旅先の歴史ものがたり・長野

    長野には、知られざる物語があります。

 

町や村などの成り立ち、

 


その町や村にこそ他の地域には見られない物語があります。

 


「面白い感動話」「歴史や伝統」「男の女の哀しい物語」

 


「地域ならではの温泉の由来」「歴史的な神社仏閣」

 


「歴史上活躍した人物の横顔」「哀れな城跡や址」

 


「町や村、施設の命名縁起」「長野ならではの特産物」

 


「国指定の国宝・重要文化財」など。

 


 
旅に出たら、単なる物見遊山ではなく、こうした長野を代表する人間物語

 


を訪ねてみたいものです。

 


旅のその先に……新しい発見が。

 


それこそが「旅の醍醐味」ではないでしょうか。

 

 

諏訪大社御柱祭り.jpg

 

御柱祭り

 

 

マッチングサイトをオープン(仮)しました。
仮とはいえ本格的に稼働しています。
 
経営者・個人事業主やシニア起業者の投稿をお待ちしております。
(いずれも姉妹サイトです)
 
 

信濃の名の起り 

みすずかる信濃の国は山高く、級坂(しなさか)多く、国の形も何となく山という字ににている(信濃奇勝録)。そこで天武天皇は信

追分節について

北国街道と中山道が分れる信濃追分宿が、追分節の発祥地と云われます。信濃追分は、二つ重要な街道が交差していたので旅人の

千曲川

千曲川は、甲州(山梨県)、武州(東京と埼玉県)、信州(長野県)、の国境にそびえる甲武信ヶ岳(二四八三)から流れくだり

日本アルプス

日本アルプスの区域は、北は日本海にせまる白馬、立山連峰から南は静岡県に接する赤石山系に及ぶ広範囲で、叉越後

寒天について

信州の名産物はたくさんありますが、、寒天の産地としても知られています。信州の寒天は伊豆の海に育った天草を用います。

安曇平の昔ばなし 安曇野市

昔むかしのこと、今の安曇野が大きな湖だった頃のことです。湖のほとりに竜の化身である犀竜が住んでいました。犀竜は

安曇野 

北アルプスの常念岳や蝶ヶ岳の麓に広がる穀倉地帯です。また、数多くの道祖神が祀られる里であり、神話のふるさととしても

飯田市

昔は、堀氏一万七千石の城下町、長姫城のあったところです。また、三州街道と、中仙道(木曽谷)を結ぶ大平街道の分岐点で

飯田の水引工芸 飯田市

冠婚葬祭に欠かせない水引は、みつ又を原料とする上質の和紙に、米のりを薄く引いて丈夫にした上等な紐で、赤、白、金、

水晶山 飯田市

この山に伝わる昔話しです。その昔のこと、京都の公卿のお姫さまが、屋敷に出入りする庭師と恋に落ち、都をのがれてこの山里

天竜峡 飯田市

天竜川がつくった深い渓谷で、名勝とたたえられている天竜峡は、弘化四年(一八四七)にこの地に遊んだ阪谷希八郎(朗蘆)

