津市にかけての海岸には、簀立て遊びといわれる漁法が残っています。簀立てというのは、海に仕掛けた

 

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佐原の大祭

 

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伊能忠敬の家

 

金鈴塚遺物保存館  木更津市

この保存館は、太田山の中腹にあって、昭和こ十五年、県教育委員会の手で金鈴塚古墳の発掘調査が行われたとき、石室内部から

与話情浮名横櫛・光明寺 木更津市

JR木更津駅の西側に光明寺があり、境内に歌舞伎「与話情浮名横櫛」で知られる、切られ与三の墓が伝えられています。すぐ近くの

金鈴塚古墳 木更津市

木更津市長須賀にある県指定の史跡で、この古墳は昔は全長九十メートル、高さ五メートルあまりの大きな前方後円墳でしたが

善光寺 木更津市

木更津駅の北東約二キロ程のところにあります。真言宗豊山派のお寺で、こんもりと盛りあがった独立丘上にあって、本堂

証誠寺 木更津市

「狸ばやし」で有名な、証誠寺です。大正十三年、この寺に伝わる民話をもとに、野口雨情が作詞し、中山晋平が曲をつけてうまれた

鹿野山 君津市

標高三五二メートルの鹿野山です。この山は、千葉県の名山といわれ上総地方では最高の山で、清澄山、鋸山とともに「房総三山

九十九坊廃寺跡 君津市

九十九坊廃寺跡は、天正時代の古文書によりますと、和銅四年(七一一)に建立されたお寺で、戦国時代、里見氏と北条氏の

八幡神社古墳 君津市

古くからひらけており、縄文時代や弥生時代の遺跡が豊富で、数多くの古墳も発見されており、なかでも県の史跡に指定されて

三島湖 君津市

昭和三十一年に完成した、潅概、上水道用の「三島ダム」によってできた人造湖です。湖の面積は約○・七平方キロ、湖岸線は

佐倉七牧  佐倉市

江戸時代に野馬放牧地の佐倉七牧がありました。それは油田、取香、内野、高野、柳沢、小間子、矢作の七つの牧場からなって

佐倉市 

佐倉は、堀田氏十一万石の城下町で、江戸時代の末頃には、”西の長崎、東の佐倉”といわれた、近代医学の発祥の地で、古い家並

佐倉の歴史

江戸時代の中期に、堀田正亮が、この佐倉の城主となってから幕末まで、約百二十年の間に、佐倉宗五郎の事件のように、 

雷電為衛門の墓・妙覚寺 佐倉市

妙覚寺というお寺には、江戸時代の力士として、その名を知られた雷電為衛門のお墓があります。為衛門は、信州小諸に生れま

江原刑場跡 佐倉市

南無妙法蓮華経の供養の碑は、佐倉藩が罪人の処刑を行った刑場跡です。佐倉藩医で蘭方医であった鏑木仙庵らによって、

九十九里 山武郡

九十九里平野の誕生は約一万年前の沖積世にまでさかのぼるといわれます。当時一帯は海底でしたが、飯岡町刑部岬より北

高村光太郎誌碑  山武郡

九十九里セソターの右側にある小さな丘のうえに、詩人として、また彫刻家としても知られている高村光太郎の誌碑が建ってい

芝山仁王専 山武郡

このお寺は一二○○年も前からつづく歴史の古いお寺で、仁王門に祀られる仁王様にお詣り致しますと、大変御利益があり、火事と

成田山本尊上陸地 山武郡

光町の大利根用水路ぞいにある、海を臨んだ尾垂浜というところに、「御上陸之地」と刻まれた石碑と記念碑がたっています。

鳥喰のいわれ 山武郡

鳥を喰べると書いた「卜リハミ」という集落があります。昔、ここに大きな沼があ、その付近には鶴が群れを表してすみついて

芝山の古墳群 鬼来迎

芝山の仁王様の付近の畑の中をみておりますと、畑の中に、ところどころに芝草におおわれたおまんじゅうの様な形をした

鬼来迎 鬼来迎

虫生(むしお)集落の広斎寺には、お盆の行事として土地の人々が演じます鬼来迎は、仏法の因果応報の理をお芝居にした

伊藤左千夫生家 山武市

