旅先の歴史ものがたり・宮城

 

 

宮城県には、知られざる物語があります。



町や村などの成り立ち、


その町や村にこそ他の地域には見られない物語があります。


「面白い感動話」「歴史や伝統」「男の女の哀しい物語」


「地域ならではの温泉の由来」「歴史的な神社仏閣」


「歴史上活躍した人物の横顔」「哀れな城跡や址」


「町や村、施設の命名縁起」「宮城県ならではの特産物」


「国指定の国宝・重要文化財」など。
 
旅に出たら、単なる物見遊山ではなく、こうした地域を代表する人間物語


を訪ねてみたいものです。


旅のその先に……新しい発見が。


それこそが「旅の醍醐味」ではないでしょうか。 

 

蔵王お釜.jpg 

 

栗駒山  宮城、秋田・岩手

栗駒山(標高一六二八)は、岩手、宮城、秋田の三つの県にまたがっております。コニーデ型の美しい山で

さんさ時雨  

宮城県の代表的民謡である”さんさ時雨”は伊達政宗が宿敵芦名氏を磐梯山のふもと摺上原で破ったときに

伊達騒動・寛文事件

江戸時代前期、仙台藩に起こった御家騒動を一般には伊達騒動といいますが、仙台藩では寛文事件とよんでいます。

不忘山

標高一七○五メートルの不忘山は御前岳ともいい、杉ヶ峰、屏風岳とともに南蔵王と呼ばれています。

北羽前街道

仙台から鳴子、舟形を経て酒田に通じる街道でした。徳川初期にはすでに使われていたといわれ、当時は今と違って

蔵王山

その姿は雄大で、宮城県と山形県の境をなしています。中央に裾を引いた山が蔵王の主峰熊野岳で、その左の円い感じの山が

蔵王連峰

蔵王の名で親しまれている国定公園の蔵王連峰は、奥羽山脈の南部に位置し、山形、宮城両県にまたがる東西八キロ、

万石浦  石巻市

入江は万石浦といい、海続きになっています。昔は奥の浦といいましたが、伊達藩二代目の伊達忠宗が、この地で鹿狩りをした時に

石巻市 

伝説によりますと、仁徳天皇の御代に、蝦夷征伐に派遣された上毛野田道(かみつけのたじ)が「陸奥の国伊寺水門(いしのみと)に死す」と

金華山  石巻市鮎川浜 

奈良時代の天平勝宝元年(七四九)に、陸奥国でわが国ではじめて金が産出され、当時大仏(東大寺大仏)を建立していた朝廷に、献納された

鹿山公園・土井晩翠碑  石巻市鮎川浜

鹿山公園の一角に、詩人土井晩翠の「金華山より太平洋を望みて」の一節を誌した、詩碑が建っています。晩翠が若い頃、金華山の頂上に

黄金山神社  石巻市鮎川浜

金華山の西側の山腹にある神社で、金属の神様といわれる金山毘古命(かなやまひこのみこと)、金山毘売命かなひめのみこと)を祀って

桃生城跡  石巻市飯野

茶臼(ちゃうす)山は、北上川を前に控え、要害の地であったことから古く奈良時代に蝦夷征伐のために、砦が築かれていました。

鋳銭場跡  石巻市鋳銭場

仙台藩が享保年間(一七一六〜一二六)に開設した銭座がおかれ、銅・鉄鋳「寛永通宝」や「仙台通宝」が鋳造されました。

なぞの観音像十一面観音  石巻市牡鹿地区

牡鹿半島の南端部と金華山、網地島を含む町で、中心は鮎川港です。平地が少いため、町民の大半は漁業で、特に鮎川は、近海捕鯨

亀ケ森八幡神社  石巻市相野

この神社はむかし、八幡太郎義家が蝦夷征伐のときに、京都の石清水八幡を勧請して、創建したと伝えられ、のちに文治五年

鹿又  石巻市鹿又

この鹿又は、今から約四百年以上前の天正年間に、石巻の葛西氏の家臣で高橋通吉という人が開拓したところです。当時、川が

旭山県立自然公園・旭山観音堂  朝日山

標高一七四メートルの旭山です。県立自然公園に指定され、全山に桜の木が密生しているので、春は花の名所として親しまれています。

日和山公園(石巻城跡) 石巻市日和が丘

石巻城跡は、いま日和山公園とよばれ、石巻市街はもとより牡鹿半島や、奥松島も展望できる、たいへん眺めのよいところです。

一皇子宮神社  石巻市湊大門

牧山の登山口に当り、後醍醐天皇の皇子護良親王の、埋葬されているところとされています。護良親王は、建武の中興で活躍

梅渓寺  石巻市湊牧山

標高二五○メートル、日和山とともに、石巻市内を一望におさめる、展望台となっています。頂上には曹洞宗の名刹梅渓寺が

山田金山跡  石巻市桃生町

昔は「山田金山家千軒」といわれ、この附近の金の産地の中心として、大いににぎわったところです。奈良朝時代、有名な奈良の

鳴子峡  大崎市

鳴子と中山平を結ぶ大谷川の四キロにわたる峡谷は、石英粗面岩の台地を大谷川がけずって作りあげたもので、高さ八○○メートル

鳴子こけし  大崎市

こけし人形は、いうまでもなく東北地方独特の、木製の人形ですが、鳴子のこけしの特徴は、頭の描き方にあり、胴模様は菊とか

鳴子町   大崎市

鳴子町は宮城県の西北部にあって、西は山形県戸北は秋田県に接し、鳴子と鬼首の二つの温泉郷を抱える、東北を代表する温泉の町

岩出山町・岩出山城  大崎市

この町は、伊達政宗が仙台に移る前の十三年間、住んでいたところで、この間に、政宗は着着と領地をひろげ、その基礎を築きました。

池月  大崎市岩出山

池月という地名で思い出されるのは、源平の戦いで、宇治川の先陣争いをした、佐々木四郎高綱の乗った、馬のことでしょう。

有備館  大崎市岩出山

岩出山町は伊達家ゆかりの建物や名勝がいくつか残されています。その代表的なものに有備館があります。これは、寛文三年

川北横穴古墳群  大崎市岩出山

今から千四、五百年前に作られたもので、横穴で有名な埼玉県の吉見百穴の三○○基をはるかに越える一三○○基以上の横穴が

鈴木辰女  大崎市三本木