元結 飯田市

水引とともに知られるのが元結いで、飯田の産業の一つになっています。元結とは、美しい日本髪や男性の髷に使うもので

旧小笠原家書院 飯田市

この地を治めた伊豆木小笠原家の居館の書院で、元和三年(一六一七)の建立と伝えられています。約三分の一が崖の上に

飯田城址(長姫城) 飯田市

県の合同庁舎のある一帯が飯田城址です。飯田城は鎌倉時代の建保年間(一ニ一三~一九)坂西氏が松川のほとりに砦を

赤門 飯田市

旧飯田藩主・堀家の屋敷門で、入母屋造りかわら葺きです。藩政時代の名残として貴重な門です。

大門町 飯田市

昔は城下町飯田の入口にあたっており、大木戸が置かれ、通行人を厳しく取り締った所です。大木戸の外側には仕置場があ

開善寺 準国宝級の建築物 飯田市

山門は左甚五郎の作と伝えられます。鎌倉時代の様式をそなえた準国宝級の建築物で、宝物には兆殿司の二十八祖画像や

開善寺の梅の精 飯田市

山門は左甚五郎の作と伝えられます。鎌倉時代の様式をそなえた準国宝級の建築物で、宝物には兆殿司の二十八祖画像や

黒田人形浄瑠璃 飯田市

鎮守様境内には人形浄瑠璃の舞台があり、毎年のお祭りには、黒田人形が公開されます。黒田人形は、寛政年間に大阪文楽の

経蔵寺 高村高雲 飯田市

経蔵寺の山門は、旧飯田城の城内を移したもので国の重要美術品に指定されます。寺宝の聖観世菩薩像は、明治時代の彫刻

光明寺 飯田市

城山の北には真言宗の光明寺があります。光明寺には、鎌倉時代に造られた阿弥陀如来坐像が安置されており、国の重要

城山・久米城跡 飯田市

城山は眺めも良く、山頂には伊那の生んだ女流勤皇家・松尾多勢子の歌碑があり、「旅衣 ふりかえれども 朝霧の 立ちへだ

座光寺 飯田市

元善光寺で、この上の段には善光寺があり、推古天皇の御代、この里の本田善光が難波(今の大阪)の堀江から仏像を背負って

元善光寺 飯田市

長野善光寺の御本尊、一光三尊の仏像を最初に安置した元善光寺です。今からおよそ一四〇○年以上前、第三十三代、推古

文永寺  月のよい真夜中 飯田市

永元年(一二六四)に亀山天皇の命によって建立されました。本堂、庫裏、山門などの他に庭前の石室の中に鎌倉後期の五輪塔

白山神社・風越山  三庫の名水 飯田市

風越山の標高は一五三五メートルで、山々に囲まれる飯田では、大して高い山ではありませんが、飯田の人々の心のふるさとと

ケチ田の伝説 飯田市

松川の手前、ケチ田というところがあり、そのケチ田に次のようなお話があります。それは病田(やまいだ)、ケチ田という地面

柏心寺  菱田春草 飯田市

柏心寺には飯田出身の日本画の大家・菱田春草のお墓と日夏耿之介のお墓があります。柏心寺のある一帯を箕瀬町といい、

鳩ガ峰八幡社 飯田市

鎌倉時代に創建されました。京都の石清水八幡宮から勧請したと伝えられる神社です。極彩色を施した等身大の誉田別尊像が

飯山城跡 飯山市

飯山城は、永禄七年に、上杉謙信が、武田勢を防ぐために、それまであった小さなお城を大改築した出城でした。上杉方にとって

 


北アルプス.jpg

 

北アルプス

 

