旅先の歴史ものがたり・神奈川

 

神奈川には、知られざる物語があります。



町や村などの成り立ち、


その町や村にこそ他の地域には見られない物語があります。


「面白い感動話」「歴史や伝統」「男の女の哀しい物語」


「神奈川ならではの温泉の由来」「歴史的な神社仏閣」


「歴史上活躍した人物の横顔」「哀れな城跡や址」


「町や村、施設の命名縁起」「地域ならではの特産物」


「国指定の国宝・重要文化財」など。


 
旅に出たら、単なる物見遊山ではなく、こうした神奈川を代表する人間物語


を訪ねてみたいものです。


旅のその先に……新しい発見が。


それこそが「旅の醍醐味」ではないでしょうか。

 

 

北鎌倉明月院.jpg

 

北鎌倉・明月院

 

マッチングサイトをオープン(仮)しました。
仮とはいえ本格的に稼働しています。
 
経営者・個人事業主やシニア起業者の投稿をお待ちしております。
(いずれも姉妹サイトです)
 
 

飛脚と箱根駅伝  

飛脚を利用する制度が初めて設けられたのは、(約八○○年の昔)鎌倉時代の初期と伝えられています。源頼朝が鎌倉幕府を開き、

富士箱根伊豆国立公園

箱根の複雑な地勢は、北条五代、徳川幕府などによって、天然の要害として利用され、風光明楯な素晴しい景観は、古くから文人

芦ノ湖 

芦ノ湖が誕生したのは、そうふるくはありません。三一○○年前、神山の北西斜面が蒸気爆発をおこし、山が大きくくずれて、土砂

姥子温泉 足柄下郡

この温泉は、金太郎の伝説でも知られています。平安時代もおわりのころ、足柄山の金太郎が、枯れ枝で眼をさして見えなくなっ

大涌谷 足柄下郡

神山の水蒸気爆発の火口のあとである大浦谷は、いまも噴煙を高くあげており、箱根火山の、もっとも火山らしくあらわれている

神山 足柄下郡

標高一四三八メートル、箱根で最も高い山です。四十万年前の、箱根火山最初の爆発は、この神山あたりからはじまりました

蛙の滝伝説 足柄下郡

昔、この滝のあたりの木を、残らず伐り出してしまいますと、付近一帯に、恐しい疫病がはやり、ある人が、悪病追放を念じなが

小涌谷 足柄下郡

小涌谷のすこし上に行きますと、俗に「一目万本の桜」といわれる桜が海のようにひろがっています。明治十六年、宮の下に火事

早雲山山くずれの跡 足柄下郡

早雲地獄といわれるこのあたりが、早雲山の山くずれの跡です。箱根では、この早雲地獄、大涌谷、湯ノ花沢の三ケ所で、いまなお

曽我兄弟の供養塔 足柄下郡

二つよりそうように並んでいる五輪塔は、曽我兄弟、十郎祐成と五郎時致の供養塔と伝えられており、その右の方に、ひとつ離れ

底倉温泉 足柄下郡

宮ノ下、木賀、堂ヶ島とともに、箱根七湯の中心にあたる湯治場です。昔から、痔によくきくことで知られており江戸時代や

大観山 足柄下郡

日本画家の横山大観が好んで訪れ、よく箱根や富士を絵にえがいたので、大観山の名があるとといわれていますが、実際、展望

箱根細工 足柄下郡

箱根細工は、江戸時代の後期に、旅人や湯治客の土産物として親しまれるようになり、また行商に江戸の町にはこばれて評判を

箱根七湯 足柄下郡

箱根では、江戸時代以前に、湯本、堂ヶ島、宮ノ下、木賀、底倉、姥子、芦ノ湯の七つの温泉が発見されました。江戸時代に

箱根の雲助 足柄下郡

箱根というと雲助を思い出し、雲助といえばすぐに、ガラの悪い人足を思い浮べますが、箱根の山の雲助とは、どんな人達だった

箱根用水 足柄下郡

江戸の昔、外輪山のちょうどむこう側にある、駿河国駿東郡深良村は、水に恵まれない、作物のできの悪い、貧しい村でした

初花の滝 足柄下郡

湯坂山の中腹に、一筋の小さな滝が見えますが、初花の滝と名づけられています。滝には、お芝居「箱根霊験記躄仇討

笛塚伝説 足柄下郡

箱根の山には、数多くの伝説が秘められていますが、美しい笛の音に涙をさそわれる、笛塚の話もたいへん有名です。寛治元年

湯本温泉 足柄下郡

早川と須雲川の交わるところにあるこの湯本は、鎌倉時代の後期の発見とされていますが、一説では、天平十年(七三八)

箱根裏関所跡 足柄下郡

江戸時代には、箱根の山をこえる街道は須雲川ぞいに元箱根に出る、東海道・箱根路と裏街道と、海岸ぞいをゆく熱海街道の

大平台温泉 足柄下郡

昭和二十四年十一月、蛇骨川付近から引き湯をして温泉場としたところです。それまでは、挽物玩具や盆などを細々とつくる、お店

木賀温泉 足柄下郡

箱根七湯のひとつ、木賀温泉です。木賀温泉は、江戸時代には、将軍家への献上湯として知られていました。紋付袴をつけた

強羅温泉 足柄下郡

かつて、草のはえた斜面にすぎなかった強羅は、大正にはいってから、別荘地としてひらかれてきました。別荘地には公園がいる

早雲山 足柄下郡

神山の北東の斜面に寄生した、トロイデ火山で、かつて火口だった、山ふところの早雲地獄は、いまも不気味な噴煙をあげて

蛇骨川 足柄下郡

芦ノ湯の近くにある、阿字ヶ池という小さな池から流れ出し、宮ノ下で早川に合流します。合流するあたりは、蛇骨沢とよばれて

鷹の巣城跡 足柄下郡

かつて、この山の頂には、北条氏の築いた小田原城の出城がありました。天正十八年(一五九○)、徳川家康の軍勢に滅ぼさ

白銀山 足柄下郡

箱根火山の活動は、およそ四十万年前に始まり、二十万年ものあいだ、何度も爆発をくりかえし、二千七百メートルに達する

鎖雲寺 足柄下郡

昔は、鎖雲庵といわれ、早雲寺の境内におかれていたのですが、寛文年間(一六六一~七二)に、今の場所にうつされました

仙石原 足柄下郡

およそ四万年前、七つの中央火口丘が火をふいていたころ、芦ノ湖は、この仙石原を湖底にする、大きなものでしたが、

湿原植物群落 足柄下郡

昭和九年、国の天然記念物に指定された、湿生植物群落です。夏には、ノハナショウブやサワギキョウが赤紫色の花をつけ、秋に

 

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芦ノ湖

 

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大涌谷 

 