鳴瀬川のすぐそばに、天性寺というお寺があります。そこには、鈴木辰女のお墓があります。昔、この村に鈴木八五郎という役人がおり、

川渡温泉  大崎市鳴子温泉

この川渡は、鳴子温泉郷の一つで、昔から、脚気に大層よくきく温泉とされています。鳴子温泉郷は、もと玉造八湯(はっとう)と呼ばれ

中山平  大崎市鳴子温泉

この集落は北羽前街道の宿場として栄え「中山宿」とよばれていました。天正一九年(一五九一)伊達政宗が米沢から岩出山に

鳴子温泉  大崎市鳴子温泉

俗に”脚気川渡かさ鳴子”、といわれる鳴子温泉郷は、県立自然公園玉造温泉郷の中心をなし、川渡、東鳴子、鳴子、中山平、鬼首等、各温泉

鳴子こけし  大崎市鳴子温泉

こけし人形はいうまでもなく東北地方独特の木製の人形ですが、鳴子のこけしの特徴は頭の描き方にあり、胴模様は菊とか紅葉など写実的

地熱の開発利用  大崎市鳴子温泉郷

鳴子温泉を中心としたこの辺り一帯には、蒸気の噴き出している所が大変多く、地元では、宮城県地熱利用組合と協力して井戸を掘り、

中山平温泉  大崎市鳴子温泉郷

中山平は県立公園鳴子温泉郷の中に含まれ、鳴子八湯の一番のはずれにある、いで湯の里です。ここには蛇の湯、吹き上げなど八つの温泉が

東鳴子温泉  大崎市鳴子温泉

玉造八湯のうち、田中と赤湯を含む温泉で、特に赤湯は「赤梅の星」と呼ばれ、一、○○○年の歴史を伝えています。

鳴子熱帯植物園  大崎市鳴子温泉

雪深いこの地にハワイの花が咲き、バナナが見事にみのり、サボテンの花が咲くこの鳴子熱帯植物園は、約八○○平方メートルの広さをもち、

陣ケ森  大崎市鳴子温泉

天正十六年春、宮城県の中央部を治めていた、大崎家十二代義隆の歓心を得ようと、家来同志の争いがおこり、やがて義隆と大崎家の

尿前の関  大崎市鳴子温泉

芭蕉の「のみしらみ 馬の尿(しと)する 枕もと」の句で知られる尿前の関跡があり、奥の細道に「小黒ヶ崎、美豆(みつ)の小島をすぎて鳴子の

大深沢橋  大崎市鳴子温泉

鳴子峡にかけられた大深沢橋です。目の下八○メートルの所にしぶきをあげている渓流や、渓谷の真中に大きく突き出た岩とが

鳴子峡   大崎市鳴子温泉

鳴子と中山平を結ぶ、大谷川の四キロにわたる峡谷は、石英粗面岩の台地を、大谷川がけずって作りあげたもので、高さ八○メートル余りの岩の

化女沼   大崎市古川

昔、沼のほとりに豪壮な構えを持った、長者の館がありました。長者夫婦には一人の美しい娘がいて、朝な夕な姿を水面に映して、

日光山古墳群   大崎市古川

荒雄川を眼下に見下す日光山丘陵一帯は、日光山古墳群として、大小十四基の古墳があります・眺望は素晴らしく、

小野小町の墓  大崎市古川

平安朝時代の、伝説の美女小野小町の墓です。「花の色は 移りにけりな いたずらに 我が身 よにふるな がめせしまに」と百人一首に

緒絶橋  大崎市古川

緒絶橋は、緒絶川にかかっている橋で、伝説を持つ橋です。昔、時の帝の側室、お妙姫が、皇后のそねみを受けて、遠いとのみちのくの

古川城跡  大崎市古川

室町時代、奥羽総奉行となった大崎氏の家臣で、古川刑部という人が開いた城で、その後、二四○年に亘って、大崎氏の家臣が居城と

片倉小十郎景綱・重長・景長  置賜郡

初代片倉小十郎景綱は、出羽国置賜郡下長井庄宮村(現長井市)で、米沢八幡社の神官景重の子として生まれました。景綱が伊達輝宗(政宗の父)

女川町   牡鹿郡

女川町は宮城県の東の端に当り、牡鹿半島の基地であるとともに、県内屈指の漁港です。東洋一といわれた日本水産の鯨処理工場がありま

牡鹿コバルトライン  牡鹿郡

この道は、牡鹿半島県立自然公園の景観を、一望のうちに収めることが出来る観光用のもので、女川町から、半島の突端まで二九・四キロメー

青麻山   刈田郡蔵王町

青麻山は遠刈田温泉の南にそび室え、東西に長く裾を引いた美しい山です。古くは遠刈田山と称されたことがあり、その優美さから

お釜   刈田郡蔵王町

蔵王のお釜は樹氷と並んで蔵王連峰の象徴ともいうべき典型的な火口湖です。お釜は、熊野岳と刈田岳の中間にある馬の背の東側に横たわる湖

蔵王町   刈田郡

蔵王町は県の南部に位置する町で、東は白石市、西は蔵王連峰を境として山形県に接し、中央蔵王、南蔵王と呼ばれる

樹氷   刈田郡蔵王町

樹氷は、高山だけに見られる美しいものです。冬、日本海の水蒸気を含んだ季節風が朝日連峰に突き当たり、上昇して冷され、強い

遠刈田温泉  刈田郡蔵王町

遠刈田温泉は、蔵王エコーラインの基地ともいうべき温泉で標高三三○メートルの所にあります。昔は湯刈田と呼ばれていました。金売吉次

我妻家住宅  刈田郡蔵王町

我妻家は、享保十五年(一七三○)の建築で、重要文化財の指定をうけております。曲竹地区にある大規模な古民家で、桁行二六・三メートル

こまぐさ平  刈田郡蔵王町

こまぐさ平は高山植物の駒草が咲き乱れる所で、この地名があります。コマクサは高さ一○センチ〜二○センチの多年草で

滝見台  刈田郡蔵王町

三階の滝(一八一メートル)、不動の滝(五四メートル)、地蔵滝(四二メートル)など、見事な滝が見られます。三階の滝は、水が三段に

不動滝   刈田郡蔵王町

不動滝は蔵王山中では最も規模の大きな滝で、高さ五四メートル、巾は約一六メートルほどあります。傍らに大きな不動様が祀られ、蔵王

こけしの里  県刈田郡蔵王町

東北の風土のなかに生まれ、育くまれたこけしは大正の末頃までは子供にとっては何よりの遊び相手でした。こけしの作り手である木地屋

 

樹氷2.jpg

 

樹氷

 