正受庵  白隠禅師 飯山市

臨済宗のお寺として有名ですが、「庵」の名の通り、茅葺の簡素な建物で、枯山水風の白砂をしきつめた庭も、よく似合っています。正受庵は、通称正受老人

小菅神社 飯山市

創建ははっきりしませんが、社伝によりますと、天武天皇の白鳳四年(六七九年)に、修験道の開祖役の行者が、修験場として開いたことになっており、北信磯

真宗寺  島崎藤村 飯山市

浄土真宗の古刹です。このお寺は数多い飯山の寺の中でそれほど規模も大きくなく、創建もはっきりしません。元の本堂も、昭和二十七年の大火で、焼失

五平餅 伊那市

古くから飯田市を中心とした伊那谷地方や西の木曾谷、飛騨高山地方に伝わる郷土食の一つで、少しかために炊きあげたごはん(うるちともち米)をすりこ木

ザザ虫とはちの子 伊那市

伊那地方の名物の代表的なものは、さしあたり漬物とソバということになりますが、旅行者をびっくりさせるような料理のいくつかがあります。その代表的なもの

権兵衛街道 伊那市

伊那市から西へ木曾谷と結ぶ道に、権兵衛街道と呼ばれる街道がありますが、今はハイカーが利用することのほか、一般の人はあまり歩かない道です。この道は

杖突街道 伊那市

高遠から北に伸びる杖突街道が、杖突峠をこえて茅野に出ますが、古来伊那地方から甲州路へ抜ける近道として発達しておりました。今から千二百年以上

高遠城 伊那市

元暦元年、笠原氏の築城によって生れた所で、それ以来、七百年間移り変りはありましたが、内藤氏三万三千石の城下町として栄えてまいりました。お城は三峯

絵島の墓・蓮華寺 伊那市

高遠には江戸時代、江島、生島騒動で名高い江戸城お年寄女中絵島(または江島)の墓が、日蓮宗蓮華寺の中にあります。江戸での不祥事で、高遠藩にお預

杖突峠 伊那市

この峠はもと中洲村神宮寺から上伊那郡の藤沢村、長藤村を通って高遠町に通ずる峠で、標高一二四七メートルのところです。左右に桜の並木が続いて

建福寺 武田勝頼 伊那市

臨済宗の建福寺は文覚上人が道場しこして開いたのを、建長五年(一二五三)に大覚禅師が再興したものです。その後、武田勝頼や保科氏の崇敬も厚く、

高遠の石工名人 伊那市

今から四五○年以上前、天文一六年(一五四七)に武田信玄の命によって家臣の秋山信友と山本勘助らが高遠城を築いた時、この街道ぞいの人達は城の石垣

伊沢修二生家 伊那市

伊沢修二は嘉永四年(一八五一)高遠藩の中級藩士の子として生まれ、慶応三年(一八六七)に江戸に出るまでここに住んでいました。現在復元された生家は

進徳館 伊那市

万延元年(一八六○)に藩主内藤頼直が藩士を養成するために開設した学問所です。はじめは三の丸学問所といっていましたが、のちに林大学頭によって

絵島の囲み屋敷 伊那市

高遠城跡の南、高遠湖のそばに建つのが絵島の囲み屋敷です。はじめは城下町から東ヘ二キロほどの火打平の松林に、江戸城大奥に仕えた絵島が流刑に

春日城跡公園 伊那市

旧時代の宿場町、伊那部宿跡の面影をとどめるあたりをぬけると、伊那部大和守重慶が築いたと伝えられる、春日城跡に着きます。天正年間、織田信長の

上田紬 上田市

上田紬は、上田城を築いた、真田昌幸の伝える、真田織がはじめと伝えられます。およそ、四○○年の歴史があり、その後、百年あまりの間に改良され、

上田原の合戦 上田市

今から約四五○年以上前、天文十七年の春、この上田原附近一帯に亘って武田氏、村上氏が大血戦をした古戦場です。武田晴信が精鋭七千余を引きつれて

信濃国分寺跡 上田市

信濃国分寺は、今から一二五○年の昔、天平十三に(七四一)に聖武天皇が全国に国分寺を建立するようお命じになられました。天皇は、仏教によって、日本全土

美ヶ原高原美術館 上田市

ビーナスラインの終点、日本一高く、美しい高原といわれる美ヶ原高原の一角にあるのが、美ヶ原高原美術館です。広さは一三万三千平方メートルで、さわやか

上田城跡 上田市

千曲川にのぞむ台地上に築かれた城は、今から四○○年以上前、戦国の豪雄・真田昌幸によって築城されました。それ以来、四○年あまり、真田氏の本拠と

戸石城跡  上田市

天文年間、北信一帯に勢力を得ていた村上義清公の家臣、津久左衛門の築いた城跡です。武田信玄は、この城を陥すため、非常に苦心しました。千人もの兵

岡村城址 上田市

豪士岡村氏の居城でした。城址は東西四丁、南北三丁程の平城で、内廓は周囲に土塁を築き、外廓がこれを巡っておい城址のうちに、古井戸が七ケ所も

依田城跡 上田市

鎌倉時代に源氏の流れを汲む依田二郎の居城でした。治承四年(一一八○)の九月、二十七才の木曽義仲は木曽谷で兵をあげ、平家追討に立ち上りました。

鹿教湯温泉 上田市

内村温泉郷の中では一番大きく、その昔文珠菩薩の化身である鹿が、信仰厚い猟人に温泉のありかを教えたと伝えられます。昔から高血圧に効く名湯で、

真田一族 上田市

六連銭の紋所で知られる真田一族は、清和源氏の流れを汲東信濃の豪族です。清和天皇(五六代)の孫にあたる、海野小太郎滋野幸恒が、ただ今の東部町

霊泉寺温泉 上田市

内村川の支流にあたる霊泉寺川に沿った温泉で、和銅年間(七○八〜七一五)に平維茂が発見したと伝えられる。昔は霊泉寺の寺の湯として病人の入浴の

別所温泉・塩田平 上田市

塩田平は信州の鎌倉とよばれ、独鈷山、夫神岳、女神岳に囲まれた盆地で、夫神岳の麓には日本の名湯別所温泉があります。別所温泉は平安時代から都

女工哀史 岡谷市

長野県では長野、松本、上田に次ぐ四番目の古い市で、昭和初期までは、文字通り養蚕と製糸一色の町でした。江戸幕末までは全くの寒村でしたが、諏訪市と

塩嶺御野立公園 明治天皇 岡谷市

明治十一年九月、明治天皇は北陸ご巡幸の往復にこの地にお立ち寄りになり、親しく成辰の役の激戦の跡をおしのびになられたそうです。当時、せめるは薩長連合

 

 

 

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高遠城

 

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上田城跡

 