大原遺跡 足柄下郡

昭和二十三年、仙石原中学校の造成工事中に、紀元前百年から百年ごろの、弥生時代中期から後期につくられた、弥生式土器

太閤の岩風呂 足柄下郡

蛇骨川のほとりに、太閤の石風呂があります。天正十八年(一五九○)、小田原城を攻めた豊臣秀吉は、長期戦になることを予想

小屋掛けの椎の木 足柄下郡

塔ノ沢温泉にある椎の木は、いざりの飯沼勝五郎と、その妻初花が、この椎の木の下に小屋を掛け、湯治をしながら親の仇の

鞍掛山 足柄下郡

山頂からのながめはたいへん見事で、相模湾や駿河湾、箱根の山や芦ノ湖、また遠く天城連山などを、のぞむことができます

太閣道 足柄下郡

天正十八年(一五九○)鞍掛山で一息いれた秀吉は、そこから大観山、白銀山、石垣山へと、古期外輪山の尾根づたいに道を

新田塚 足柄下郡

底倉の西の山奥にある二ノ平温泉に、「新田塚」と呼ばれる碑があります。元徳三年(一三三一)、南北朝の時代がはじまりまし

出山の鉄橋 足柄下郡

湯本と強羅を結ぶ、箱根登山鉄道の出山の鉄橋です。明治十九年、東京と京都を結ぶ東海道線の工事が始まりましたが、箱根

箱根路のうつりかわり 足柄下郡

箱根山を越える道は、古代から何本もの道がつくられました。順を追って記してみましょう。氷道(上古道):最も古い公道といわれ

箱根の親不知 足柄下郡

箱根峠には、かなしい物語をひめた、脚気地蔵が祀ってあります。昔、大坂のさる呉服問屋のひとり息子が、道楽に身をもちく

旧箱根町 足柄下郡

中世には芦川といい、権現につかえた人々の家が、六百軒も棟をならべた、たいへん賑やかな部落でしたが、江戸時代には

石畳 足柄下郡

石畳を敷く以前の箱根旧街道は、雨が降るとたちまちぬかるみに変じ、歩くと脛(すね)までもぐってしまうひどい道だったそう

笈ノ平・性信御房訣別之処の碑 足柄下郡

甘酒茶屋の畑宿寄、りに、親鸞聖人が腰かけたという石と、「性信御房訣別之処」の碑があります。越後での布教活動をおえて

飛竜ノ滝 足柄下郡

落差が五十メートルもある、箱根でもっとも大きな、飛竜ノ滝で、江戸時代の、一大土木事業に一役かつた滝として有名です

甘酒茶屋 足柄下郡

今は一軒しかない甘酒茶屋も、江戸時代には四軒あり、旅人はここで疲れをいやし、晩秋から早春にかけては、一杯の甘酒に暖

アヅマハヤの碑 足柄下郡

碓氷峠には、ヤマトタケルノミコトにゆかりの、次のような話が残されています。ヤマトタケルノミコトが、大和にしたがわない蝦夷

宮城野城跡 足柄下郡

碓氷峠より、すこし明星ヶ岳をのぼったあたりに、宮城野城の跡があります。戦国時代のころ、北条氏の小田原城にとって、

堂ケ島温泉 足柄下郡

江戸時代には、五つの湯治場がありました。早川の渓流の音を聴きながら、のんびり湯につかる静かな出で湯の宿です。堂ヶ島と

宮ノ下温泉 足柄下郡

宮ノ下は、すぐ近くに堂ヶ島、底倉、木賀と箱根七湯のうち、宮ノ下を含めて四湯もあつまっており、しかも、仙石原を通り御殿場

九頭竜明神 足柄下郡

むかし、芦ノ湖に、九つの頭をもった竜が住んでいたといいます。夜になると出てきて、往来の人に害を加え、機嫌をそこね

賽の河原 足柄下郡

朱塗りの大鳥居は箱根権現の一の鳥居で、鳥居のそばのたくさんの石碑やお地蔵さんのあるところが、賽の河原です。もともと、

火焚地蔵 足柄下郡

火焚地蔵は、精進ヶ池のほとりにあり、応長元年(一三一一)につくられたものです。このあたりでは、死者の霊は駒ヶ岳に

身代り地蔵 足柄下郡

なぜか、このお地蔵さんには、ヒビがはいっており、いつのころか、そのヒビにまつわる話が作られました。梶原景時は、源

元箱根 足柄下郡

元箱根は、箱根権現の門前町としてでき、昔は、「権現様」につかえていた、社人、楽人、雑人などの人なで賑わいました。江戸

八百比丘尼の墓 足柄下郡

八百比丘尼は、若狭の国の生まれで、人魚の肉をたべたため、不死の人となり、南北朝の時代にあって、源平の合戦や、義経の奥州

お玉ヶ池 足柄下郡

お玉とお杉の二人の芸人が、親方のあまりの仕打ちに耐えかねて、江戸から逃げて箱根までやって来ましたが、もとより関所

箱根神社 足柄下郡

今から一二○○年以上前、天平宝字元年(七五七)、一万巻のお経を読破して、万巻上人とよばれていた名僧が、京より下向して

山崎の古戦場 足柄下郡

慶応三年(一八六七)、十五代将軍、徳川慶喜は大政を奉還しました。しかし、これに不満をいだいた武士が、各地で反乱を起こ

湯本茶屋 足柄下郡

正眼寺をでて、旧街道をしばらくゆきますと、湯本茶屋一里塚跡の石碑があります。慶長九年(一六○四)、江戸幕府は、

早雲寺 足柄下郡

北条早雲にゆかりのあるお寺です。戦国の世の幕をきっておとした北条早雲は、永正十六年(一五一九)、八十八歳の天寿を

正眼寺 足柄下郡

鎌倉時代にひろまった地蔵信仰は、この箱根地方にもおしよせましたが、そのころに創建されたと伝えられています。境内には

 

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箱根神社

 

三枚橋  足柄下郡

江戸時代の公道であった箱根路は、この三枚橋で早川を渡って行きました。しばらく平担な道を歩きますと、湯本の立場茶崖が

芦ノ湯 足柄下郡

箱根七湯のうち、芦ノ湯を除く他の六湯は、すべて早川沿いにありますが、芦ノ湯だけ早川から離れ、駒ケ岳、二子山、神山の

精進ヶ池の伝説 足柄下郡

この精進ヶ池は、硫黄がとけこんでいるため、昔は、魚が棲息していませんでしたが、今では、硫黄分が少なくなったせいでしょうか

東光庵薬師堂跡 足柄下郡

江戸の昔、ここ芦ノ湯の熊野社の境内に、東光庵薬師堂がありました。文代・文政期(一八○四~一八三○)になると、江戸の文人

六道地蔵 足柄下郡

正安二年(一三○○)、鎌倉時代の作です。仏教は世界を十界にわけています。その十界を、迷界と悟界の二つにわけ、迷界

船出ノ浜 源頼朝 足柄下郡

治承四年(一一八○)、石橋山の合戦に敗れた源頼朝は、いつとき箱根山に身をかくし、かろうじて難をのがれ、五日後に、岩の浜

岩(謡坂) 足柄下郡

源頼朝が、船出ノ浜から房州へのがれたとき、頼朝の一行は、いまの真鶴駅から岩の浜辺へおりる途中の坂で、一休みをして

内袋観音 足柄下郡

狭い湾が、袋のようになっているところがあります。内袋とよばれ、昔から閑静絶勝の地としてたたえられてきています。そこの

風外堂 足柄下郡

達磨の絵のたくみな、奇僧といわれている風外が、寛永五年(一六二八)ころから、住んだところといわれています。貴船神社に

砲台跡 足柄下郡

真鶴岬の先端に、砲台の跡がのこっています。江戸時代の後期寛政年間(一七八九〜一八○一)になりますと、ロシア、アメリカ

真鶴半島 足柄下郡

真鶴半島は、流出した箱根火山の熔岩が、海につきでてできた半島です。今からおよそ四十万年前、箱根火山が活動をはじめ

真鶴岬 足柄下郡

真鶴岬は、大磯の照ヶ崎と、伊東の川奈崎の真ん中あたりにあり、これを洋上に船を浮べてながめますと、照ケ崎と川奈崎がちょう

貴船神社 足柄下郡

真鶴港の左の山腹に、貴船神社があります。寛平元年(八八九)のある日、光をおびた船が沖のほうから流れてきました。みると

湯河原温泉 足柄下郡

湯河原には、奥湯河原、湯河原、それに海岸ぞいの門川温泉と、三つの温泉がありますが、万葉の昔から、いで湯の里として知ら

しとどの窟 足柄下郡

治承四年(一一八○)、源頼朝が、石橋山の合戦にやぶれ、土肥の大杉に身をかくし、そのあと、いったん箱根権現(いまの箱根神

城願寺 頼朝七騎 足柄下郡

湯河原駅の裏手の山、曹洞宗の禅寺、土肥実平の菩提寺である、城願寺です。鎌倉時代のはじめに、雲林清深という人が開山

土肥城跡 足柄下郡

土肥城は小田原北条氏のころ、この地を治めていた富永三随左衛門の館跡で、今なおこの付近には御殿馬場、小門、堀小路

不動滝 足柄下郡

落差は十五メートルほどですが、桜や梅やカエデにおおわれた、岩を走る清例な流れは、湯河原の名溌とよばれるにふさわしい、

万葉公園 足柄下郡

「足柄の 土肥の河内に 出つる湯の 世にもたよらに 児ろが言はなくに」。この歌は、湯河原温泉のでてくる、万葉集の歌の

湯河原駅 足柄下郡

このあたりは、昔は土肥郷とよばれており、石橋山の合戦でやぶれた源頼朝を、土肥の椙山(すぎやま)に案内して難を救った、

五所神社 足柄下郡

湯河原の町の鎮守・五所神社です。このあたりでは、このお宮さんを境にして、千歳川をのぼったところを宮上、くだったところを

厚木市 

厚木は、鎌倉時代に、付近一帯が深い森林だったため、「森庄」と呼ばれておりました。ここは、木材の集散地として開け、「木

妙純寺 厚木市

建治二年に日蓮上人の法弟・日善によって開かれました。この地は、鎌倉時代の大仏宣時の家臣・本間重連(しげつら)の館跡

厚木基地 綾瀬市

大戦直後の昭和二十年八月三日、総司令官のマッカーサー元師が、日本進駐の第一歩をしるした所です。現在米軍厚木航空施設

大山詣・大山阿夫利神社 伊勢原市

丹沢山地の東南端に位置する大山は、古くから山岳信仰の霊山として開け、江戸時代に入って雨乞いに霊験があるという事で

太田道灌のお墓 伊勢原市

伊勢原市の北、大山の麓の洞昌院には太田道灌のお墓があります。洞昌院の裏手一帯は太田道灌の主君・上杉定正の館が置

海老名 海老名市

海老名市の地名は、大昔、有鹿(あるか)神社の付近一帯がアシの生える大きな沼で、奇妙な魚がおりました。その中でも大きな海老

清水寺 海老名市

建久五年源頼朝が国分寺を修復した折り、近くの湧河寺にも修理を加えたところ、清水が湧き出し清水寺と名を改めて、現在

相模国分寺跡 海老名市

天平十三年、聖武天皇の勅願によって、相模国のほぼ中央部に位置する子の海老名市に国分寺が建立されました。国分寺

国分寺 海老名市

相模国分寺跡の南にある現在の国分寺は、戦国時代、国分寺跡にあった伽藍が灰になった後、丘陵上にあった薬師堂を今の地に移

 