明治の歌壇でその名をうたわれ、小説「野菊の墓」で知られる、伊藤左千夫は成東の農家に生れ、正岡子規について勉強し、

五所神社 山武市

安元元年(一一七五)の創建と伝えられています。文治五年(一一八九)にへ源頼朝が、奥州の藤原泰衡を滅ぼして、鎌倉へ帰

八日市場 匝瑳市

八日市場の名のおこりは、大永年間(一五二一~二八)に、浜街道の住民が福岡台周辺を開拓し、道路をつくり、物産市場を

脱走塚 匝瑳市

匝瑳高校のすぐ近くに脱走塚とよばれる水戸藩のさむらい達のお墓があります。高等学校のあります台地は、明治の初め混乱し

袖ケ浦市 

東京湾岸は、古くから景勝の地として知られ、袖ケ浦という優雅な名前は「更級日記」の中にも見られ、潮干狩、すだての名所

館山市 

館山市は、県の南端にある観光と商業の都市で、昭和八年と同十四年、同二十九年の三回にわたって近隣町村を合併、編入して

房総フラワーライン平砂浦 館山市 

房総フラワーラインは全長一七・四キロの快適なシーサイドコースです。平砂浦の砂浜は、太平洋から吹きつける風が、特色あ

洲崎灯台 館山市 

房総半島の南西端にあり、三浦半島の三崎とともに、浦賀水道の入口を形づくる洲崎の突端にあります。大正八年に点灯された

洲崎神社 館山市

洲崎灯台の南方の約一キロ、国道ぞいの東側にもりあがる海抜一一○メートル余りの御手洗山(みたらしやま)の中腹にある

 

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九十九里浜

 

安房神社  館山市

市の南端にある巴川の南に、盛り上った吾谷山の中腹にある神社で、古代天富命(こだいあめのとみのみこと)が四国阿波の国の

館山城 館山市

里見氏九代義康が、天正十六年(一五八八)から二年あまりの歳月をついやして築いた平山城の遺構で、現在は、城山公園になって

那古寺 館山市

那古山の中腹にある真言宗智山派のお寺で、正式には補陀落山普門坊千手院那古寺といいます。境内には、市指定天然記念物の

船越鉈切神社 館山市

神社は大変古く神亀元年といいますから七世紀ごろの創建と伝え、古くから海の守護神として、地元の人達の崇敬を集めていま

崖観音 館山市

崖観音は、船形山大福寺と称し、真言宗智山派に属する寺院です。本尊は、養老元年に僧行基が、自然の岩に彫刻した十一面観音菩薩

布良海岸 館山市

東京湾と太平洋が一体になるところで、外海と内海の特色が合体して、美しい海岸線をつくっているところです。ごこには、明治

千葉市

縄文時代の貝塚は全国に約千百ケ所あり、その一割が千葉県千葉市内に集中し、世界最大の貝塚密集地となっています。こと

千葉城跡  千葉市

丘陵を亥鼻丘陵といいますので、亥鼻城ともいいます。中世、下総国が守護を世襲していた千葉氏の本拠としていたところです。見

千葉神社 千葉市

かっては北斗山金剛授寺妙見堂という真言宗ののお寺だったのですが、明治初年の神仏分離で千葉神社となり、祭神も天之御中

大巌寺 千葉市

竜沢山玄中心院と号する浄土宗のお寺です。天文十七年(一五四八)道誉上人の開山と伝えられ、二世は天正二年(一五七四

本行寺 千葉市

顕本法華宗、山号を如意山といい、文明元年(一四六九)日泰上人が開いた法華宗のお寺で、上総七里法華の根本道場になって

千葉公園 千葉市

戦前、鉄道第一連隊の演習場のあったところで、昭和二十三年から公園として整備がはじめられ、同四十年に完成をみています。南門

大賀ハス発掘記念碑 千葉市

東大検見川総合運動場の一隅に、昭和三十九年七月に建てられた「大賀ハス発掘地記念碑」があります。大賀ハスが発掘さ

青木昆陽・昆陽神社 千葉市

甘藷先生青木昆陽を祀った神社です。八代将軍徳川吉宗は昆陽に命じて、薩摩から持ち帰った甘藷の栽培を、この幕張でやらせた

金光院 千葉市

真言宗豊山派の寺で、山号を愛染山と号し、弘法大師作といわれる薬師如来を本尊としています。鎌倉末期の正応二年(一二八九)