諏訪湖 岡谷市

諏訪湖は西の赤石山脈、東の北八ヶ岳連山にはさまれた断層湖で、周囲十八キロ、面積四・五平方キロ、最大水深七メートル、周囲の河川から流れこむ

日限地蔵 合掌造り 岡谷市

合掌造りの瓦ぶきのお寺・平福寺です。このお寺の境内には、日限地蔵菩薩がお祀りされております。日限とは、日を限って願をかけることで、かけた願

岡谷蚕糸博物館・美術考古館 岡谷市

岡谷が製糸の町であったことを記念して造られた博物館で、一階には日本に二つしかないフラソス式の機械をはじめ、日本蚕糸業発展の元となった座繰式

トクホン・永田徳本の墓 岡谷市

トクホンの元祖は、江戸時代の医者であった永田徳本という人でした。永田徳本は、三河国大浜村に生れ、初めは甲斐の武田信虎のもとで「陣中要薬、十九万

釜口水門 岡谷市

天龍川の起点となる諏訪湖の西にある釜口水門は、イギリス人ストニー氏の設計で、諏訪湖の水位を調節しており、昭和七年に完成したものです。また水門の

観音院と諏訪御寮人 岡谷市

武田信玄の側室で、勝頼の実母である由布姫(ゆうひめ)は信玄にほろばされた諏訪頼重の娘です。したがって信玄は父の敵にあたりますが、これも戦国の

伊那節の由来 上伊那郡

元禄四年(一六九一)、内藤清牧が高遠の三万三千石の藩主になった時、早々に徳川幕府から、ただ今の税金にあたる上納を多額に割当てられ、領内だけでは

方倉学校跡 上伊那郡

明治十五年(一八八二)に建てられました。今では上伊那郡最古の学校建築で、アーチ付の窓をもった和洋折衷の建物です。

飯島町 上伊那郡

この町は明治二年、廃藩置県の折に、伊那県庁がおかれていました。江戸時代には、飯島陣屋と呼ばれる代官所がニラミをきかしていたということです

与田切川・無縁仏 上伊那郡

「伊那の七谷」の一つで、川の中でも、あばれものの筆頭にあげられている与田切川です。源を中央アルプスの念丈ヶ岳に発し、この先で天竜川に注いで

千人塚 上伊那郡

戦国時代の古戦場として知らます。天正十年(一五八二)甲州武田氏を攻めて、織田信忠の軍が伊那谷を北上した時、ここを守った上沼左近と激戦を展開

西岸寺 上伊那郡

室町時代の名刹西岸寺です。弘長元年(一二六一)大覚禅師の開山で、かつての建物は弁天堂だけですが、本堂は堂々とした構えをみせています。背後には

高遠町 上伊那郡

高遠町は木曽義仲の六世、家村の嫡子義親が高遠と名乗り、この地を高遠とよぶようになったのがはじめと伝えられます。そ一の後、内藤氏がおさめるところとなり、

牛首峠の由来 上伊那郡

昔、木曽街道は関東方面から来る御岳参りの信者達が白装束に身をかため、チリソチリソと鈴をならしては峠をこえておりました。この街道の途中に、長者平

川島十一面観音 上伊那郡

今からおよそ六四○年以上前、善光寺の妙海というお坊さんが作ったといわれ、次のような伝説があります。昔、このあたりは「宮処の牧」と言われた古い歴史

横川川の渓谷美 上伊那郡

山間を流れている横川にそって、一○キロ程参りますと、横川ダムがあります。横川川のみなもとは中央アルプスの経ヶ岳(二二九六メートル。坊主岳一九六○

辰野町郷土美術館 上伊那郡

金閣寺を模した美術館です。美術館は美術の町のシンポルとして町民の願いによって、昭和五十三年(一九七八)に造られ、館内には郷土を代表する芸術家の

小野 宿場町 上伊那郡

昔は、三州街道の宿場町として栄えた所で、今でも当時の面影をしのぶことができます。昭和三十六年、住民投票によって辰野町に合併いたしました。小野は

枝垂栗 上伊那郡

小野駅から左へ三・三キロ程の「天狗原」というところに、天然記念物の枝垂栗の自生地があります。大小八○○本余りの栗の木があり、枝の長く垂れてい

宮木宿 上伊那郡

宮木は、松本と諏訪に通ずる分岐点に当り、昔は宮木宿といわれ、三州街道の宿場の一つでした。宮木宿が開かれる前は、辰野町の新町と宮所が、半年交代

中川村片桐 上伊那郡

昭和三十三年八月、南向と片桐の二つの村が合併して中川村となったところです。村の大部分が山林で約八○%を占めています。片桐集落には、古墳時代の

権兵衛峠 上伊那郡

権兵衛街道は、今から三○○年以上前の享保の頃、木曽の日義村に「古畑権兵衛」という大変力持ちの馬方がおりました。権兵衛は、日義村から一二七七メート

権兵衛街道 上伊那郡

この道は、その昔、元禄九年(一六九八)木曾宮ノ越の牛行司、神谷権兵衛が、伊那盆地と木曾谷を結ぶ、鍋掛峠越えの道を開いたことから、その功を記念して

箕輪遺跡 上伊那郡

総面積一○○ヘクタールにわたる一大集落のあったところで、昭和二十七年に発見され、たくさんの遺物が堀り出され、弥生式、土師式の水田跡として、

松島・宿場 上伊那郡

箕輪町の中心松島は、三州街道の宿場として栄えた所です。江戸時代も終りの元治元年(一八六四)、尊王懐夷を唱えて水戸藩内に乱を起し、当時京都に

松島王墓古墳 上伊那郡

この古墳は前方後円墳で、西歴五○○年頃の古墳時代中期のものといわれます。(敏達天皇の皇子・頼勝親王の墓と伝えられている)。以前、この古墳の

北斉館 上高井郡

北斉館は、江戸時代の浮世絵の大家・葛飾北斉の絵画が展示される所です。小布施に住む豪商・高井鴻山と親交の深かつた北斉が小布施に滞在中に創作した

日本のあかり博物館 上高井郡

現代の私達は、何の不便も感ずることなく、夜の暮しを楽しんでおります。しかし、電灯が普及した明治時代のなか頃までは、暗いあかりを頼りに、大変不自由

岩松院 葛飾北斉 上高井郡

岩松院は、葛飾北斉の天井絵のあることで知られます。お寺は、雁田城主・荻野常倫によって、今から五四○年以上前の文明四年(一四七二)に開かれた、

小林一茶と蛙合戦 上高井郡

岩松院の池には、毎年春の花見どきに、大きな蛙が集まり、雌の産卵するのを雄が手伝うのですが、この雌の数が少ないため、雌の取りあいがはじまります。

 

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諏訪湖

 