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真鶴の三ツ石 

 

小田原 

小田原を語るには.北条早室云に登場してもらわなければなりません。小田原は、早雲によって城下町として整えられ、はじめて

小田原市 

徳川時代は、大久保氏十三万八千石の城下町でした。小田原は、東海道五十三次の第九番目の宿場で、天下のけん、箱根越

小田原評定 

これは、談合に時間ばかりかかって、何もまとまらないことを言います。天正十八年(一五九○)、豊臣秀吉が小田原を攻める

北条早雲について 小田原市

早雲は、自分の過去をいっさい語ったことがなく、生まれた場所も、いまだによくわかりません。素性の知れない男というわけです

小田原城址公園 小田原市

小田原城は、北条早雲がたてこもって、関八州にその名をとどろかせた城で、北条氏五代にわたって、勢力を持っていました

石橋山の古戦場 頼朝敗走 小田原市

今から八百年以上前の、治承四年(一一八○)八月十七日、伊豆に流されていた源頼朝は、伊豆国の目代山木兼隆をうって、源氏

佐奈田霊社 小田原市

石橋山には、佐奈田与一義忠を祀った佐奈田霊社があります。石橋山の合戦のおり、先陣の佐奈田与一義忠は、敵将の弟の、

量覚院 小田原市

修験宗の寺、量覚院です。養老元年(七一七)静岡県の秋葉山に開山されたものを、天正十八年(一五九○)、小田原城落城

香林寺 小田原市

北条氏綱の夫人養珠院の開基と伝えられる、曹洞宗小田原三山のひとつの香林寺です。永禄十二年(一五六九)、湯本から

湯本堰(荻窪用水) 小田原市

江戸の昔、荻窪村は水に恵まれない土地で、田圃がつくれないから米が穫れず、畑の作物のできも粗末なもので、「いもガユばかり食

二宮尊徳 小田原市

二宮尊徳は農政の神様と言われた方で、幼い頃の名を金次郎と申しました。今から二○○年以上前の天明七年(一七八七)に

塔の峰 小田原市

昔、インドの阿育王(あしょかおう)が、八万四千基の宝塔をつくり、釈迦が入滅してから二百年のちに、そのうちの三基が、日

総世寺 梵鐘 小田原市

嘉吉元年(一四四一)、大森一族のひとりである、安隻の開山と伝えられています。天正十八年(一五九○)、秀吉が小田原を

国府津 命名由来 小田原市

国府津の名の起りは、国司が、国をおさめるために国府を置いていたころの津、つまり津は港という意味ですから、その津が

小田原城祉 小田原市

小田原城は、北条早雲が大久保氏の館に大きく手を加え、三代氏康のときに完成した、堅固な大城廓で、幅三メートル、高さ十メート

大文字焼き 小田原市

毎年八月十六日の夜、明星ヶ岳で「大文字焼き」が行われます。京都東山の「大文字焼き」を模し、大正十年孟蘭盆の送り火

明星ケ岳、明神ヶ岳 小田原市

箱根の火山活動は、およそ四十万年前に始まりました。標高二七○○メートルをこえた、大きな成層火山が出釆たあと、中央が

箱根八里 小田原市

「箱根八里は 馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川」。その昔、手甲脚絆に身をかため、振り分け荷物を肩に、天下の嶮箱根

根府川石 小田原市

およそ四十万年前に、箱根火山が活動をはじめ、おびただしい量の安山岩をふきとばしながら、二十万年のちに、二千七百メート

根府川の裏関所 小田原市

関所といいますと、箱根の関所がたいへん有名ですが、箱根のまわりには、このほかに、根府川、河村、谷村、矢倉沢、仙石

海蔵寺 小田原市

宝珠山海蔵寺は、曹洞宗小田原三山の 1つとして数えられている名刹で、嘉吉元年(1441)に小田原城主であった大森氏に

石垣山・太閤一夜城 小田原市

天正十三年(一五八五)、豊臣秀吉は関白の地位につきましたが、天下統一を完全なものにするには、関東に勢力をもつ小田

毘蘭樹(バクチノキ) 小田原市

石垣山の北側の山腹に、根まわりが六メートルもある、バラ科の毘蘭樹という大木があります。四国や九州などに多い、暖地

滄浪閣跡 小田原市

もと、初代総理大臣伊藤博文が、明治憲法を書いた、槍浪閣という別荘で、初め、明治天皇の御用邸として建てられましたが、

 

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小田原城

 

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小田原城址公園 

 

鎌倉について

今からおよそ八百十年前、治承四年(一一八○)八月、伊豆に源氏再興の旗上げをし、石橋山にいったん敗れた源頼朝は、安房に

鎌倉彫り  鎌倉市

鎌倉彫りは、今より七五○年以上前の昔、宋の国(中国)から陳和卿(ちんなけい)が、鎌倉に来たとき持って来た中国の漆器の紅花

亀ヶ谷古道 鎌倉市

長寿寺の横の細い道は、山ノ内と扇ガ谷をむすぶ、鎌倉七切通しのひとつ、亀ヶ谷坂です。いまも昔の姿をよくのこすこの坂は

腰越・江の島伝説 鎌倉市

遠い昔、まだ深沢の里(鎌倉大仏があるあたり)が湖であった頃、そこに住んでいた悪竜が村里に出てきては子供を食べてしま

七つの切通し 鎌倉市

鎌倉七つの切通しは、亀ヶ谷坂、朝比奈、巨福呂坂、大仏坂、極楽寺坂、化粧坂、名越の切通しをいいこのうち亀ヶ谷坂、

由比ケ浜 鎌倉市

材木座・飯島崎から稲村ヶ崎までの約三・二キロの海岸をいいます。芝居の「白浪五人男」に、この先の稲瀬川に勢揃いした

若宮大路 鎌倉市

寿永元年(一一八二)三月、源頼朝が妻政子の安産を祈願して、鶴ヶ岡八幡宮から海岸まで道をつくったのが、この若宮大路です

稲村ヶ崎古戦場 鎌倉市

いまからおよそ六百六十年以上前の昔、元弘三年(一三三三)五月、新田義貞が上野(こうずけ)の国で討幕の兵をあげ、小手指

音無川 鎌倉市

昔、この川の奥にあった滝は、砂山に落ちていたため、水音がしなかったそうで、音無滝とよばれていました。川の名前も

ポート遭難の碑 鎌倉市

稲村ケ崎はいまは公園になっていますが、そこには「新田義貞の碑」とともに、「ポート遭難の碑」がたっています。逗子開成

称名寺・今泉不動 鎌倉市

弘法大師が開山したと伝える、称名寺です。もとは境内にある不動堂の別当寺でした。当時、このお寺を円宗寺といっていたそう

英勝寺 鎌倉市

寛永十三年(一六三六)に造られた鎌倉唯一の尼寺として知られる浄土宗のお寺です。江戸を開いた太田道灌の娘で徳川家康

寿福寺 鎌倉市

臨済宗のお寺で鎌倉五山第三位です。頼朝が建久十年(一一九九))に亡くなると妻・北条政子が夫の菩提を弔うため正治

浄光明寺 鎌倉市

建長三年(一二五一)真阿上人を開山とする真言宗のお寺で六代執権北条長時が建立しました。浄土教色の強い寺でした

薬王寺 鎌倉市

日蓮の弟子・日像が開山しました。ここには以前真言宗のお寺があったとされています。寺伝によりますと、日像が由比ガ浜で

海蔵寺 鎌倉市

元は真言宗のお寺でしたが、建長5年(1253年)鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命により藤原仲網能がここに七堂伽藍を再建