加曾利貝塚 千葉市

国指定の史跡になっております。この貝塚は、直径一三○メートルあまりのドーナツ型をした北貝塚と、径一七○メートルの馬蹄

本城寺 千葉市

中野集落の本城寺という日蓮宗のお寺のありますところは、五二○年以上前の文明年間に、足利氏に仕えた酒井定隆が上総国

泉自然公園 千葉市

公園の面積は大変広く、四十二万七○○○平方メートルもあり、その広さをたくみにいかした自然の地形そのままに園内には、ヤマザ

海鹿島 銚子市

伊勢路ヶ浦ともいう大小無数の岩礁地帯海鹿島は、明治三十年頃まではアシカが生息しており、そこから”海鹿島”という名が

犬吠埼灯台 銚子市

犬吠埼の先端に立つ犬吠埼は、明治七年に建設された一級灯台です。高さ二七・三メートル、光力は一八○万燭光で太平洋を航海

千騎ヶ岩 銚子市

犬若の南方海上に浮かぶ岩礁を千騎ヶ岩と呼んでいます。岩上には、分布の北限といわれるソナレムグラ、タイトゴメ、オニヒ

無線電信発祥の地 銚子市

明治四十一年、銚子無線局をここにつくり、東洋汽船の天津丸と交信したのが、そもそもの無線の始まりだそうで、わが国無

千人塚 銚子市

利根川の河口は潮の流れが速く昔から「阿波の鳴門か銚子の河口、伊良湖渡合が恐ろしや」などと船頭に恐れられた、海の難所

夫婦ケ鼻 銚子市

旧暦六月十五日、大潮の日の朝には、毎年大勢の人があの岬の上に集まり、さし昇る朝日を‐拝みます。丁度その日は、川口明神

黒生浦 銚子市

太平洋岸の黒生漁港を中心とした浜辺を、黒生浦といいます。慶応四年八月、ここの沖合で、榎本武揚に率いられた幕府の

美加保丸遭難の碑 銚子市

徳川幕府の軍鑑、美加保丸遭難の碑です。徳川幕府が倒れる直前降伏をいさぎよしとしない幕府の重臣、榎本武揚は、函館の

海渡神社 銚子市

愛宕山の西側に海渡神社があります。和銅二年(七○九)の創建と伝えられ、境内は関東における典型的な海岸林のタブ林と

日比友愛の碑 銚子市

大空にグッとうき出たこの記念碑はもえる炎を型どりフィリッピンのマヨン山の方向に向けて建てられた、永久にかわらぬ

常燈寺(常世田薬師) 銚子市

常燈寺のご本尊は高さ一・四一メートルのヒノキ作りで、藤原後期の作と推定される、薬師如来座像で、国の重要文化財に指定

飯沼観音・飯沼山円福寺 銚子市

御本尊は、今から一二七〇年以上前、沖で漁をしいた漁船のアミにかかって、引きあげられた十一面観音です。飯沼観音は、

 

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加曾利貝塚

 

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犬吠埼灯台

 