刈田嶺神社  刈田郡蔵王町

刈田嶺神社は白鳥大明神とも呼ばれ、一八○○年ほど前に建立されたお社で、日本武尊が祀られます。眼下に白石川と松川の合流点を望み

乙女ゆりバイオセンター  刈田郡七ヶ宿町

内川橋の手前を右に行きますと七ヶ宿の町の花、乙女ゆりのバイオセンターがあります。乙女ゆりはうす紅色の可隣な花で、この南東北

蔵王権現  刈田郡七ヶ宿町

蔵王権現は、役(えん)の行者で知られる山岳信仰の霊地、奈良県の金峰山が本尊になっています。全国各地に蔵王信仰が広まり、今から

七ケ宿町  刈田郡

白石市の西にあたる七ヶ宿町は、山形と福島の両県と境を接し、酪農と水源の町として知られ、豊かな自然が今でも残されている美しい町です。

七ケ宿街道  刈田郡七ヶ宿町

現在の福島県桑折町から山形県の上山市へ通じる街道ぞいに、上戸沢・下戸沢(現白石市)渡瀬・関・滑津・峠田・湯原(現七ヶ宿町)の

硯石の伝説  刈田郡七ヶ宿町

長老湖のさらに先、白石市との境に硯石というところがあります。ちょうど不忘山の南の麓に横たわる、長さ約四メートル、幅約二メートルの

二井宿峠  刈田郡七ヶ宿町

その昔、藩政時代のこの道は、湯原の宿駅をぬけると、ひときわ険しい峠道となりました。それでもこの峠をたくさんの人と物資が越えて

七ケ宿ダム(七ケ宿湖) 七ヶ宿町

宮城県で一番大きなダム、七ヶ宿ダムです。七ヶ宿ダムの一日の貯水量は、東京ドーム九○杯分にあたり、高さは地上十八階建てのビル

稲子  刈田郡七ヶ宿町

昔は仙台藩の番所が置かれていたところです。また、途中にある稲子峠周辺には木地師の集落がありましたが、今から約二七○年前に

長老湖  刈田郡七ヶ宿町

関の町に入る手前、白石川の支流の横川が流れています。横川にそって登ってゆきますと、横川地区に出ます。そこは昔、木地師

  刈田郡七ヶ宿町

七ヶ宿街道の関宿は、全盛期には一夜に二○○人もの人を泊めたという、関本陣があったところで、本陣跡には庭園の一部

湯原  刈田郡七ヶ宿町

二井宿峠へと向かう最後の宿場だった湯原です。町内には、伊達政宗の開基という曹洞宗の鹿園山東光寺があります。もと米沢に

安藤家本陣  刈田郡七ケ宿町

滑津宿は参勤交代のとき、大名が宿泊したという切妻破風造、茅葺という重厚な造りの安藤家本陣があります。七ヶ宿街道の中で、

滑津大滝  刈田郡七ケ宿町

白石川の流れに滑津大滝があります。高さ約一○メートル、幅約三○メートルで川幅いつぱいを豪快に流れ落ちてゆきます。別名二段

振袖地蔵  刈田郡七ケ宿町

昔、参勤交代で江戸に向かう秋田の殿様が、美しい可隣な娘を滑津あたりで見初めました。後で娘をさがしたところ、娘はすでに亡く

親子松  刈田郡七ケ宿町

白石川にそって旧山中七ヶ宿街道があります。仲良くならんだ二本の松がありますが、江戸時代に伊勢神宮より賜わったものといわれ、

薬莱山  加美郡加美町

摺鉢のような形の山、加美富士の名で親しまれる薬来山(標高五五三)です。薬来山の名の起りは、天平七年(七三五)に疫病が流行した

千葉周作の出身地  栗原郡長岡村

荒谷は、奥道中唄に「寒いとてた かれぬものは 三本木 雪の古川 荒谷(あらや)つめたや」と唄われている所です。叉、幕末の三剣人

伊豆沼  栗原市

伊豆沼(国の天然記念物)は、秋のお彼岸近くになりますと、白烏、雁、鴨などが渡来します。なかには、カナダ産の雪のように白いハクガン

金成町  栗原市金成

金成町は、古くから「金生む里」と呼ばれ、藤原時代、むつの産物を京都に、京都の文化を東北に取り入れる事に協力した、三条吉次信高の

赤児  栗原市金成

藤原秀衡は、歌や踊りを大変好み、いつも数十人の少年を舞い踊らせて楽しんでおりました。その中に、「春風(しゅんぷう)」という賢い

姉歯の松  栗原市金成

姉歯に、高さ十メートル、三かかえもある姿の良い松がありますが、その松には悲しい物語があります。昔、岩手県の高田に美人姉妹が

姉歯横穴古墳  栗原市金成

奈良朝時代につくられた、地方豪族のお墓といわれています。昭和二十三年、台風によって、堤防が決壊した時に発見されたもので

高清水町  栗原市

高清水町は、大崎氏が城を築いた所で、後に伊達家の家臣、石母田氏が治めた城下町で、陸羽街道の宿場町として栄えた所です

杉薬師・双林寺  栗原市築館

一般に杉薬師の呼び名で親しまれております双林寺には、国宝の薬師如来が祀られています。この薬師如来像は、弘仁貞観時代

観音寺  黒川郡大郷町

平安朝のはじめ、延暦寺の慈覚大師によって開山されたと伝えられ、ここの不滅の法灯は、山形の立石寺と平泉の中尊寺とともに

一本杉  黒川郡大和町

大和町吉岡には、一里塚の名残りである大きな杉の木があります。慶長九年の頃(一六○四)徳川家康が、江戸日本橋を中心に、

田植踊り  黒川郡富谷町

富谷町は、仙台から約二○キロの所にある、山間の町で、かっては陸羽街道の宿駅としてにぎわいました。富谷、関の川に伝承される

 

大倉山  黒川郡大和町

標高四三二メートル、秋保盆地を目の下に、西に蔵王、船形、奥羽山脈の山たが連なり、東には太平洋が望まれます。山頂には

大和町  黒川郡

かっては奥州街道の宿場としてにぎわいをみせていたところで、元和二年(一六一六)伊達政宗の第三子、河内守宗清が、吉岡に城を

七ツ森  黒川郡大和町

泉ヶ岳の山裾にくっきり浮んでいる、大小七つの森は、七ツ森といわれる山です。「山の名を問えば 日脚(ひあし)も七ツ森 宿とらばやと

政宗の短気  黒川郡大和町

七ツの山で、一番高いのが笹倉岳で、高さ、五百メートル、頂上には洞があり、薬師如来が祀られております。この薬師様が、政宗の

吉岡八幡神社  黒川郡大和町

元和年間(一六一五〜一一四)の頃、政宗の第三子、宗清によって造営された神社で、木造かや葺きで本殿と拝殿が一つの屋根で

大島  気仙沼

三陸海岸で一番大きな島です。周囲約二十二キロ、島民のほとんどが漁業に従事しています。島は黒潮に洗われているため、冬でも

涙の松由来碑  気仙沼大島

大島の北部にある標高二百三十五メートルの山で、ここからの眺めは、はるか南の金華山にいたるまでの、壮麗なリアス式海岸や、

気仙沼市

気仙沼の呼び名は、アイヌ語の「ケセモイ」から来ており、その意味は「最終の港」。アイヌの勢力圏の、最南端の港ということです。平泉の

秀の山・横綱生家  気仙沼市

秀の山は、江戸末期の名力士で、身長は一メートル六十三センチの小兵でしたが、抜群の運動神経に恵まれ、弘化三年(一八四六)