大船について 鎌倉市

大船は大昔には、深い入江だったそうで、そこに粟を積んだ船が帆をはって出入りしていたので、誰ともなしにこのあたりを粟船

大船観音 鎌倉市

高さ二十五・三九メートル、重さ千九百十五トンもある、鉄筋コンクリート造りの上半身像で、「無我相山」と名づけられた、丘

円覚寺 鎌倉市

鎌倉五山第二位の、瑞麓山円覚寺です。いまから約七百年以上前、蒙古が二度にわたってわが国を襲ってきましたが、この戦に

常楽寺 鎌倉市

いまからおよそ七百五十年以上前の嘉禎三年(一二三七)、北条泰時が、妻の母を供養するために建てたものといわれ、退耕

ぽたもち寺(常栄寺) 鎌倉市

念仏や禅の邪宗をすてなければ、国が亡びると説いた日蓮は、文永八年(一二七一)九月十二日、幕府にとらえられました。竜ノ

妙本寺 鎌倉市

いまからおよそ七百九十年以上前の建仁三年(一二○三)七月、二代将軍頼家が急に病をえて、危篤状態におちいりましたので

八雲神社 鎌倉市

起源は、前九年の役(もしくは後三年の役)に向かった源義家の弟新羅三郎義光がこの地で疫病(えきびょう)が流行して、多くの

安養院・北条政子の墓 鎌倉市

坂東三十三ヶ所観音界第三番札所の安養院です。二百本からのつつじにおおわれたこのお寺は、嘉禄元年(一二二五)、北条

妙法寺 鎌倉市

「苔の寺」として名高いこの寺は、日蓮が安房(千葉県)から鎌倉に来た際に、庵を結んだところといわれています。その跡に

日蓮乞水 鎌倉市

建長五年(一二五三)四月、日蓮が安房小湊から鎌倉へ来たとき、ここで水をもとめ、土に杖をさしたところ、見る見るうちに

成就院 鎌倉市

弘法大師が護摩供養した地に、承久元年(一二一九)北条泰時が寺を再建しました。本尊は不動明王です。本堂は公開されて

極楽寺 鎌倉市

極楽寺は、霊鷲山感応院極楽寺といい、鎌倉でただひとつの真言律宗の寺です。北条重時が建立しようとくわだてたのですが

義経の腰越状 鎌倉市

壇の浦に平家をほろぼした義経が、平宗盛父子を捕虜にして、鎌倉に凱旋しようとしますと、兄頼朝は宗盛父子をうけとっただけ

小動崎 鎌倉市

かつて、小動崎の海にさしでた松が、風や波にたえず揺れ動くため、こゆるぎの松とよぱれていたそうです。また、松の老樹が、

 

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若宮大路

 

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 大船観音

 

大巧寺  鎌倉市

「おんめさま」で知られる大巧寺です。もとは十二所にあり、大行寺と称した真言宗のお寺で、頼朝の祈願所だったそうです。あ

妙隆寺 鎌倉市

至徳二年(一三八五)日英上人を迎えて建立された日蓮宗のお寺です。二世の日親上人は「立正安国論」を唱え六代将軍足利義教

日蓮上人辻説法跡 鎌倉市

いまからおよそ七百七十年以上前の承久四年(一二二二)、安房の国小湊に生まれた日蓮は、十二歳のときに、仏といえばお釈迦

宝戒寺 鎌倉市

元弘三年(一三三三)六万余騎をひきいて新田義貞が稲村ケ崎の遠き干潟をかけとおって鎌倉に突入し、幕府軍とすさまじい

材木座 鎌倉市

鎌倉時代、鎌倉には七座とよばれる、商工業者の組織がありました。そのときどきにより、座の種類もかわりましたが、そのなか

来迎寺 鎌倉市

開基は建久五年(一一九四)源頼朝が鎌倉幕府の基礎となった三浦大介義昭の霊を弔う為、真言宗能蔵寺を建立した時に

長勝寺 鎌倉市

鎌倉に来た日蓮上人が初めて草庵を結んだ所のひとつと言われています。この地の領主・石井長勝が日蓮上人に帰依し、その

実相寺 鎌倉市

曽我五郎、十郎兄弟によって仇討ちされた鎌倉時代の武将・工藤祐経の屋敷跡に法華堂を建立したのが始まりです。開山は

星月夜の井と虚空蔵堂 鎌倉市

極楽寺坂切通しにかかる坂の途中に、虚空蔵堂があります。天平年中(七二九〜四九)、星月の井から光がはっするので、里人が

御霊神社 権五郎さま 鎌倉市

御霊神社は、鎌倉権五郎景政を祀ってあり、土地の人は、「権五郎さま」とよんでいます。権五郎景政は、永保三年(一○八三

塔の辻 鎌倉市

塔の辻とは、もともと塔のたっている辻のことをいい、このため鎌倉には何ヶ所かに塔の辻とよばれるところがありました。ここ

七里ケ浜 鎌倉市

おなじみの弁天小僧が大あぐらをかいて「知らざあいって聞かせやしよう・浜の真砂(まさご)を五右衛門が歌に残せし盗人の種

行合川 日蓮の死罪を赦す 鎌倉市

文永八年(一二七一)、幕府に捕えられた日蓮が、竜の口の刑場で首を斬りおとされようとしたとき、にわかに地が震え、稲妻が

十二所神社 豆腐祭 鎌倉市

天神七柱(あまつかみななはしら)と地神(くにつかみ)五柱があわせてまつられている、十二所神社です。以前は、光触寺の境内に

明王院 鎌倉市

嘉禎元年(一二三五)鎌倉幕府第四代将軍・藤原頼経が将軍の祈祷所として建立したお寺です。創建当時は不動を中心に東西

大慈寺跡 鎌倉市

建保二年(一二一四)、源実朝が、父頼朝の君恩父徳にむくいるために開いたお寺で、頼朝夫人政子などと共に大供養をおこない

光触寺 頬焼阿弥陀 鎌倉市

運慶の作といわれる、本尊阿弥陀如来は”頬焼阿弥陀”の異名があり、国の重要文化財に指定されています。この阿弥陀さまに

塩嘗地蔵 鎌倉市

光触寺の境内に塩嘗地蔵があります。以前は、金沢街道ぞいにありました。江戸のころ、六浦の塩売りが、この道をとおって鎌倉

朝比奈切通し 鎌倉市

和田義盛の三男で、大力無双の豪勇朝比奈三郎義秀が、一夜にして切りひらいたという言いつたえから、この名が起っています

報国寺 鎌倉市

足利、上杉両氏の菩提寺として栄えた臨済宗のお寺です。開山は天岸慧広です。建武元年(一三三四)足利尊氏の祖父・家時が建立

衣張山  命名由来 鎌倉市

鎌倉のむかし、夏の暑いおり、源頼朝が山に白絹をはり、雪景色のようにして、暑さをまぎらわせたということからこの名がつ

浄妙寺 鎌倉市

鎌倉五山第五位のこのお寺は、文治四年(一一八八)、足利義兼がたて、栄西の弟子である退耕行勇(たいこうゆうぎょう)の開

覚園寺 鎌倉市

建武六年(一二一八)北条義時がこの地に大倉薬師堂を建立したのが始まりです。それを永仁元年(一二九六)五四)足利尊氏

瑞泉寺 鎌倉市

臨済宗円覚寺派のお寺です。開山は夢窓疎石です。嘉暦二年(一三二七)鎌倉幕府の重臣であった二階堂道薀(どううん)が創建

荏柄天神社 鎌倉市

菅原道真を祀った福岡の太宰府、京都の北野とならぶ、三大天神のひとつとされている、荏柄天神社です。長治元年(一一〇四)

杉本寺 鎌倉市

天平六年(七三四)光明皇后の寄進により、行基が開いたと伝える、鎌倉で最も古い天台宗のお寺です。坂東三十三観音霊場の

歌の橋 鎌倉市

二階堂川にかかる橋は鎌倉十橋のひとつの歌の橋です。建暦三年(一二一三)、三代将軍実朝の時、和田義盛は執権北条義時を

甘縄神明社 鎌倉市

いまからおよそ千二百八十年以上前の昔、和銅三年(七一○)、染屋太郎時忠が山のうえに神明宮を、ふもとに神輿山円徳寺を

四条金吾邸跡・収玄寺 鎌倉市

北条義時の孫江馬光時の家臣であった中務三郎左衛門尉頼基(またの名を四条金吾)の邸跡です。金吾というのは、左右の衛門府の

長谷寺 木造の仏像では日本最大 鎌倉市

坂東三十三ヶ所観音霊場の第四番札所、海光山長谷寺です。今からおよそ千二百六十五年のむかし、養老五年(七二五)、徳道

 

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鎌倉大仏 

 

光則寺 日蓮に深く帰依  鎌倉市

樹齢百数十年という大木は、春には可憐な花をつけ、本堂をおおわんぱかりに咲きほこります。いまを去ること七百三十年以上前

高徳院(鎌倉大仏) 鎌倉市

「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな」。与謝野晶子にうたわれた鎌倉大仏は、浄土宗の大異山