木花咲耶姫とゴマの伝説  上高井郡

子安神社から先の集落では、ゴマを作らないといわれ、それには、こんなお話が伝わっています。ある秋の夕暮れ、木花咲耶姫が白いもすそをひるがえしなが

子安神社 上高井郡

高井小唄に「ハァー お産かるくて あなたと二人 アヨイトセ コリャセ お礼参りの 子安様 ソレ 高井良いとこよいとな」と歌われる安産の神様、ニニギノミコト

山田温泉 文人墨客 上高井郡

山田温泉は、もと牛窪温泉といわれ、今から六二○年程前の応永年間(一三九四)に発見されました。そ昔は、士を掘ってお湯をためて、入浴したといわれます。

八滝 上高井郡

およそ一○○メートル程上から松川に落ち込んでおり、途中八ツの段階がありますので、八滝とよばれます。芽ぶきの頃、もえるような緑につつまれる滝も

藤沢焼窯跡  上高井郡

藤沢焼は、江戸時代、須坂藩主が当時名声の高かった陶工の吉向父子を、江戸から招いて焼かせたものでした。その焼物は、吉向焼の流れをくむもので

五色温泉  上高井郡

五色温泉は、その日の天候、気温によってお湯の色が、グリーン、ミルク、クリーム、コバルト、ブラックの五色に変化することから名づけられました。渓流ほとばし

雷滝 上高井郡

雷滝は高さ三十メートル、幅五メートルの滝で、水の落ちる口が庇のように張り出して、滝の裏側が通れるようになっています。滝を裏から見ることができるので

七味温泉 上高井郡

「つきもせぬ 恋に涙を わかすかな 七くりの 出湯なるらん」と、御捨遣集にもあるこの七くりの湯が七味温泉です。七味とは、それぞれ源泉の異なる七つ

福井城祉 上高井郡

今から六百年以上前、高坂入道心寛の居城で牧の城と呼ばれ、この牧地方文化の中心地でした。その後、戦国時代に上杉景勝の臣、牧伊賀守為忠が

山田牧場 上高井郡

山田牧場は、笠岳(二○七六)の南西のすそ野にひろがる高原の牧場です。標高一八○○メートルもの草原のかなたには、北アルプスや北信五岳、長野盆地

小林一茶 上水内郡

江戸時代の後期にかけて活躍した俳人です。一茶は本名を弥太郎といい、江戸時代の宝暦十三年(一七六三)に信濃国水内郡柏原村の本百姓弥五兵衛の

一茶の旧宅 上水内郡

江戸時代の文政十年(一八二七)、柏原におきた大火で一茶の家も類焼し、焼け残った土蔵で中風の療養をしていましたが、その年の暮に六十五年の生涯を

明専寺 一茶の菩提寺 上水内郡

一茶の菩提寺・浄土真宗の明専寺です。毎年十一月十九日の一茶忌には全国から同好の人々が集まり、そのとき新そばの手打ちを食べるのが恒例と

野尻湖 ヘピカニ合戦の伝説 上水内郡

諏訪湖についで長野県第二の湖水です。この湖水は、斑尾火山から噴き出した溶岩が、旧斑尾盆地をせき止めて出来たもので、水面の高さ六五四メートル、

天龍川 上水内郡

天龍川は、諏訪湖に源を発し、遠州浜松から太平洋にそそぎます。この諏訪の地は、山国信州の名にふさわしく八ヶ岳をはじめ、三○○○メートル級の山々が

軽井沢 軽井沢町

かつては、一茶が「初雁も とまるや恋の 軽井沢」とよみ、追分、沓掛と共に、浅間根三宿の一つとして、大変繁栄致しました。碓氷峠にアプト式機関車が通って

駒ケ岳濃ケ池の伝説 木曽郡

駒ケ岳山麓の、原という所に一人の男がおり、ある秋の日、村一番の機織りの上手といわれた”おのう”という美しい娘を嫁に迎え、人もうらやむ、仲のいい夫婦

小野の滝 木曽郡

木曾八景の一つに数えられる、小野の滝です。高さ三○メートルの、このかわいい滝は、安藤広重の「木曾名所図絵」にもとりあげられている美しい滝で

かくれ滝 木曽郡

戦国の昔、合戦に敗れた一人の武士が、この地に逃れきて、滝の岩かげに身をひそめていましたが、やがて追手に見つかり、滝つぼに身を投げて、命を終ったと

寝覚の床伝説 木曽郡

この付近の木曾川は特に美しく、花崗岩の節理に、木曾川の浸蝕が作用して、深い渕を作っており、江戸時代には、芭蕉や十返舎一九も訪れて、天下の奇勝に

須原宿  正岡子規 木曽郡

中仙道の宿場町として、又、木曾十一宿の一つとして賑わった須原ですが、国鉄が開通されてからは、すっかりさびれてしまい、わずかに旧道ぞいの古い家並が

池口寺 木曽郡

境内の薬師堂は、鎌倉時代の創建といわれ、薬師堂の柱はエンタシスの柱といって、柱の途中が、トックリのようにふくらんだ、珍らしい柱です。薬師像、

白山神社 唯一の国宝 木曽郡

小さなお社ですが、後醍醐天皇の頃の建物で、白山神社本殿、蔵王神社本殿、伊豆神社本殿、熊野神社本殿の四つのお社があり、木曾で唯一の、国宝

定勝寺 木曽郡

このお寺は、木曾義仲十一代目の、右京太夫源親義が、義仲の菩提寺として建立したものですが、木曾川の氾濫で、何度か被害を受け慶長三年(一五九八)に

木曾義仲ゆかりの地  巴御前 木曽郡

今からおよそ八百年の昔の寿永三年、義仲は琵琶湖のほとり、粟津の原の合戦で、討死にをしていますが、幼い頃は駒王丸とよばれ、二歳の折、父が戦いに

手習神社と兼遠屋敷跡 木曽郡

ここは、義仲が十三歳の、元服の頃まで育てられた所で、そこには元服の松や、兼遠塚等があります。そのすぐ右手の丘には、木曾義仲ゆかりの、手習神社が

木曾路 木曽郡

飛騨山脈と、木曾山脈にはさまれ、山林資源に恵まれた木曾は、昔から木の国として重要視され、独特な木工業によって栄えてきました。美濃、信濃の両国

徳音寺・義仲の開基 木曽郡

徳音寺は、木曾義仲の開基と伝えられます。仁安元年(一一六六)春、十五歳で元服した駒王丸は、木曾次郎源義仲と名乗りました。その年の秋に、母の

巴ケ淵 木曽郡

巴御前が水浴をしたり、髪を洗ったとところといわれます。、またや家来の者と競って、水泳をしたなどという、伝説があります。そしてこの地は、義仲の死後

木曾節 木曽郡

高い山々にかこまれた木曾谷で、今に唄われる木曾節には五四○余年の長い長い歴史があります。木曾義仲十二代の子孫、木曾信通のとき、祖先義仲の菩提

 

 

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軽井沢白糸の滝

 

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野尻湖

 