銚子縮  銚子市

江戸時代に、漁師のおかみさんたちが、イワシの丸干をつくるかたわら、生計のたしにと手織りの布の製造を始めたのが起りと

余山貝塚 銚子市

東京大森の貝塚につづいて、明治二十七年に発掘し、縄文式後期の土器や、石器を沢山掘り出しました。余山貝塚から掘り出され

一宮町 長生郡

上総の国の一宮の玉前(たまさき)神社の門前町として発展したところで、江戸時代中期の寛政十年(一七九八)には加納久周

洞庭湖 長生郡

上総一宮駅南約二キロほどのところにある池で、江戸後期の文政年間(一八一八〜一二○)藩主加納久儔(ひさとも)が築造した

玉前神社 長生郡

旧上総国一宮で、延喜式神名帳にも明神大社、上総五座の一つとして名を残している格式高い社で、古くから皇室や武家の尊崇厚

東浪見寺 長生郡

海抜約四○メートルの軍茶利山(ぐんだりさん)の山中にあって、宗派は天台宗、山号を軍茶利山と号し、江戸時代から明治にかけ

笠森観音・乙女の伝説 長生郡

このお堂にまつわる笠森乙女の伝説は、心あたまる美しい話です。その昔、後一条天皇は、美しいお妃に先立たれて、深くお

東金市の歴史 

安房里見氏に属していた、酒井氏の始祖定隆は、長享二年(一四八八)土気城に入りましたが、後、長男定治に城をゆずり、三男隆敏

雄蛇ガ池伝説 東金市

その昔、代官所のお役人と村の娘が恋におちましたが、しかし、身分が違うため一緒になれないことを悲観した村娘は、近くの池に身

八鶴湖 東金市

周囲一キロ余りの、八鶴湖が青い水をたたえて、その西よりに小さな島が浮び、弁天社がまつられています。昔から、絵師や

東金城 東金市

五二○年以上前の文明年間、土気城主の酒井定隆が東金城を築きました。酒井氏は、五代つづき天正年間に、豊臣秀吉の武将

東深井古墳群 流山市

東深井台地に「東深井古墳群」があります。人物埴輪、魚埴輪、鶏埴輪、直刀、曲玉などが出土しており前方後円墳や円墳が

成田の地名 成田市

公津原に建てられました、神護新勝寺は、正親町天皇の御代の頃は、千葉氏の領地でありましたが、天正の頃には千葉氏がほ

荒海城址 成田市

荒海城は荒見小四郎たね村が築いたもので、天正六年に北条氏康が、又、天正九年に足利氏が、この城を囲みましたが、落すこと

大須賀神社 成田市

平安朝の初期、有名な平将門の乱の時、その鎮定に功績があった伊能二郎という人が、この大須賀の荘を朝廷から与えられ

長沼・坂田ヶ池の伝説 成田市

その昔、この廻りは荒れ海と呼ばれておりました。この池には雌蛇が住んでおり、長沼の西の坂田ヶ池には雄蛇が住んでおり

三里塚牧場 成田市

奈良時代、文武天皇の御代に、このあたりに牧場をつくられたという記録が残っているそうです。明治になって大久保利通は、ヨーロ

宗吾霊堂 成田市

宗吾親子のお墓を始め、宗吾と行動を共にした五人の名主を祀った五霊殿、宗吾の遺品や宗吾一代記の絵を飾ってある霊宝

佐倉宗吾の旧宅 成田市

佐倉宗吾が処刑された時、わずか十四歳の長男彦七を初め、四人の子供達まで皆、はりつけにされましたが、丁度その時、上

滑河観音 成田市

この観音像は、小田城主の小田将治が、小田川の朝日ヶ渕で、観世音像と地蔵菩薩を得ましたので、一堂に安置されて、朝日渕観音

成田山新勝寺 成田市

今から一一○○年以上前、平将門は、力にまかせて次々に他人の領土を没し、とうとう関東地方全部を自分の領土とし、自ら新しい天

市川団十郎の出生地 成田市

幡ヶ谷は、初代の市川団十郎の出生地で知られております。歌舞伎はお国歌舞伎に発して、若衆歌舞伎から野郎歌舞伎に移り

大慈恩寺 成田市

下総国の薬師寺をたてられた唐僧の鑑真和尚が建てられたお寺です。興国二年(六五三年前)に光明天皇は、足利直義に

盗人の原 成田市

滑河町の大須賀の四ツ谷の街道の近くに、稚児宮又は、稚児塚と呼ばれた小さなお社が祀られています。このあたりは昔、草深い

野田貝塚 野田市

縄文時代の貝塚は日本全国で約千百ケ所ありますが、千葉県下には約半数の五百六十ケ所が分布しています。清水公園の入り

キッコーマン醤油 野田市

香取神宮境内の老杉のうっそうたるこの杉木立の丘は、亀の甲羅に似ているところから、亀甲山と呼んでおります。この様なお話が

野田の醤油発祥の地 野田市

野田で醤油の生産がはじまったのは永禄年間(一五五八〜七○)だといいますから、四百五十年以上も前のことになります。武田信玄

山崎貝塚 野田市

国の史跡に指定されている山崎貝塚です。縄文中期より晩期にわたる貝塚で、直径百三十メ-トルの馬蹄形をしており、近く

東京湾観音 富津市

浦賀水道に面した、海抜一二○メートル余の大坪山の頂上に建てられた、コンクリート製の大観音像です。東京の材木商宇佐見氏

佐貫城跡 富津市

佐貫の東のはずれにある、海抜約八○メートルの丘陵上に佐貫城跡があります。天正一八年(一五九○)徳川家康から佐貫二万石を

 

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玉前神社

 

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 東京湾観音

 