正続院 鎌倉市

開山・無学祖元禅師の墓所です。境内には、舎利殿、開山堂、現在は雲水の修行道場となっている禅堂があります。舎利殿

東慶寺 鎌倉市

「出雲にて結び 鎌倉にてほどき 縁切りとみて 東慶寺をおしへ」と江戸川柳にもしばしば詠まれた、「縁切り寺」「駆けこみ

浄智寺 甘露の井 鎌倉市

下の池は、鎌倉十井のひとつ、「甘露の井」からわきでた水をたたえています。今から約七百十年以上前、弘安六年(一二八三

長寿寺 鎌倉市

いまからおよそ六百三十年以上前の延文三年(一三五八)、室町幕府の初代関東管領足利基氏が、父尊氏の菩提をとむらう

円応寺 閤魔様  鎌倉市

新居の閤魔堂、もしくは子育ての閤魔として親しまれている、円応寺があります。十王思想によりますと、人が死ぬと、冥界で七

明月院 鎌倉市

「あじさい寺」の名で親しまれている、明月院です。謡曲「鉢の木」でおなじみの北条時頼は、二十九歳の若さで執権の座をゆず

建長寺 鎌倉市

昔、刑場のあったところで、そこの地蔵堂を中心に建長五年(一二五三)、時の執権北条時頼が、宋の帰化僧、蘭渓道隆をむかえ

一の鳥居 重要文化財 鎌倉市

高さ三丈一尺五寸、約十メートル、石造りの一の鳥居です。八幡宮の社殿から一・五キロの地点にあるこの鳥居は、寛文八年

畠山重保  謀反 鎌倉市

元久元年(一二○四)、畠山重忠の息子重保は、酒の席で平賀朝雅と言いあいをしました。朝雅はこれをうらみ、北条時政の後妻

和田の合戦 鎌倉市

建暦三年(一二一三)、侍所の別当であった幕府はえぬきの元老和田義盛が、三代将軍実朝の執権北条義時とたたかって、討ち死

六地蔵 鎌倉市

むかし、刑場があったところで、里人が死者の霊を供養するために、六地蔵を祀ったのです。その跡には畠をつくる人もなく、

二十五坊跡 鎌倉市

鶴岡八幡宮に奉仕する供僧の住まいの跡、二十五坊跡です。もともと鶴岡八幡宮は、神仏混清の神社であり、僧が神祇に奉仕

若宮大路幕府跡 鎌倉市

治承四年(一一八○)、頼朝は八幡宮の東にある大倉の地に邸宅を建て、その後そこに政庁をおき、武家政治をはじめました

鶴岡八幡宮 鎌倉市

鶴岡八幡宮は、大分県の宇佐八幡宮、京都府の石清水八幡宮とともに、全国を代表する大社です。本殿には、応神天皇、比売(

関取場跡 鎌倉市

天文十七年(一五四八)、小田原北条氏は、荏柄天神社の社殿をつくるため、このあたりに関所をおき、関銭をとりました。こ

巨福呂坂の切通し 鎌倉市

鎌倉七切通しの一つとして知られる、史跡に指定された、巨福呂坂(いまは小袋坂と書くのが一般的)切通しです。鎌倉時代に

 

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建長寺山門

 

 

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鶴岡八幡宮

 

川崎市

多摩丘陵地帯には、先土器時代をはじめ多くの遺跡が発見され、市の歴史の古さを物語っております。奈良、平安時代には

日本民家園  川崎市

日本全国から一七棟の代表的な民家を集めて、昭和四二年四月に開園しました。民家の他、水車小屋や庚申塔、道標、更に生活

禅寺丸ノ柿 川崎市

池上本門寺のお会式(十月十三日)のお土産に、豆大鼓と共に知られたのが禅寺丸ノ柿です。この産地は多摩丘陵で晩秋の頃

八丁畷 芭蕉離別の句碑 川崎市

畷(なわて)とは、まっすぐな道という意味で、このあたりも八丁もあるまっすぐな道がつづいていたのでしょう。この八丁畷には芭蕉

川崎大師 川崎市

厄除大師として名高い、金剛山金乗院平間寺です。川崎大師の名で親しまれているこのお寺は、いまから八百六十年以上前の

赤穂義士旧跡の碑・弥名寺 川崎市

元禄の昔、幸区下平間に軽部五兵衛という人が住んでおりました。代々、江戸の浅野内匠頭の屋敷に出入りして庭掃除など

夢見ケ崎動物公園 川崎市

昔は、加瀬山と呼ばれる要害の地で、太田道灌はこの地方を治めるため、ここに城を築こうとしました。ところがある夜、どこから

子母口貝塚 川崎市

影向寺の東南一キロ程の所に子母口貝塚があります。貝塚から発掘された無数の貝殻や土器、石器などから、縄文時代のはじ

岡本かの子碑 川崎市

二子橋を渡った近くに歌人、岡本かの子の文学碑があります。岡本かの子の生れは東京の青山でしたが、病弱だったので二歳の時

浜田庄司の墓・宗隆寺 川崎市

益子焼の世界的巨匠、浜田庄司は溝口の出身です。民芸の世界にかたくなに生きぬき、昭和五三年一月、惜しまれながら八三歳

下綱の話 川崎市

昔、多摩川が賊氾濫して武蔵野が大洪水に見舞われた時、この近くの人々は津田山に避難をしましたが、うずまく濁流に押し

二ケ領用水 川崎市

慶長一六年に徳川家康の命を受けた、駿河の小泉次大夫吉次によって開削された一大用水路です。今でも稲田堤から多摩川

寿福寺 義経と弁慶の直筆 川崎市

かって、この地に虚空蔵菩薩を祀り、寿福をあらわして創建されたのが寿福寺です。お寺の古文書には、義経と弁慶の直筆と

妙楽寺 源氏の祈祷所 川崎市

妙楽寺は平安期に慈覚大師によって創建された古刹です。鎌倉時代には長尾寺と呼ばれ「吾妻鏡」にも代々源氏の祈祷所

登戸 絹の道 川崎市

その昔の登戸は、江戸と津久井を結ぶ津久井街道の宿場町でした。この道は「絹の道」とも呼ばれ、津久井から江戸へ絹などが

析形城跡 川崎市

析形山は多摩川を見下す要害の地で、鎌倉時代のはじめ頃、この地を支配した稲毛三郎重成によって析形城が築かれました

泉澤寺 吉良氏に関する古文書 川崎市

このお寺は戦国大名の吉良氏の菩提寺として建立されました。もとは川向うの世田谷にありましたが、天文一九年に吉良

小泉治太夫 用水堀を堀った人 川崎市

昔、小杉御殿町の近くに小泉治太夫という人の屋敷がありました。駿河の国・富士郡の人で今川義元の家臣でしたが、義元が

広福寺 川崎市

承知四年(八三七)、慈覚大師の開山と伝えられる古いお寺です。広福寺はこの地に領した稲毛氏の菩提寺で析形城主・稲毛三郎重成

小杉御殿町 徳川将軍の鷹狩り 川崎市

その昔、中原街道に沿ったこのあたりは、徳川将軍の鷹狩りの場所でした。二代将軍・徳川秀忠は休憩所としてこの地に小杉御殿

八百八橋の碑 川崎市

武蔵小杉駅には八百八橋の碑があります。八百八橋は、安永年間、上丸子で干鰯屋(ほしかや)を営んでいた野村文左衛門に

常楽寺 漫画寺 川崎市

常楽寺は僧・行基によって開かれたと伝えられますが、つまびらかではありません。昭和四二年に本堂の改築の際、住職が漫画家に

亀屋跡 川崎市

旧道沿いには宿場町当時の宿であった亀屋跡があります。ただ今は結婚式場の亀屋会館です。明治の中頃文豪・国木田独歩

東高根森林公園 景勝五〇選 川崎市

丘陵の自然な地形がいかされた公園で、神奈川景勝五Q選にあげられている公園です。園内からは弥生から古墳時代に至る住居跡

影向寺 川崎の正倉院 川崎市

川崎の正倉院と称される影向寺です。奈良時代の昔、光明皇后が重い病に苦しまれた時、聖武天皇は夢でこの地にある霊石に薬師如来

淵野辺交差点 デイラボッチの足跡? 相模原市

かって、湿地帯のこのあたりは、大小の沼が点在していました。いまではほとんどが埋めたてられておりますが、交差点の右側に

淵辺義博 護良親王 相模原市

六百五十年以上前の昔、鎌倉幕府がたおれ、後醍醐天皇が建武の新政をはじめますと、これに反抗するものが大勢いました。建武

築井城跡 相模原市

城山(標高三七五メートル)の山頂に戦国期の代表的山城、築井(つくい)城の跡があります。鎌倉時代、横須賀の津久井村に住ん

相模湖 相模原市

相模湖は相模川をせき止めて作った人造湖で着工したのは昭和十五年のことですが、途中に第二次世界大戦などが入り、工事が

美女谷温泉 相模原市

昔からこの地方には、美しい女性が生れるといい伝えられております。昔、江戸の吉原でその名をうたわれた、初代の高尾太夫や

 

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川崎大師

 

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相模ダム

 