宮ノ越 宿場の面影 木曽郡

日義村宮ノ越とは、旭将軍義仲に因んだ村名です。この宮の越には”巴ケ淵””山吹山”といった義仲の、愛妾二人の名をつけたところもあり、この地もまた義仲

藤村文学碑 木曽郡

木曾川に臨んだ、小さな庭園の中に、藤村の「夜明け前」の序の章を刻んだ文学碑があります。和歌や俳句の碑は、どこにでもありますが、文章の、それも原稿を

興禅寺 義仲の遺髪 木曽郡

室町時代の中期に、木曾信通(義仲十二代の子孫)が、義仲の菩提を弔うために建立したお寺です。境内には、義仲の遺髪を埋めた墓があります。言い伝えに

山村代官屋敷跡 木曽郡

今は福島小学校が建っていますが、屋敷の一部が残されており、「城陽亭」という名で現存しております。これは、いわば、山村邸の別邸で、史跡として一般に

木曾郷土館 木曽郡

郷士館は、昭和四十四年秋に完成された木曾路では大変モダンな建物です。樹令数百年のひのきの美林に囲まれ、木曾谷の向うに、さっそうと駒ケ岳の勇姿

福島の関所跡 木曽郡

島崎藤村の代表作「夜明け前」に「鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取締りを厳重にした時代に、これほど好い要害の地勢もないからである。この渓谷の