飯野陣屋堀跡  富津市

慶安元年(一六四八)、保科正貞は一万七千石で飯野藩に封ぜられ、ここに四万坪(およそ十三万平方メートル)におよぶ飯野陣

マザー牧場 富津市

約二・五キロ平方メートルの敷地内に観光農園、自然観察園、家畜動物園、オリエンテーリングコース、また乗馬場などがあります。

高宕山県立自然公園とサル 富津市

千葉県富津市と君津市の境の盛り上がったところにある、標高三一五メートルの高宕山が自然公園になっています。この一帯

ヒカリモ発生地 富津市

国道一二七号線わきに、弁天窟という洞があり、この洞内にヒカリモが自生しています。弁天窟は、高さ約三メートル、奥行一○メー

富津岬・陣屋跡 富津市

ここからわずか十キロ程の、海をはさんでむかいあう、三浦半島の観音崎とともに、東京湾の入口にあって、岬の中央部には、旧軍事

織本花嬌の墓 富津市

大乗寺境内に江戸時代後期に活躍した女流俳人織本花嬌の墓があり、県の史跡に指定されています。元文年間(一七三六〜

富津岬 富津市

富津岬は東京湾に鶴のくちばしのように突きでた、約三キロの砂嘴です。対岸の三浦半島の観音崎までは、わずか7キロくら

国府台合戦 松戸市(下総国相模台)

平安末期から鎌倉、室町、戦国時代となりますと、も早、古代の平和な国府はありませんでした。要衝の地として、常に戦乱の渦中

万福寺 松戸市

鎌倉時代、運慶の作といわれる有名な仁王尊は、一名「股くぐりの仁王様」といい、毎年四月九日に、信者が仁王様の股をく

富山町 南房総市

東西に細長く伸びた町域は東、北、南三方を海抜二○○〜三六○メートルの丘陵にかこまれ、中央部には滝沢馬琴の「南総里見八犬伝

琵琶落し 南房総市

海岸の絶壁を通る危険な道路に悲しい話があります。あるとき、一人の盲目の琵琶法師が崖の上で休んでおりますと、思いも

南総里見八犬伝 南房総市

南総里見八犬伝は、江戸時代後期の戯作者滝沢馬琴が、文化十一年(一八一四)から天保十三年(一八四二)にかけて刊行

石堂寺 南房総市

俗に厄除観音ともいわれ、正月と八月の十八日の縁日には特に賑います。このお寺の創建は古く神亀三年(七二六)と伝え

嶺岡牧場 南房総市

この牧場は慶長年間(一五九六〜一六四一)に、この地方一帯に勢力のあった里見氏が、牛馬を放したのが最初と伝えられ、江

真野寺 南房総市

真野寺は高蔵山実相院と号し、真言宗智山派のお寺で、僧行基の開山といわれます。その昔、源頼朝が源氏再興の祈願を

白浜町 南房総市

海女と灯台で知られる観光の町白浜町は、昭和二十九年三月旧白浜町と、長尾村が合併して出来た町です。町は東西に細長

白浜鍾乳洞 南房総市

白浜町から北方の中腹に塩浦集落があり、そこに海抜七○メートル前後の丘陵があり、そこに白浜鍾乳洞があります。

野島崎灯台 南房総市

「白浜を代表するのは灯台と海女だろう」といわれるほど、ここの灯台は有名です。房総半島最南端、太平洋に向って突き出

野島崎公園 南房総市

野島崎灯台の付近一帯は、野島崎公園となっており、園内には白浜海洋美術館、厳島神社などがあり、岬をめぐる遊歩道も

根本海岸 南房総市

県指定の天然記念物とされる扉風岩があります。この付近の海岸は、暗灰色の砂岩層と灰白色の泥岩層が、厚さ十センチ程度

上三原の大樟 南房総市

三原川上流域の小高い丘の上に鎮座する山神社の、江戸時代中期の建立とみられる社殿に接してそびえる樟(くす)の大木

浜千鳥の碑 南房総市

大正八年、鹿島鳴秋が長女の病気見舞いにこの和田を訪れ、一人海岸を散歩されたとき、月が明るく、外房の波は勇壮にくだけ

長妙寺(八百屋お七の墓) 八千代市

大和田生れのお七は、叔母の嫁ぎさきの八百屋の養女になります。天和二年(一六八二)十二月二十八日、本郷駒込の大円寺

和良比の泥ん子祭・皇産霊神社 四街道市

皇産霊(うぶすな)神社の祭礼で、二月の二十五日に集落の青年達が、裸になって田に入り、生れたての赤んぽをあずかって

伊藤左千夫と野菊の墓の碑 松戸市

明治大正の歌人伊藤左千夫は、手児奈の悲恋を現代に再現して、同じこの下総の土地に一くきの野菊の花を散らしました。詩情

 

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海女さん

 

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いすみ鉄道

 

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向山トンネル