亀山  気仙沼市

大島の北部にある標高二三五メートルの山で、ここからの眺めは、はるか南の金華山に至るまでの、壮麗なリアス式海岸や、東に突き出ている唐桑半島

五十鈴神社  気仙沼市魚町

今から六百年以上前の創建と伝えられる八雲神社、五十鈴神社があり、この両社があるため、神明崎と呼ばれているそうです。両社の

神明崎公園  気仙沼市魚町

風光の美しさで知られる公園となっています。岬には八雲神社、五十鈴神社があり、この両社があるため、神明崎とよばれているそうです。

鹿折金山跡  気仙沼市上東側根

この金山は平泉藤原氏の頃から、採掘されていたといわれていますが、本格的になったのは明治三十年以降で、純金の含有量が高いので

巨釜  気仙沼市唐桑町

巨釜(おがま)とは、唐桑半島にある大理石海岸で長さ約一キロ、幅三○○メートルにわたって広田湾に突き出ている一帯をいいます。

御崎  気仙沼市唐桑町

御崎は、唐桑(からくわ)半島最南端の岬です。黒色粘板岩の断崖がつづき、怒涛逆巻く男性的な景観で知られています。断崖ぞい

唐桑半島  気仙沼市唐桑町

唐桑半島は、気仙沼湾に浮かぶ大島を抱きかかえるように、太平洋につきでている半島です。南側の海岸はのどかな渚ですが、北側の海で

唐桑町  気仙沼市

唐桑町は、この唐桑半島全体を範囲とする町で、町の中心は、半島の東側の中央にある、宿(しゅく)というところです。唐桑の名称の由

児置島  気仙沼市唐桑町

半島から約三十メートルほど離れた海上に浮かぶ、周囲百五十メートルあまりの島です。むかし、海藻とりの漁師が、子供を島に置いて夢中で

半造  気仙沼市唐桑町

半造は、巨釜から南へ歩いて十分くらいのところにあり、釜が半分だけ元成したような形の浜なので、こうした名前がつけられています。

大理石海岸  気仙沼市唐桑町

広田湾に面した波静かな入江に、自然が長年かかって削り、磨いた白い大理石の島々が点々としています。大理石は石灰岩が、

早馬山  気仙沼市唐桑町

早馬山は、気仙沼三大展望のひとつです。唐桑町の中心部にあり、頂上からの眺望はすばらしく、眼下に大島、遠くに岩井崎、歌津半島

陽沼・陰沼  気仙沼市唐桑町

日高見神社の南東に、潮流が渦をまいている・ところがあります。陽沼はヒノトと呼ばれる、周囲を絶壁にかこまれた小さな湾で、そこに海水

八般曳  気仙沼市唐桑町

八般曳は、幅三十メートル、長さ約百メートルの海蝕棚で、怒涛に洗われた黒色粘板岩のつづいている海岸になっているところをいいます。

御崎神社  気仙沼市唐桑町

御崎神社は、日高見(ひだかみ)神社ともよばれ、ヤマトタケルノミコト、スサノオノミコト、ワタツミノカミの三柱を祀り、航海安全

早馬神社  気仙沼市唐桑町

早馬山(高さ二二○メートル)の頂上に早馬神社があります。頂上からの眺めは素晴しく、眼の下に気仙沼湾の大島が浮び、周囲は

二本杉  気仙沼市唐桑町

天をつく杉は「上二本杉」「下二本杉」とよばれ、県の天然記念物に指定されています。今から八百年以上前に、早馬神社の参道に植えら

岩井崎・潮吹岩  気仙沼市波路上岩井崎

潮吹岩で有名な、岩井崎です。岩井崎は、気仙沼湾の南端に当り、陸中海岸国立公園の南端でもあります。昔、この岩井崎沖は、

片浜  気仙沼市松崎

片浜から左手遠くにそそり立つ山なみは、北上山地の一部で、四、五百メートルから千メートル級の山が、南北に連なっており、一番高いの

煙雲館  気仙沼市松崎片浜

片浜部落のうしろの高台に、仙台藩の重臣でこの地方を領した鮎貝家の館跡で、いま、庭園が保存されている煙雲館があります。鮎貝家

落合直文生家  気仙沼市松崎片浜

孝女白菊の物語りや、楠正成の桜井の駅の別れの歌などで有名な、国文学者落合直文は、鮎貝家十二代盛房の次男として幕末に生れ

大谷鉱山  気仙沼市本吉町

本吉町の中心地は津谷です。津谷は陸前東浜街道(国道四五号線)と、西郡街道(国道三四六号線)の接するところで、昔から宿場町として

田束山  気仙沼市本吉町

この山は千百年以上も前、承和年間(八三四〜四八)に開かれ、のち安元年間(一一七五〜七七)藤原秀衡が崇敬して、山中に

本吉町  気仙沼市

むかしから宿場町として栄えました。金の産地としても有名で、昭和初期まで採掘が行われていました。仙台藩はさらに、ここから西

大谷金山跡  気仙沼市本吉町

この地方の代表的金山で、歴史は古く、平安朝時代から採掘され、その頃の、一般的な採掘法であったという「水流掘」の跡もあり、

佐藤継信、忠信兄弟の墓  本吉町

源義経が平泉で成長し、兄頼朝とともに平家追討に出陣したとき、藤原秀衡は佐藤継信、忠信を義経の家来としてつけてくれました。兄弟の

岩崎山  蔵王町

別名、篭山とも呼ばれる岩崎山は、金山に一○八個の埋掘りをした跡の坑道があり、篭の目のように見えるところから篭山の名があります

峰仙寺  気仙沼市本吉町

南北朝の動乱期、文和三年(一三五四)、石巻の葛西氏の重臣で、米倉持村という人が創建しました。古い仏画や仏像が多いことで有名

後見坂  蔵王町遠刈田

賽の磧(かわら)を右下に見ながら登る坂を後見坂といいます。昔は大変急な坂道で登山者の難所として知られ、頂上を間近にした

賽の磧  蔵王町遠刈田

賽の磧とは、刈田岳の東の裾、標高一三○○メートルの台地をいいます。度重なる噴火の際、溶岩があふれ出し冷え固まったところで、

蔵王寺   蔵王町遠刈田

白鳳時代(六七一一〜六八六)の修験道の盛んな頃、役行者によって開かれたと伝えられ、明治に神仏分離令によって廃寺と

塩竈市  

東北の海の玄関といわれる塩竈市は、三陸漁場の根拠地で、松島湾遊覧と沿岸遊覧の発着港でもあります。松島湾内、千賀の浦に臨んだ

塩釜甚句  塩竈市

東北は民謡の宝庫といわれます。どこの土地に参りましても、その地方の生活の中から生まれた唄があります。この仙台は、伊達家

塩竈神社   塩竈市一森山

塩竃神社は、陸奥の国の一宮で、正一位塩壷大明神の名で全国に知られています。この神社は左宮にタケミカズチノミコト、右宮にフツヌシノミ

御神馬舎   塩竈市一森山

御神馬舎は、塩釜神社の祭礼の時などに、一役かっている、神様のお乗りになる馬が飼われている所です。大きい敷石が、敷きつめら

塩釜神社の御祭礼   塩竈市一森山

塩釜神社の御祭礼は、春、三月のの帆手祭に始まり、四月二五日の花祭り、七月十日の港まつりとそれぞれ、賑やかに行われますが

志波彦神社   塩竈市一森山

志波彦神社は、志波彦命(農業の神様)を祀ってあります。もとの仙台の北の方、岩切という所にあったのを、明治七年に塩釜神社の別宮

文治神燈   塩竈市一森山

今から約、七九○年以上前の文治三年七月十日に、藤原秀衡の三男、和泉三郎忠衡の寄進によるもので、高さ二米の灯篭です。鋳物の灯篭

青根温泉   柴田郡川崎町

青根温泉は花房山の中腹、標高六○○メートルの高原にある古い温泉で、代々、伊達家が利用したところです。湯元不忘閣には

逆銀杏   柴田郡川崎町

「昭和五十一年三月」宮城県の天然記念物に指定されました。およそ九二○年前の康平五年(一○六二)前九年の役に八幡太郎義家は

釜房ダム  柴田郡川崎町

名取川支流の碁石川、前川、北川を堰止めてつくられた多目的ダムで、八七億二○○○万円を投じて、昭和四十五年三月に完成しました。

袈裟懸地蔵   柴田郡川崎町

曹洞宗の陽広山龍雲寺です。元和四年(一六一八)覚永(かくえい)和尚が開いた寺で天明年間(一七八一〜)に火災にあい、さびれていまし

碁石   柴田郡川崎町

伊達政宗が、遠刈田温泉の近く、岩崎山から仙台まで金を運ぶための道路を作りました。その時、ここから碁石に適した石が発見され、

 

鳴子郷.jpg

 

鳴子郷

 