高瀬家(藤村資料館) 木曽郡

高瀬家は、島崎藤村の姉がとついだ家で、藤村が明治三年の夏、この家で新体詩「夏草」を書き、また、長編小説「家」のモデルになった家です。高瀬家は代々

お六櫛とネズコ下駄 木曽郡

昔、むかし、ある夫婦の一人娘お六は、年頃になっても持病の頭痛になやみ、ひどい時には、熱を出して、ひきつけてしまう程でした。このため両親は、何とか

薮原宿 木曽郡

この宿は、野麦峠を越えて、飛騨.高山に通じる道と、上高地への分岐点であり、昔から交通の要所となっていた所です。鳥居峠をはさんで、峠を登る人も、

極楽寺 雪舟、応挙等の絵 木曽郡

元亀・天正年間(一五七〇~一五九二)創立されました。現在の本堂は元禄四年(一六九一)に建立され、入母屋造り茅葺でした。昭和一七年大改修がなさ

田立の滝 木曽郡

昭和二十五年、日本観光百選にえらばています。高さ九六メートル、巾十三メートルの天河滝を初め洗心滝、らせん滝、霧ケ滝、不動滝等、沢山の滝を総称

妻篭宿 木曽郡

長い年月、火災にもあわなかったこの宿場は、三百年もの古い家が残されており、古い石だたみの街道が、昔をしのばせます。この妻篭に”宿場町の姿を

大妻篭 木曽郡

妻篭宿と向じように、古い家並が多くみられます。ここには白木改番所跡があり、また滝の名所としても知られています。滝は男滝、女滝があり、滝つぼ近くまで

妻篭城跡 木曽郡

文明年間、三留野家教(みどのいえのり)が砦を構え、後、木曾義昌が築城したといわれます。小牧長久手の合戦の時、農民による松明や紙旗を、義昌軍の

脇本陣奥谷 皇女和宮 木曽郡

明治十年に再建された、三階建ての豪壮な建物で、木曾十一宿のなかでも、一番といわれる立派さです。この脇本陣は藤村の「夜明け前」に出てくる、扇谷得右

浅間山 北佐久郡

浅間山は火山の多い日本の中でも、特に活動の盛んな活火山で、爆発の大きさ、噴出物の多い点などに特徴があり、群馬県、長野県の境にある海抜二五四二

軽井沢町 北佐久郡

「初雁も とまるや恋の 軽井沢」と、一茶の句にも見られ、かつては追分、沓掛とともに、中山道の浅間根三宿の一つとして栄えました。碓氷峠にアプト式機関車

軽井沢町と文学碑 北佐久郡

軽井沢は多くの作家や芸術家に愛されて来ました。正宗白鳥や白井喬二をはじめ、有名無名の芸術家が別荘をかまえ、多くの名作が生れました。文人と縁が

北原白秋歌碑 北佐久郡

軽井沢町は、多くの文士に愛され、作家の別荘も多く、沢山の名作がこの軽井沢から生まれました。詩人の北原白秋も星野温泉からの浅間山と、落葉松の

中軽井沢 北佐久郡

中軽井沢は昔の沓掛で、浅間根三宿の中心として中仙道と大笹街道の追分に当り、大そう繁昌した宿場でした。昭和三十一年五月に情緒ある沓掛の名が消え

追分宿 北佐久郡

浅間三宿(軽井沢、沓掛、追分)の中でも観光化の波を受けず、ようにひっそりと残っております。街道の昔は、北国街道と中山道の追分にあったため、貞享の

桝形の茶屋  北佐久郡

追分宿の出口(軽井沢から行った場合)に残るのが桝形の茶屋です。右角の古い出梁の二階に白い壁に「枡」の形が残り、その右に、つがる屋と、店の屋号

芭蕉の句碑・浅間神社  北佐久郡

浅間神社境内には松尾芭蕉の「ふきとばす 石も浅間の 野分かな」の句碑があります。  *更級紀行:松尾芭蕉四十五歳の年(元禄元年・一六八八)に信濃の

分去れの碑 北佐久郡

常夜灯と石仏、そして分去の碑です。その昔は北国街道と中山道が分れた所でした。「分去れの辻の道しるべには さらしなは右 みよしのは左にて 月と花

堀辰雄文学記念館 北佐久郡

追分宿の東の入口近くに、作家の堀辰雄が住んだ家があります。堀辰雄は、川端康成や中野重治と同時に活躍した人です。東京生れでしたが、後に、この

信濃追分一里塚 北佐久郡

お江戸日本橋から三○里(一二○キロメートル)の道のりを示し、塚の上には木碑も立って、徳川時代の原型を今にとどめております。全国に残る一里塚の中

峰の茶屋 北佐久郡

海抜は一四○六メートルあり、昔は、中軽井沢・昔の沓掛と草津を結ぶ街道に当っておりました。大笹街道、とよばれたこの街道は旅人の往来がはげしく

沓掛時次郎・長倉神社 北佐久郡

中軽井沢駅の近くに長倉神社があります。延喜式内社で、街道の昔は道中の安全を祈る人々で賑わいました。神社の境内に沓掛時次郎の碑があります。

小諸義塾 島崎藤村 北佐久郡

キリスト教の牧師であった木村熊二によって開かれた私塾です。ここで島崎藤村が英語を教えていました。小諸義塾の建物は、本陣の脇に移され病院の建物の

樽ヶ沢温泉 北佐久郡

樽ヶ沢温泉は、白樺湖高原の一部にひらけた温泉で、標高は一五○○メートルあります。お湯はアルカリ性塩類冷泉で、湯温は十九度ぐらいしかありませんが

 

 


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妻篭宿

 

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 軽井沢~雲場池

 