鵜の森の神話 相模原市

いまは大沼、東大沼、西大沼の地名としてのこっているばかりですが、景行天皇の御代(四世紀前半)に、日本武尊が東征のさい

六代御前 逗子市

平維盛の嫡子、六代御前は、平家がほろびるさい、京都でとらえられ、沼津の千本松原で斬られようとしましたが、高雄の神護寺

田越川 六代御前が処刑 逗子市

この河原で、建久十年(一一九九)、六代御前が処刑され、承久の乱(一二二一)で敗れた三浦胤義の、九つをかしらとする四人の子

延命寺・逗子の地名由来 逗子市

奈良時代、天平年中 行基菩薩が開基せられ御自作の延命地蔵菩薩像を安置し本尊とされたのが延命寺の由来です。平安時

神武寺 幕府の祈願所 逗子市

千二百七十年以上前の神亀元年(七二四)聖武天皇の勅願により、行基が開山したお寺です。源頼朝が、平家追討祈願のため堂

岩殿寺 逗子市

坂東三十三ヶ所観音、第二番札所の岩殿寺です。千三百年以上前の養老六年(七二二)、行基によって開山されたこのお寺は、行基

法性寺 白猿が三匹 逗子市

鎌倉時代の文応元年(一二六○)、日蓮は「立正安国論」をあらわして、念仏宗をはげしくそしり、また辻説法でさかんに非難を

多摩川梨 長十郎 橘樹郡

その歴史は江戸時代の中頃からはじまりますが、明治二一年頃から多摩川下流の大師河原に住む当麻長十郎さんによって、本格的

姥島(烏帽子岩) 茅ヶ崎市

海の上に、尖って見えている岩をうば島といいます。、又の名を烏帽子岩とも呼んでいます。鳥帽子,とは昔、殿中などで、大名達が

湘南大橋(馬入川) 茅ヶ崎市と平塚市間

橋の長さは、およそ七○○メートルで、下を流れている馬入川は、全長一二○キロに及ぶ大変長い川です。源は、富士五湖の一

大崩 名の由来 長者ヶ崎から

永正九年(一五一二)、三浦道寸義同は、北条早雲に、岡崎城(伊勢原市)住吉城(神奈川県逗子市小坪)と次々におとされ、油壷の

島崎藤村の墓 大磯町

地福寺に明治、大正、昭和の三時代にわたって活躍した、文豪島崎藤村のお墓があります。藤村は、大磯の風光をこよなく愛した

鴫立庵 西行の旧跡 大磯町

。西行法師は、平安時代、朝延に仕えた美男の武士で、本名を佐藤教清と申しましたが、世の中の無情を感じてお坊さん

高麗山 大磯心中 大磯町

高麗山には、遠い昔、中国の人達に依って建てられた、高麗神社があり、江戸時代の浮世絵の大家、安藤広重の東海道名所図絵

大磯丘陵・高麗神社 大磯町

一名を大磯丘陵といって丘陵の一ばん左の山が大磯の名所、高麗山です。遠く一三○○年以上の昔、高麗の人々によって丘陵の

大磯町国府 国府町

地方には、国府とか府中という地名が、たくさんありますが、これは今からおよそ千二百年前に行なわれた、大化の改新に

二の宮  長寿の里 二宮町

昔からみかんの産地として知られた所です。この町は、一名を「長寿の里」といって長生きをする方が多いのですがこれも、この

袖ヶ浦 命名由来 二宮町

袖ヶ浦という名前は、吾妻神社にお祀りされている、日本武尊(やまとたけるのみこと)のお妃、弟橘媛(おとたちばなひめ)の片袖

諏訪神社・湯立獅子舞 箱根町

諏訪神社に伝わる「湯立獅子舞」は国の選択指定無形文化財と、県の重要無形文化財に指定されています。*湯立獅子舞:

江の島神社 江の島

江の島神社は江の島弁財天ともいい、辺津宮、中津宮、奥津宮の三社の総称です。千四百年以上前の、欽朋天皇十三年(五五二)に

杉山検校の墓 江の島

江の島神社・辺津宮の下に、杉山和一の分骨を納めた墓があります。慶長十年(一六一○)に生まれた彼は、盲目のため家を義弟

稚児ヶ渕 江の島

江の島神社・奥津宮を下ってきたところにある海蝕台地が、稚児ヶ洲です。むかし、建長寺の自休蔵主が稚児白菊に思いを寄

展望台 灯台 江の島

地上五十三・七メートルで、展望室は、眼下に大海原のひろがりを見て、伊豆から房総の山々をのぞむ、素晴しい眺望をほこって

江の島

周囲わずか二・二キロ、標高六十一・五メートルの江の島はむかしから東に房総の山々を見わたし、南に伊豆大島をながめ、西に

竜口寺 日蓮法難 藤沢市片瀬

日蓮の「竜の口の法難」で知られる、日蓮宗霊跡寺院のひとつ竜口寺です。寺のあるあたりは、鎌倉幕府の竜の口の刑場があ

丹沢山脈 関東三不動 北西部に広がる山地

中央にそびえる丹沢山(一、五六七メートル)の名を取って呼ばれておりますが、たくさんの谷が山肌をえぐり、大変複雑な山地をな

三浦郡葉山町 

明治二十年ごろ、ドイツ人の医師ペルツが、温暖な気候と、おだやかな風光の葉山を、保養地として大変適していると紹介し、別荘

葉山御用邸 三浦郡葉山町

今ある御用邸は、昭和四十六年に焼失しましたあと、五十六年に建てなおされたものです。大正天皇は、大正十五年十二月二

長者ヶ崎 三浦郡葉山町

先端まで五百メートルほどあり、右に江の島をのぞみ、左に笠島、天神島、荒崎などを見わたすここのできる、美しい岬です。昔、

森戸神社 三浦郡葉山町

治承四年(一一八○)、源氏再興の旗上げに成功した源頼朝が、三島明神をここに勧請したのが、神社のはじまりだといわれています

 

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江の島神社

 

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江の島

 

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 江の島海岸の夕暮れ

 