川崎城址  柴田郡川崎町

川崎町は、平安時代から陸奥国と出羽の国を結ぶ所に開けた町です。鎌倉時代には石巻の探題職・葛西氏の領地で、伊達藩時代には

地蔵桜  柴田郡川崎町

別名種まき桜とも呼ばれ、町内の人々はこの桜の開花を目安にして農作業の時期を決めたということです。桜の木のそばにある延命地蔵

「う-めん」の起源  白石市

今から三○○年以上前の元禄のころ、白石に親孝行の鈴木浅右衛門という人がいました。父親の久左衛門が胃をわずらい

白石市 

白石市は福島市と仙台市の中間に位置し、蔵王連峰や阿武隅山脈に囲まれた、のどかな町で、宮城県の南の玄関として、又、蔵王観光への 

小原の「くず」  白石市小原

小原では、江戸時代の中頃からくずがたくさんとれ、当時は有名な奈良の「吉野ぐず」とも肩をならべるほどの人気があって、大阪あたりま

碧玉渓  白石市小原

白石川の上流、国道一一三号にそって約四キロメートルほど続く渓谷を碧玉渓とよんでいます。。新緑と紅葉の頃が特に美しく、アユやハヤなど

小原のコツブカヤ  白石市小原

小原のコツブカヤの木の実は、普通のカヤの木の半分ほどの大きさしかなく、葉に特長があります。普通、カヤの葉先は鋭くとがっていますが、

小原の材木岩  白石市小原

白石川の畔に、高さ六十五メートルほどの安山岩の柱状節理の岩がありますが、小原の材木岩とよんでいます。五角形、六角形、多角形

小原のヒダリマキガヤ  

樹齢約一五○年といわれる小原のヒダリマキガヤは、全国に一○本あるかないかといわれる珍しいカヤの木です。特色はカヤの実で、

小原温泉  白石市小原

元湯の発見は永禄年間(一五五八〜七○)といわれ、七つの温泉場があります。昔から「脚気鎌先、眼に小原」といわれ、眼の病に効能

片倉家中武家屋敷  白石市西益岡町

かつて、城の外堀をかねていた沢端川の流れにそって、数棟の武家屋敷が軒をつらね、城下町時代の面影を今に伝えています。

片倉家廟所  白石市福岡蔵本

愛宕山の中腹に、三代片倉景長がこの地を歴代の墓所ときめたのは、江戸時代初期の延宝七年(一六七九)のことで、初代片倉小十郎景綱

鎌先温泉と弥治郎こけし  白石市福岡蔵本

奥羽の薬湯といわれる鎌先温泉の歴史は古く、室町時代の初めの正長元年(一四二八)、里人が草刈りをしているとき、鎌の先で掘り

白石城(益岡公園)  白石市益岡町

白石城は白石市の中心部にあった平山城で、江戸時代の元和の一国一城以後も、仙台藩は青葉城と白石城の二城が許され、明治維新ま

仙塩街道  仙台市

仙台から塩釜まで十八キロを結ぶ、往来の激しい幅十メートルの舗装道路です。この道は、その昔、杖を頼りにわらじがけで、半日がかり

仙台市史 

東北の都仙台市は、非常に歴史が古く、五六千年前の石器時代に、すでに古代人が住んでおりました。南小泉の集落の跡や、青葉山の

仙台の名産品

仙台の名産品は沢山ありますが、第一に袴地として知られる仙台平、埋木(うもれぎ)細工、提焼に提人形、食物では、仙台駄菓子、九重、

七夕まつり  仙台市

市内東一番丁を中心に行なわれる盛大な七夕まつりは、七夕さんといって、七百年以上の昔から町民達が、竹竿に七つ道具を吊し、

丁名について  仙台市

仙台市内には、「てい」と書いて丁(ちょう)と読む所と、「町(まち)」と書いて町(ちょう)と読む所があります。これは昔、侍と町人の住む場所が

宮城野  仙台市

広大な仙台平野は、古く大和朝廷の時代から宮城野と呼ばれ、人々に親しまれて来ました。宮城という名称は、大化改新以前に、朝廷の

伊達安芸の屋敷跡・西公園  仙台市青葉区

総面積、百二十平方メートルを有する西公園は、伊達家忠臣の一人、伊達安芸のお屋敷跡です。沢山の木々が植えられ、下には美しい広

東北のこけし  仙台市青葉区

東北はこけしの故郷です。東北の風土の中に生れ、育くまれたこけしは、かつては(大正末)子供のおもちゃでした。中央の文化圏から

子愛観音  仙台市青葉区

愛子(あやし)地区に観音様があります。愛子という地名の由来は、その昔、夫と死別した若い女房が、大百姓の手間取りとして、幼ない子供を

東一番町  仙台市青葉区

この東一番町は、昔は身分の低い武士が住んでおりました。明治の頃に、そうした人達が、自分の屋敷や財産を維持する事が

定義温泉  仙台市青葉区

定義如来の祀られている西方寺から少し先、後白髪山(一四二八)の南側にあるのが定義温泉です。閑静な山の湯で、湯は大倉川の支流

定義如来  仙台市青葉区

「有難いぞや定義の如来、一度拝めば二度叶う、定義まいりの人の波」宮城町定義にある定義如来は、古くから縁結び、安産の守護神として、

芭蕉の辻  仙台市青葉区

芭蕉の辻は、大手門の正面に当る四ツ辻で、東一番丁の西側の通りにあたります。かっては、ここを中心に大きな商家が並び

片平丁  仙台市青葉区

昔は、大名小路といわれ、お城に一番近いので、伊達家一門や家老など、身分の高い侍の屋敷が立ち並んでいたところです。百メートル毎

輪王寺  仙台市青葉区

輪王寺は、伊達家と古くからかかわってきたお寺で、伊達家の居城が変わる度に寺も移転し、米沢、会津若松、再び米沢、岩出山、仙台と

作並温泉  仙台市青葉区

温泉発見の歴史は古く、奈良時代、養老五年(七二一)に僧・行基が東北巡錫の時の発見といわれます。文治五年(一一八九)頼朝の軍勢も、

鳳鳴四八滝  仙台市青葉区

作並温泉近く、広瀬川の上流に大きな滝があります。高さ二五メートル、巾一○メートルの見事な滝で、俸目木(ぼめき)の大滝と呼ばれます。

キリシタソ殉教の碑  仙台市青葉区

三七○年前の元和九年(一六二三)キリシタン信者八名と、ポルトガル人神父が、寒中水責の刑に処せられた所で、その殉教の碑です。

林子平の墓  仙台市青葉区

寛政三奇人(林子平、高山彦九郎、蒲生君平)の一人、幕末の先覚者、林子平のお墓です。子平は、我が国の文化が諸外国におくれて

林子平の日時計  仙台市青葉区

林子平の作りました日時計は、紅毛式東日器といい、日本の時計の元祖で、棒の影で時刻を計るもので、一目盛が一時間になっており、

感仙殿  仙台市青葉区

感仙殿は、二代藩主忠宗公の霊廟です。規模、装飾など、瑞鳳殿と同じく豪荘華麗なものでしたが、戦災で焼失、瑞鳳殿に引き続き、

善応殿  仙台市青葉区

善応殿は、三代藩主綱宗公の霊廟です。ここも同じく戦災で焼失した為、感仙殿と共に再建されました。*瑞鳳殿への登り口に広がる墓地

青葉城(仙台城址)  仙台市青葉区

伊達氏六十二万石が政宗以来270年間居城としたところです。伊達政宗の像:政宗公(高さ一四・五メートル)は、幼名を梵天丸と申し

荒城の月・詩碑  仙台市青葉区

郷土の詩人、土井晩翠の記念碑です。晩翠の作詩である荒城の月は、国内ばかりでなく、世界の人々にも、歌い親しまれている名曲です。

護国神社  仙台市青葉区

明治維新から太平洋戦争終結まで戦役で尊い命をささげた郷土出身者の霊を弔うために建立されました。本殿には伊勢神宮の別宮である、

支倉常長の像  仙台市青葉区

遣欧使節となって、日本人としては始めて太平洋、太西洋を横断した、支倉常長の銅像です。伊達政宗の命を受けた常長の一行は、

招魂碑  仙台市青葉区

日清戦争の記念塔です。明治三五年七月、一年の歳月を費して当時の美術学校の生徒によって作られたもので、塔の高さ二○メートル、

仙台天文台  仙台市青葉区

八月七日午後九時に、仙台の真上を通過する織女星を観測するようになっています。年一度、地上の竹飾りと共に、天上の星

大崎八幡神社  仙台市青葉区

大崎八幡神社は、伊達政宗が仙台開府のおり、守護神として建てたものです。米沢にいた頃崇敬していた成島八幡を、岩出山城に分祀し、

泉ケ岳  仙台市泉区

これまで数回の爆発を繰り返したと思われ、その時あふれ出た熔岩が、南側の山腹に、三つの段丘をつくっております。市内か

おしおき場の話  仙台市泉区

古くから泉ヶ岳登山口として知られ、叉、奥州街道の宿場町として、発達したところです。藩政時代、この七北田には、伊達藩のおしおき場

笈分如来  仙台市泉区

昭和二八年の火災で焼けるまで、伊達綱村の寄進による阿弥陀堂に安置されておりました阿弥陀如来立像です。総長約一メートル、快慶の作

笈分如来の伝説  仙台市泉区

出羽村山郡慈恩寺に覚明という念仏僧がおりました。前から阿弥陀如来像が欲しく、湯殿山に登り霊感を得、当時、都で一番聞こえの高い仏師

鹿踊り   仙台市太白区秋保町

秋保町馬場は、仙台から出羽(山形県)に通ずる二口街道の宿場として開けた所です。県の無形文化財に指定され、伝承されている野口鹿踊

向泉寺   仙台市太白区秋保町

秋保町の中心、長袋に秋保氏代々の菩提所向泉寺があります。御本尊は十一面観音菩薩像で、基盛、俊盛、盛定の位牌が安置さ

姉滝  仙台市太白区秋保町

秋保大滝から上流にある姉滝です。安山岩と凝灰岩の水平に重なり合う地盤が、長年にわたる水の浸食で、下部に洞穴を生じ、水流の

秋保大滝不動堂  仙台市太白区秋保町

秋保大滝不動堂は、正式には「滝本山西光寺」といい、山形県山寺の立石寺の奥の院とされています。本尊は慈覚大師作といわれる不動尊

秋保大滝  仙台市太白区秋保町

凝灰岩を割って高さ五五メートルのところから、名取川の全水量が巾六メートルの爆布となって落ち込み、まことに雄大な滝です。滝つ

二口峡谷  仙台市太白区秋保町

県立公園・二口峡谷は、秋保大滝から二口峠までの約八キロの部分で、昭和二十二年に県立自然公園の指定を受けました。なお、

秋保温泉  仙台市太白区秋保町

仙台の奥座敷と言われる秋保温泉は、古くから、飯坂温泉、鳴子温泉と並んで奥州の三名湯に数えられています。今から一四○○年程前

磊々峡  仙台市太白区秋保町

磊々峡は秋保温泉の入口にかかる覗橋を中心に、約一キロにわたる景勝地です。渓谷を形造る淡い青灰色の凝灰岩が奇岩怪石となって続きます。

天守閣目然公園  仙台市太白区秋保町

温泉街から西、名取川の渓流沿いに天守閣自然公園があります。浴後の散策や、ハイキング地として親しまれます。見事な石庭、