初声町 地名由来  三浦市

入江、高円坊、下宮田、三戸、和田の五つの大字(おおあざ)をもっており、すこしさきの和田に、鎌倉時代の武将和田義盛の館の

引橋 地名の由来 三浦市

ここは油壷にあった新井城の大手にあたり、敵が攻めてきたときの防禦の第一線であったといわれています。大正十二年の、

チャッキラコ 乙女の踊 三浦市

毎年一月十五日、国の「重要無形民俗文化財」に指定されている、チャッキラコとよばれる少女の舞が三崎海南神社に奉納されます

三崎 マグロの街 三浦市

鎌倉時代、頼朝はこの地の風光をこよなく愛し、見桃寺、本瑞寺、大椿寺にそれぞれ桃御所桜御所、椿御所をつくり、なんども

油壷 地名の由来 三浦市

油壷という地名の由来は、いろいろな説がありますが、上からのぞくと、壷のような形をしており、また入江がふかいために

新井城跡 要害の城? 三浦市

油壷には、かつて新井城とよばれる、天然の地形を、たくみに利用して作られた要害の城がありました。相模の海に張りだした台地の

城ヶ島大橋 頼朝の宴 三浦市

三崎港が手ぜまになったため、対岸の城ヶ島を埋めたてて、この橋を架けることになりました。昭和三十三年に着工し、三十五年

城ヶ島 景勝五十選 三浦市

周囲わずか四キロ、東西一・八キロ、南北三百メートルの横に細ながい城ヶ島は、三崎港の天然の防波堤となっており、その

上宮田海岸 三浦市

いまでは、このあたりの海岸いったいを、三浦海岸と総称しています。江戸時代も初期のころ、上方の漁師が綿の肥料とするための

金田湾 水軍の激戦地 三浦市

今から四百七十年以上前、北条氏が三浦一族を減ぼして三浦半島に勢力をのばした後、安房の里見水軍に、幾度となく攻めた

金太郎にちなむ話 四天王 足柄市

金時山と金太郎とは、きってもきれない間柄にあります。金時山のふもとに、金太郎が山の上からけおとしたといわれる、「蹴落

金時山 金太郎の伝説 足柄市

金太郎の伝説でおなじみの金時山です。静岡県のほうからながめる金時山は、イノシシの頭のように見えるので、昔は、猪鼻岳

鶴間 地名由来 大和市

広漠たる相模野は、遠い昔から開発の手がのびなかったことが幸して、多くの野生の動物達が生息しておりました。そのため、

大楠山 横須賀市

三浦半島でもっとも高い、大楠山です。かつて、山頂に楠の老木があったため、この名があります。その山頂は平坦で、しかも

三浦一族 父子の恩讐 横須賀市

今から八百十年以上前の治承四年(一一八○)八月十七日、源頼朝が伊豆で、源氏再興の旗上げをしましたが、衣笠城を本拠地

久留和海岸 石の中に小石 横須賀市

夏には海水浴でにぎわうこの海岸には、石の中に小石をもっているという、たいへん珍しい石があり、古来この石は、子宝石

秋谷 安藤広重 横須賀市

海中に立つ、高さ十二メートル、周囲三十メートルの大きな岩は「秋谷の立石」とよばれ、相模の海をへだててみる、丹沢、箱根

浄楽寺 横須賀市

文治五年(一一八九)和田義盛が、源頼朝の祈願所として建てた、浄楽寺です。本尊の阿弥陀三尊像、毘沙門天立像、不動明王

三笠公園・名艦三笠 横須賀市

日本海海戦時(明治三十八年五月二十七・二十八日)の連合艦隊旗艦の三笠がおかれている、三笠公園です。排水量一万五

浦賀 横須賀市

八百年以上前のむかし、鎌倉幕府は、鎌倉の外港として金沢(六浦)、榎戸、浦河(浦賀)に港をひらき、天然の良港として広く

浦賀奉行所・番所跡 横須賀市

享保五年(一七二○)江戸幕府は、下田においていた奉行所と番所を、浦賀にうつしました。番所は海の関所のようなもので、江戸

浦賀造船所 横須賀市

浦賀での造船は、嘉永六年(一八五三)わが国初の洋式帆船・鳳鳳丸をつくった時にはじまります。江戸幕府は、ながいあいだ

満昌寺・三浦大介義明の墓 横須賀市

建久五年(一一九四)、頼朝が、三浦大介義明の遺徳をしのんで建てた、といわれています。境内には建暦二年(一二一二)に、

観音埼灯台 横須賀市

江戸のむかし、江戸湾にはいる船の安全のために、岬に常夜灯が置かれてありましたが明治二年一月一日、わが国最初の洋式灯台

戦没船員の碑 横須賀市

三角形の白い石の頭は戦没船員の碑です。第二次世界大戦では、多くの人の生命がうばわれましたが、わが国の海運水産界

衣笠城址 横須賀市

衣笠城は、鎌倉幕府直前の三浦氏の居城でしたが、治承四年(一一八○)八月、源氏再興の旗上げをした源頼朝に味方し、畠山

曹源寺 法隆寺に匹敵 横須賀市

その昔、いまの東京がまだ入江や、湿地帯におおわれていたころ、東海道は三浦半島を横断して、房総へ海をわたったのですが

夫婦橋 少女を犠牲に 横須賀市

下の流れは三浦半島でもっとも長い(十一キロ)平作川です。この川については、次のような哀話があります。内川新田の開発の

ペリー上陸記念碑 横須賀市

黒船四隻をひきいて現われたペリーは、嘉永六年(一八五三)六月九日、ここに上陸したのです。彦根藩兵をはじめ、三千余の

天神島臨海自然教育園 横須賀市

小田和湾の入口に、岩礁にかこまれた天神島と笠島があります。この島では、七月から八月にかけて、傘形の白い花をつけた

 

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城ヶ島の磯

 

猿島 日蓮上人 横須賀市

周囲わずか一・二キロのあの島の名前には、日蓮上人にまつわる話がのこされています。今から七百余年以上前の建長五年

ヴェルニー公園 横須賀市

かつては臨海公園の名で親しまれてきました。公園のなかほどに、フランス人技師ヴェルニーと、開国当時勘定奉行であった

一騎塚 横須賀市

建暦三年(一二一三)三浦一族の和田義盛は、鎌倉三代将軍実朝の執権北条義時、と、真っ向からぶつかる、のちの和田合戦

武山・武山不動 横須賀市

三浦半島で大楠山につぐ高さをもつ武山です。この山を名のある山にしたのは、山頂に祀られている武山不動でしょう。四百年

三浦富士 横須賀市

形が富士山に似ているばかりではなく、頂上には富士山信仰とつながりをもつ、浅間神社が祀られてあり、その登拝は江戸時代から

長岡半太郎記念館 横須賀市

若山牧水夫婦歌碑のまむかいの建物は、長岡半太郎が住んでいたという邸を復元した、長岡半太郎記念館です。明治三十六

若山牧水夫婦歌碑 横須賀市

海がわの碑面には「しら烏は かなしからずや そらの青 海のあをにも そまずただよふ  牧水」「うちけぶり 鋸山も 浮び来

明治憲法草案起草之跡 横須賀市

かつては緑のこんもりとした、夏島とよばれる小さな沖の島でした。大正末期、海軍航空隊をおくために埋めたてられています。

三浦按針塚 横須賀市

三浦按針は、本名をウイリァム・アダムスとというイギリス人です。慶長五年(一六○○)、オランダ船リーフデ号で豊後の国に

走水伝説 横須賀市

走水の名は、浦賀水道の潮の流れが、たいへん速いところからおこったということです。景行天皇の頃、ヤマトタケルノミコトがが

走水神社 包丁塚 横須賀市

ヤマトタケルノミコトは上総の国へむけて船出をするとき、冠をのこして行きましたが、これを土地の人が石櫃(せきひつ)におさめ

東叶神社 浦賀の総鎮 横須賀市

浦賀の総鎮守東叶神社です。江戸時代の昔、正保元年(一六四四)、浦賀港をはさんだむこう側にある、西叶神社から勧請し

鷹取山 横須賀市

妙義山に似ているところから、「湘南妙義」の異名もありますが、あの峨々たる姿は、明治から昭和の初めころまで、敷石、石段、

馬堀海岸・名馬 美女鹿毛 横須賀市

鎌倉に幕府のひらかれるすこし前の時代、安房の国にいた荒潮という暴れ馬が、あるとき泳いでこの先の走水にやってきて、前の

佐藤春夫 旧住居 横浜市

鶴見川の上流には、かつて、中里村字鉄(あざくろがね)とよばれた鉄町(くろがねちょう)があります。ここは大正五年に

ふるきよき横浜 横浜市

横浜は、生糸の輸出が中心でした。ヨーロッパでは蚕の病気がはやって生糸がなく、中国産よりも品質のよい日本のものがもて

瀬戸神社 武将の信仰 横浜市

今からおよそ八三○年以上前の治承四年(一一八○)、源頼朝は源氏再興の旗上げの時、伊豆の三島明神に戦勝を祈念念しました。

山下公園  横浜市

臨海公園として、わが国最初のこの公園は、大正十二年の関東大震災で、横浜の町が一瞬のうちに焼け野原と化した後

市ケ尾横穴墓群 横浜市

昭和八年に発見されて以来三回にわたって調査され、二十基もの横穴墳墓が確認されました。市ヶ尾横穴墓は、全国で初め

真福寺 釈迦如来 横浜市

真福寺の創建はつまびらかではありませんが、県の重要文化財に指定される本尊の千手観音立像は、平安末期の作と伝えら

稲荷前古墳群  横浜市

市ケ尾横穴墓群より更に奥には稲荷前古墳群があります。昭和四十二年に宅地造成中に発見された六世紀頃の遺跡で、前方

こどもの国  横浜市

今上天皇の御成婚記念事業の一つとして、昭和四十年五月五日に開園した、「こどもの国」があります。もと、陸軍の弾薬庫だった

亀甲山 太田道灌 横浜市

五百年あまり昔、文明十年(一四七八)、長尾景春と山内・扇谷両上杉とが対立し、上杉の家臣であった太田道灌は、景春の家臣

薬王寺 畠山一族 横浜市

いまから八百年以上前、元久二年(一二〇五))六月、重忠の子重保が北条時政のはかりごとによって鎌倉・由比が浜で殺さ

杉田梅林 横浜市

杉田はかつて、「梅は杉田か、杉田は梅か」とうたわれたほど、梅の郷としてしられていました。戦国時代もおわりのころの天正年間

洲崎神社 頼朝勧請 横浜市

治承四年(一一八○)、源氏再興の石橋山の合戦で敗れた源頼朝は安房へのがれ、安房洲崎の安房神社に戦勝をいのりまし

本覚寺 アメリカ領事館 横浜市

安政六年(一八五九)の横浜の開港にともない、それまで下田の玉泉寺に宿をとっていたアメリカ合衆国のタウゼント・ハリ

東漸寺・名刹 横浜市

この寺には、永仁六年(一二九八)に鋳造された、国の重要文化財の”永仁の鐘”があります。この焚鐘は称名寺の鐘と同じ、物部

金沢八景 名のはじまり 横浜市

能見台駅と、金沢文庫駅のあいだに能見堂という草庵のあとがあります。昔からそのあたりは、眺望のよい所としてしられて

金沢文庫 広重の浮世絵 横浜市

鎌倉幕府の評定衆などをつとめた、北条実時はたいへん学問をこのみ、国書、漢籍、仏典などを多くあつめ、それらをおさめ

 

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金沢文庫 称名寺 浄土庭園

 

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三笠公園

 