秋保石  仙台市太白区秋保

秋保石は、凝灰岩の一種で加工が容易な一面、風雨や温度の変化に強く、ことに長時間火に焼かれても砕ける事がないため、建築用

太白山伝説  仙台市太白区茂庭

昔、この村に”おとあ”という美しい娘が住んでおりました。ある夜中、おとあさんは、ウンウンという唸り声を聞いて目をさましました。こわか

二つの多賀神社  仙台市太白区富沢

延命長寿の木として信仰を集めておりますのが、仙台市の富沢と名取市の高柳にある二つの多賀神社です。両社とも延喜式内社で、

三神峰  仙台市太白区三神峯

奈良時代、こちらに陸奥の国の鎮守府が置かれていました。名取平野を一望できる所で、ただ今は桜の名所になっており、

 

磊々峡.jpg

 

磊々峡

 

大年寺  仙台市太白区門前町

今から二六○年以上前、伊達家四代綱村が大年寺を開いて、伊達家の菩提寺としました。堂塔は二○余り、多い時には二○○人以上の

若竹の銀杏  仙台市宮城野区銀杏町

樹齢、約千二百年といわれる銀杏です。高さ三二メートル、幹囲り約八メートルの古木で、枝から三メ-トル近い気根(空気中に露出した

榴ヶ岡公園  仙台市宮城野区

榴ヶ岡公園は、昔はツツジの生い茂る、一大草原であったようです。公園の中に、元禄八年四代藩主、伊達綱村(幼名亀千代)は、生母の

名取川  仙台市若林区

「名取」という言葉は、アイヌ語の「ナトリベシ」、渓谷という意味です。渓谷の美しさで知られ、昔からこの川の鮎は仙台第一と言われており

谷風の墓と生家  仙台市若林区

四代目横綱谷風の生まれた所です。”谷風の前に谷風なく、谷風のあとに谷風なし”と讃えられた力士で、活躍すること二六年、その間、優勝回数

多賀城市  

昭和四十六年に市政を施行。仙台と塩釜にはさまれた小さい市ですが宮城県有数の工業都市として栄えています。都市としては新しい町で

多賀城跡  多賀城市市川

多賀城市には、およそ一二五○年以上前の奈良時代、東北の開拓と、蝦夷地経営のための国府と鎮守府がおかれましたが、多賀城はその

壺の碑(多賀城碑)  多賀城市市川

多賀城の南門の近くには、壷の碑とよばれる多賀城碑があり、上野(群馬県)の多胡の碑や下野(栃木県)の那須国造の碑とともに、日本三古碑

下馬  多賀城市と塩釜市の境界

多賀城市と塩釜市の境界で、昔、仙台方面から神詣でに来た人びとは、ここから神域に入るというので、乗っていた馬や篭を降りて参拝

末の松山  多賀城市八幡

末の松山、沖の井、沖の石などと呼ばれるこの地方は、古くから歌人に親しまれた歌枕の地で、別名、波打嶺といいますが、現在では、

坂上田村麻呂  多賀城市宮内?

平安朝初期の征夷大将軍として、日本の武人の祖ともいわれる坂上田村麻呂は、この八幡神社の近くで生れたという、伝説があります。

八幡神社  多賀城市宮内

この社(やしろ)は、征夷大将軍坂上田村麻呂が、この付近の「末の松山」というところで戦いに勝ったあと、建てたものといわれます。

船形山  宮城県と山形県の境界

船形山(標高一五〇〇)は、宮城県と、山形県の境界にそびえる山で、船形火山群の主峰で、山形県側では、御所山と呼んでおります。

涌谷城跡  遠田郡涌谷町

江合川の両岸にまたがり「ささにしき」の良田がひらけ、米のほかマユ、木材、雑貨などの集散地で酒、ミソ、醤油などの生産も盛んです。

黄金山産金遺跡  遠田郡涌谷町

涌谷城跡のさらに北に、古代に金を産出したという遺跡がります。奈良時代の天平二一年(七四九年)に、ここでわが国はじめての金が

黄金山神社  遠田郡涌谷町

産金遺跡のすぐ南に、黄金山神社があります。昭和三十二年に、この神社の境内を発掘したところ、天平という字のある、奈良時代の

登米城跡  登米郡登米町

登米町(とよままち)の中心街の北側に拡がる館山の頂上に登米(とよま)城跡(寺池要塞ロ)があります。天文五年(一五三六)以後、

若狭土手  登米市

南下した北上川が東に向きを変えるところで、相模土手の南岸の堤防は洪水でしばしば決壊をしました。これを防ぐため、慶安年間

柳津  登米市津山町

ここは陸前東浜街道(国道四五号線)と、一の関街道(国道三四二号線)の分れるところで、昔から宿場町として大層繁昌しました。

柳津虚空蔵尊  登米市津山町

津山町の大柳津です。日本三大虚空蔵尊の一つが本尊の、柳津山宝性院というお寺があります。この本尊は、今から約千二百五十年以上

横山ウグイ棲息地  登米市津山町

横山不動尊の境内にある、直径八十メートルの池に、ウグイの群れが棲息して、参拝者を喜ばせていますが、昭和十年に天然記念物に

横山不動尊  登米市津山町

白魚山(はくぎょうさん)大徳寺に日本三大不動尊の一つとされる、丈六尺(四・八メー‐トル)の巨大な不動尊が本尊で横山不動尊とよ

原田甲斐の首塚  登米市東和町

東陽寺には伊達騒動・寛文事件の中心人物原田甲斐の首塚があります。東陽寺ははじめ、原田家の菩提所として羽前(山形県)

登米要害  登米市登米町

登米町の中心街の北側に拡がる館山の頂上に、登米要害(寺池城)があります。天文五年(一五三六)以後葛西氏が城主となっていましたが

天山廟  登米市登米町

寛文十二年(一六七二)、登米伊達式部宗倫(むねとも)の霊廟として建てられました。方三間単層、木羽葺(こばぶ)きの宝形造りになってお

相模土手  登米市中田町

中田町上沼字大泉から浅水字水越にかけて約六・七キロ、北上川の右岸に堤防が築かれており、これを相模土手と呼んでいます。

長谷寺  登米市中田町

かつて坂上田村麻呂が創建したと伝えられていた天台宗系の寺があったのですが、中世に衰え、修験道に改宗し観音堂を守ってきました

弥勒寺  登米市中田町

開山は役小角といわれています。八月十五日・十六日の例祭には多くの参詣人でにぎわいますが、参詣人の中に亡くなった人と似た人を

有耶無耶の関・笹谷峠  

宮城県と山形県とを結ぶ最古の峠。昭和五十六年四月までは、標高九○六メートルの笹谷峠を越えていました。そこには「有耶無耶(うやむや)の関」が

関山峠 

山形と仙台を結ぶこの四八号線は、およそ千年位前から人々の往来があったといわれます。鎌倉時代、頼朝に破れた大河兼任

鳴瀬町  東松島市

松島県立自然公園の東の端にある町で、その南部は、陸続きの松島最大の島、宮戸島となっています。宮戸島の東海岸を奥松島と

奥松島  東松島市

奥松島は松島湾内最大の島、宮戸島と野蒜(のびる)海岸一帯を指しております。松島とは対照的に太平洋の荒波が洗う男性的な景観で

古川市   

市の中央を北上川の支流、荒雄川(江合川)が流れ、昔は玉造川と呼ばれていましたが、平安朝の頃、水路を変えたために、その名残りが

富山  松島町手樽

松島四大観の一つ富山です。「松島の景、ことごとく富山にあり」といわれ、標高一一七メ-トルの頂上からは、松島湾が一望のもとに

荒沢神社  南三陸町

境内には、県の天然記念物に指定されている「太朗坊」とよばれる巨大な杉の木があります。伊達正宗が仙台城の大手門前の橋を建造

県立自然公園松島  宮城郡松島町

松島は県立公園でもあるとともに、国の特別名勝にも指定されており松島湾にのぞむ海岸線と、海に浮かぶ島々からなり、総面積は約

松島と芭蕉  宮城郡松島町

俳人芭蕉が、おくの細道の旅に出たのは、松島を見物したいためだったとも言われています。おくの細道のはじめのところに「松島の月まず心に

五大堂  宮城郡松島町

五大堂は、坂上田村麻呂が、大同二年(八○七)の建立といわれるものです。(毘沙門堂が前身)現在のお堂は、政宗が慶長九年

観瀾亭  宮城郡松島町

別名「月見御殿」とも呼ばれるお茶室で、伊達正宗が秀吉の側室、淀君からいただいたものです。二代目忠宗が品川からこちらへ

渡月橋  宮城郡松島町

渡月橋は雄島に架けられたもので、昔は、瑞厳寺の僧侶達が座禅をして想を練った所で女人禁制の場所でした。初めてこの島に

松島  宮城郡松島町

昔から日本三景の一つとして、天の橋立、厳島と並んで知られている松島は、東西十四キロ、南北十三キロ、総面積九六平方キロの広さを持ち

松島八百八島  宮城郡松島町

松島は古くから八百八島といわれています。これは、大江戸八百八町とか、大阪の八百八橋、京都の八百八寺と申しますように、数の多いと

松島のカキ  宮城郡松島町

松島湾は「カキ」と「海苔」の養殖が盛んに行なわれております。カキ棚や、イカダを作り、針金を切り、カキがらや帆立貝のカラを百個

松島の四大観  宮城郡松島町

松島の展望は、高い所から見るのが一番良いとか。湾の東にある大高森からの眺め、塩釜観光道路(国道四五号線)のほぼ中間にある

円通院  宮城郡松島町

政宗時代に造られた瑞巌寺の塔頭(末寺)十三のうち、現存する四つのうちの一つで、二代藩主伊達忠宗の次子、光宗の位牌所となっています

瑞巌寺  宮城郡松島町

奥州第一の禅宗の寺で、伊達家累代の菩提所でもあります。はじめは、比叡山の慈覚大師が開き、天台宗延福寺と称していましたが、

法身僧都  宮城郡松島町

松島瑞巌寺の前身円福治を中興しました。茨城県真壁郡に生まれ、俗名を真壁平四郎といいました。領主の真壁安芸守時幹に仕え、

本吉城跡  本吉郡南三陸町

志津川港を控え、タコ、アワビ、ウニ、ノリ、カキなど沿岸漁業や、浅海養殖漁業が盛んなところです。町の歴史はかなり古く、平安末期、

歌津町  本吉郡南三陸町

三陸海岸特有の、起伏に富んだ地形で耕地が少く、ノリ、ワカメなどの養殖漁業が盛んです。町の東部は、太平洋に突き出した半島で

満海の碑  本吉郡南三陸町

田束山の頂上から少し西に下がったところに「満海の碑」があります。満海は、室町時代末期の人で、田束山で仏門に入り、修行しまし

志津川町  本吉郡南三陸町

志津川港をひかえ、タコ、アワビ、ウ二、ノリ、カキなど沿岸漁業や、浅海養殖漁業がさかんなところです。町の歴史はかなり古く、平安

志津川湾  本吉郡南三陸町

南三陸海岸県立自然公園の、中心であるこの志津川湾は、北の荒砥崎から南の神割崎という景勝の地をむすぶ、C字型の湾で、湾内は

荒沢神社  本吉郡南三陸町

境内には、県の天然記念物に指定されている「太郎坊」と呼ばれる、巨大な杉の木があります。伊達政宗が、仙台城の大手門前の橋を建造

折立  本吉郡南三陸町

折立は、伊達吉村がこの浜を通ったとき「あまの子の あそぶ渚に 折立ちて 我も磯辺の 貝を拾わん」と詠んだところから、

神割崎  本吉郡南三陸町

その昔、長清水浜と十三浜村が村の境を争っていました。そんなとき巨大な鯨が浜に打ちあげられ、鯨さえ取りあったほどでしたが

大谷金山跡  本吉郡本吉町

歴史は古く、平安時代から採掘され、そのころの一般的な採掘法であったという「水流掘り」の跡もあり、わが国鉱山史上、貴重な資料

鹿又  桃生郡河南町

鹿又は、今から四百年以上前の天正年間(一五七三〜九一一)に、石巻の葛西氏の家臣、高橋通吉が開拓したところです。当時

河北町  桃生郡

このあたりは、用排水路が整備されているので、農業に適しており、町民の約七割が農民です。また林業も盛んで、飯野川地区では、

広田  陸前高田市

広田の地名はアイヌ語の「ピロタオ」が転訛したものです。アイヌ語の「ピロ」は、「美しい」という形容詞、「オータ」は砂という意味

広田城跡  陸前高田市広田町

天正のころ(一五七三〜九二)には大和田氏の居城でしたが、主家である葛西晴信が、小田原攻めに参陣しなかったために、豊臣秀吉の怒

 

 

松島.jpg

 

松島

 

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*2011年3月11日の東日本大震災で多くの人命が失われ、建物も津波で流され、三陸の風景は一瞬で無くなりましました。以上に記しています案内は、東日本大震災以前のもので、本来なら記すのも躊躇しましたが、以前の通りに復興されるを祈念しますとともに、震災前はこんな風景だったんだ、と後世に継承していただくために、あえて記することにしました。