瀬戸橋  瀬戸の秋月  横浜市

昔は、入江が金沢文庫駅よりさらにおくまで深くはいっており、この橋のあたりは潮の満ち干の激しい瀬戸になっていました

能見堂跡 横浜市

その昔、ここに能見堂といわれるところがありました。旧保土ヶ谷道に面した、大変ながめのよいところで、平安時代初

上行寺  日蓮の問答 横浜市

建長六年(一二五四)このお寺で、日蓮が法華寺の開基富木五郎と問答をして、屈服させたという、有名な話が           

直木三十五の墓   横浜市

大衆文学を純文学の域にまでひきあげた直木三十五は、死の前の年、昭和八年(四十一歳)に富岡にうつり、その住居跡には、有名な「芸


侍従川 名の由来  横浜市

お芝居の小栗判官照手姫でおなじみの照手姫が、この金沢に逃れて姿をかくしておりますと、姥が粧具をたずさえ姫を尋ねて

小机城跡  太田道潅 横浜市

小机城の名がはじめて歴史の舞台に登場したのは、今から五二○年以上前の文明一○年の事でした。当時、武将として聞え

西方寺  源頼朝 横浜市

西方寺は建久六年に(一一九五)源頼朝によって建立されたお寺です。もとは鎌倉にありましたが、室町時代になってこの地に移されま

定泉寺  田谷の大洞窟 横浜市

定泉寺は弘法大師が開き、いまからおよそ四百六十年以上前の天文元年(一五三二)に、隆継法師が中興したといわれていま

総持寺 曹洞宗の大本山 横浜市

もともと石川県の能登にあった総持寺は、明治三十一年の大火で堂塔・伽藍のすべてを灰にしてしまい、再建にあたって

関家の住宅 横浜市

関家はこの土地の旧家で、カヤ葺きの母屋をはじめ、書院や表門は国の重要文化財に指定されております。

三ツ池公園 横浜市

その名が示すように、三ツの池を中心にしてつくられた公園で、神奈川県横浜市内でも有数の桜の名所です。鶴見川は、

生麦事件 薩英戦争 横浜市

「生麦事件の碑」が建てられてあります。生麦事件の起ったところです。幕末も近い文久二年(一八六二)八月二十一日、

弁天橋 船の帆 横浜市

下の流れは大岡川です。まだ鉄道がしかれる前、この橋よりむこうは、松風の波にひびく美しいながめの海で、そこの洲に

桜木町駅  横浜ステーション 横浜市

明治五年、新橋と横浜のあいだに、わが国ではじめて陸蒸気がはしり、その、ときの「横浜ステーション」がこの桜木町駅

大桟橋  メリケン波止場 横浜市

「窓を開ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える」歌に唄われたメリケン波止場の名で親しまれる大桟橋

神奈川県庁  キングと愛称 横浜市

回廊でつながれた、十一階建てのビルは、昭和四十一年に完成した新庁舎です。安政六年(一八五九)、いまの税関のような仕事を

旧イギリス領事館跡 横浜市

旧領事館と、隣の新しい建物に、主に開国および開港当時の資料をあつめ、昭和五十六年六月二日の開港記念日から

根岸森林公園  近代洋式競馬の発祥 横浜市

根岸は近代洋式競馬の発祥地として知られています。昭和五十二年に開園した根岸森林公園は、公園の外まわりを樹木で

開港記念会館 横浜市

明治四十二年に開港五十年を記念して建てられた開港記念会館です。四方に時計がはめられてある高い塔は、昔、異人さんからチェス

岡倉天心生誕の地  アジアは一つ 横浜市

開港記念館の入口のわきに、「岡倉天心生誕之地」の碑があります。文久二年(一八六二)、この地で産声をあた岡倉天心は

三渓園 横浜市

戦後は一時、荒れるにまかせていましたが、昭和二十八年、原家より財団法人三渓園保勝会の手にうつされ、のち、五年の歳

臨春閣  紀州徳川家 横浜市

江戸時代初期の慶安二年(一六四九)、紀州徳川家が、紀ノ川ぞいに建てた夏の別荘・巌出御殿であったといわれる臨春閣で、大正六年

旧天瑞寺の寿塔覆堂  豊臣秀吉 横浜市

京都大徳寺内、天瑞寺の寿塔の覆堂は、豊臣秀吉が母の長寿を祝って建てた、桃山時代初期の建築物です。明治三十五年

旧燈明寺三重塔  最古の塔 横浜市

三重塔は、京都府加茂の燈明寺にあったものを移したもので、室町時代の長禄元年(一四五七)頃に再建したとみられます。

旧矢箆原家住宅 横浜市

岐阜県の荘川村から移築されました、国の重要文化財です。入母屋合掌造りの建物で、宝暦年間(一七五一~六一)に建てられたものと

三溪園  九棟の重要文化財 横浜市

生糸貿易で財をなし、関東大震災後の横浜の復興に力をそそいだ実業家・原富太郎の本邸だったのが三溪園です。三溪園は

春草蘆  織田有楽斎 横浜市

春草蘆は月華殿が、宇治三室戸寺金蔵院の客殿であったときに、それに付属していた茶室九窓亭で、織田信長の弟・織田

聴秋閣  茶亭 横浜市

聴秋閣は、元和九年(一六二三)、三代将軍徳川家光が佐久間将監に命じて、京都二条城庭園内に建てさせた、二重の楼閣建築

天授院 横浜市

原家の持仏堂だった天授院です。国の重要文化財に指定されている天授院はもと鎌倉の建長寺の近くにあった心平寺

東慶寺の仏殿  縁切寺 横浜市

縁切寺として有名な鎌倉・東慶寺の仏殿です。屋根ははじめ入母屋造りでしたが、寄棟造りに改められてはいますが、禅宗様式

 

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三渓園

 

八聖殿 …聖徳太子、弘法大師、孔子、釈迦… 横浜市

三渓園のむこうの小高い丘に、八人の聖人をまつった八聖殿があります。昭和八年、ときの内相安達謙蔵が、国民精神修

マリンタワー 横浜市

開港百年を記念して計画され、昭和三十六年一月にできあがった、船と港の博物館です。高さは一○六メートルもあり、

中華街 横浜市

安政六年(一八五九)の横浜の開港と同時に、欧米人の使用人として多くの中国人がやって来て、幕府のさだめた外国人居留地のいくつか

シルクセンター国際貿易観光会館 横浜市

開港百年を記念して、昭和三十四年に建てられたシルクセソターです。二、三階が、わが国で唯一のシルク博物館になってお

氷川丸  太平洋の女王 横浜市

昭和五年に進水し、「太平洋の女王」とうたわれた氷川丸は、昭和三十五年十月、最後の航海にでて、三十年のながいつとめ

大仏次郎記念館  鞍馬天狗 横浜市

鞍馬天狗の生みの親である大仏次郎は、横浜に産声をあげ、こよなく横浜を愛した作家でした。山下公園をのぞむホテルニューグラ

港の見える丘公園 横浜市

昭和三十七年に開園したこの公園は、その名のとおり港が一望でき、ことに夜景の美しさはミナト横浜ならではのエキゾチシ

ゲーテ座跡 横浜市

明治十八年、わが国の近代演劇に大きな影響をあたえたゲーテ座が、港の見える丘公園の入口ふきんに建てられました。

外人墓地 横浜市

嘉永六年(一八五三)、ペリーが軍艦四隻をひきいて久里浜に開国をもとめて上陸しましたが、翌年その返事をもらいに江戸湾にはいって

港崎遊郭 異人に肌はふれさせません 横浜市

安政六年(一八五九)、諸外国と幕府のあいだで、遊郭をつくることがとりきめられ、現在横浜公園のある場所に、総面積

横浜公園 横浜市

明治九年、イギリスからわざわざ芝生をとりよせ、港崎遊郭跡に西洋式につくった、日本人と外国人が共同でつかう「彼我公

横浜駅三代 横浜市

初代横浜駅は明治五年十月十四日(現在鉄道記念日)、新橋と横浜のあいだに蒸気機関車が走ったときのもので、いまの桜木町駅が

掃部山・井伊掃部頭直弼の銅像 横浜市

井伊掃部頭直弼(かもんのかみなおすけ)の銅像が、横浜の港を見つめて立っています。佐幕か棲夷かで、わが国が大きく

王子神社  宿駅 横浜市

古くから宿駅がみられ開た所です。奈良、平安の頃の東海道の駅路は足柄峠を越えて坂本に下ると言うように山際の道

日枝神社(お三の宮)  太田道灌 横浜市

吉田新田を開発した吉田勘兵衛は、新田の発展を願って、寛文十三年(一六七三)現在の南区山王町に山王権現を祀りました。これは

宝生寺  太田道灌 横浜市

平子氏によって開かれた真言宗の寺で、嘉吉二年の古文書は、横浜という地名がみられる最古の文書として知られ、

蒔田町  吉良氏 横浜市

蒔田町は吉良氏ゆかりの地です。この地にあった吉良氏は、蒔田町清水台の小高い丘の上に、蒔田御所とよばれる館を築き

 

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港の見える丘公園

 

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神奈川県庁

 

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総持寺