光徳寺  北佐久郡

この辺一帯を領していた芦田氏の菩提寺光徳寺です。この寺は、芦田氏三代の子忠政が宝徳三年に建立したものです。芦田氏は戦国の世、武田氏に

御泉水自然園 北佐久郡

標高一八三○メートルの高所にひらけた自然園は、長野県が明治百年記念事業のひとつとして開園した自然探勝の公園です。園内は御泉水とよばれる湧水

鳴石 北佐久郡

直径七尺余りの大きな石で形がお正月の鏡餅に似ているところから一名鏡石とも云われます。此の石は木や石で打つと、何とも形容の出来ない神秘的な

与惣塚 北佐久郡

遠い昔、小県のネズのお姫様と諏訪の美しい若様とが蓼科に狩をした時一目会ったのが縁で、相思相愛の仲となり二人は供もつれずに此の地ではかない

蓼科神社 里宮 北佐久郡

この社の創建は五十九代宇多天皇の御代と伝えられ、約一一○○年以上前のものだそうです。本殿の御祭神は高御産霊神で、ここには木花咲那姫命

女神湖 北佐久郡

昔は赤沼とよばれた小さな沼でしたが、昭和四十一年に沼を堰止めて造った人造湖です。湖の標高は一五四○メートルで、都会的な雰囲気がただよい

津金寺 百八ヶ寺の末寺を持つ大本山 北佐久郡

正しくは、恵日山修学院津金寺といい、天台宗信濃五山の一つとして栄えました。今から一三〇○年以上前の大宝二年(七○二)に名僧・行基菩薩によって

宇山堰跡記念碑 北佐久郡

蓼科山の山麓から中腹にかけては、昔から水の便に恵まれておりませんでした。これは、火山灰土壌のため水を吸いこみやすく吸い込んだ水が土中深くも

養命酒工場 駒ヶ根市

養命酒は、三六○年以上の伝統をもつ、天然の動植物を原料とした合成酒で、この養命酒についてのお話は、いろいろ残されていますが、歌舞伎や映画で

駒ケ根郷土館 駒ヶ根市

竹村家住宅のとなりに、駒ケ根郷土館が建っています。この建物は大正十一年に、旧赤穂村役場として建てられ、のちに、駒ケ根市役所の一部となりま

光前寺  霊犬伝説 駒ヶ根市 

このお寺は慈覚大師のお弟子、本聖上人が、大田切川の上流、不動滝の滝壷から一体の不動尊を拾われ、寺院を建てて、お祀りしたのが始めといわれま

駒が池  聖徳太子 駒ヶ根市 

駒ヶ岳頂き近くに岩でかこまれた、周囲四メートルの小さな池です。いかなるかん天でも、水の絶えた事がないといわれます。聖徳太子が、黒駒にを飲ませた

竹村家住宅  東日本で最古 駒ヶ根市

駒ケ根高原の中にある、大沼のほとりに、長屋門のついた大きな、茅葺の農家が保存されています。この家は、もとこのあたりで名主や問屋をつとめた、竹村家

小諸市 

徳川時代には、牧野氏一万五千石の城下町で、又、北国街道の宿場町として賑わいました。「ここはどこかと馬子衆に問えば ここは信州小諸宿」。参勤交代の

糠塚山の伝説 小諸市

昔、むかしのこと、この近くの糠塚山のふもとにお金持の庄屋がおりました。沢山の召使がおりましたが、その中に乙女という可愛いい少女がいて、乙女はとても

布引観音堂・釈尊寺 小諸市

「牛に引かれて善光寺詣」の云い伝えで知られる布引観音がお祀りされております。伝説によりますと、その昔、布引山の麓に大変へんくつなお婆さんが

懐古園 小諸城跡 小諸市

小諸城跡は、只今は懐古園と呼ばれます。十五世紀の始めに、大井伊賀守光忠によって築城され、その後、武田信玄の支配下に入ったために、信玄の

小諸城の大手門 小諸市

慶長十八年(一六一三)建築の小諸城の表門で、中央に連子格子の出窓があります。三河の国から運ばれた瓦の一枚一枚に製作所の名前が刻まれて

島崎藤村記念館 小諸市

明治五年(一八七二)長野県木曽郡山口村馬篭に生れました。家は代々庄屋をつとめ、本陣と問屋も兼ねる旧家でした。本名は島崎春樹。明治一四年

旧小諸本陣 小諸市

旧小諸本陣は北国街道筋に残されている数少ない本陣で、本陣と問屋をかねていました。江戸後期の建築と推定され、母屋と表門が現存しています。

信濃仏舎利塔 小諸市

仏舎利とは、お釈迦様の生身の分体のことをいいますが、ここでは遺骨を意味します。それがインドのネール首相から熊本県の藤井日達上人に寄贈されまし

岩村田の光ごけ 佐久市

湯川の上流に光ごけ自生地があります。岩村田のヒカリゴヶケは日本で最初に発見されたもので、大正十年に国の天然記念物に指定されました。ヒカリゴヶは

相生の松 佐久市

天然記念物相生の松で、一本の松から黒松、赤松が出ているので、相生の松と呼ばれます。二本の松が仲良く生えていますが、一本の方には実がならず、

竜雲寺 武田信玄の墓 佐久市

宗派は曹洞宗に属し、正和元年(一三一二)の創建と伝えられ、領主の大井氏の滅亡後は武田信玄の帰依を受けて栄え、徳川時代には三代将軍。徳川家光

鼻顔稲荷神社 佐久市

今から四○○年以上前に、京都の伏見稲荷をこちらに移し、商業と養蚕の神として信仰され、毎年二月の初午祭には、県の内外からの参詣者でにぎわい

稲荷山公園・古戦場 佐久市

戦国時代、桜井対馬守がお城を築いた所です。稲荷山からこの辺り一帯は、天正十八年(一五九○)、前山城主伴野刑部と、相木城主相木能登守の連合軍

内山峡と奇岩怪石 佐久市

内山温泉から、およそ三キロの耽水(いぼみず)までが内山峡で、新緑と紅葉、そして雪見の名所として知られています。滑津川ぞいには奇岩怪石が多く、

孝子・亀松の墓  勝海舟の筆 佐久市

今から二二○年以上前のこと、土地の亀松少年は父親と二人で田畑の見張番をしていました。すると突然、父親が狼におそわれました。父親の悲鳴に

山王桜姫 佐久市

むかし、むかし、この苦水に身分の高い役人が都から移り住みました。そして、この内山地区に住む、山王桜姫と愛し合うようになりました。しかし、その幸せ

ナンマイダの話 佐久市

内山地区の大月や苦水の集落には、ナンマイダとよばれるお盆の行事が残っています。その行事は八月十四日の朝に、大月や苦水の子供達が大数珠


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小諸城・大手門

 

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小諸宿本陣主屋

 

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龍岡城五稜郭

 

 

初谷温泉  佐久市

山里の静かな秘湯。源泉は宝命水と呼ばれ、飲泉浴で胃腸病等に効能があります。素朴な一軒宿はハイカーの基地として知られています。日本秘湯を守

正安寺 独芳清水 佐久市

昔、むかし、正安寺に独芳という徳の高い和尚さんがおりました。この和尚さんは、神奈川県小田原の最乗寺の悪法師を法力で改心させましたが、この時

内山峡とコスモス街道 佐久市

内山地区を流れる滑津川ぞいは、奇岩怪石の続く景色の良い所で、その渓谷そいの九キロ一メートルにわたり、コスモスが植えられました。これは、内山地区

明泉寺  名僧・円仁 佐久市

名僧・円仁が開いた天台宗の明泉寺です。鎌倉時代には源頼朝が、そして、戦国時代の末には、甲斐の武田勝頼が、多くの品々を寄進し、また、山頂には

竜岡城五稜郭 佐久市

国の史跡に指定される、竜岡城跡です。竜岡城は、今からおよそ一五○年以上前、文久三年(一八六三)に、三河の国(愛知県)から国替になった松平乗謨

旧中込成知学校   最古の建築物 佐久市

建物は明治八年(一八七五)の建築で、当時は大変モダンな校舎でした。これは、佐久市出身の市川代治郎氏の設計・施工によるもので、中央に八角の塔

佐久の鯉 佐久市

佐久盆地は、古くより鯉の養殖がさかんでした。その佐久の鯉の本場が野沢です。この地方で鯉の養殖を行うようになったのは、今から一七○年以上も前の

金台寺  踊り念仏 佐久市

今から七五○年以上前、一遍上人がはるばる鎌倉から来て、はじめて開いたお寺といわれます。この寺にゆかりのある、野沢町跡部の念仏踊りは、一遍上人

おてばの力持ちばあさん 佐久市

城山の近くに「おてぱ」という所があり、とても力持ちのおばあさんが住んでいました。このおばあさんは、とても世話づきで、荷物をつけた馬が橋から落ちたと

貞祥寺・島崎藤村旧宅 佐久市

今から四六○年以上前に、前山城主・伴野左ヱ門貞祥が、先祖の供養のために建立したお寺です。開山以来、歴代領主の帰依も厚く、甲斐の武田信玄

榊祭 農民一揆 佐久市

毎年八月二日の夜行われる榊祭は近郷に知られた行事です。この祭りの起りは、昔、この地に農民の一揆が起り、たいまつをかざして陣屋におしよせようと

善知鳥峠 塩尻市

標高八八九メートル、塩尻峠と共に、表日本の分水嶺をなすところで、”伊那谷にしようか、それとも松本平にしようか”と、落ちた雨は、片や舟下りで有名な

善知鳥の伝説 塩尻市

善知烏という烏は、寒い地方に住む海鳥の一種で、昔から詩歌、謡曲、狂言、歌舞伎などに出て来る伝説の烏として有名です。多くは、青森県の外ヶ浜に

塩尻の名のおこり 塩尻市

武将で知られた今川、北条の両氏は、甲州の武田信玄を苦しめようと、日常なくてはならない塩を、武田の領土に送らないことにしました。この話を聞いた

洗馬  名の起り 塩尻市

洗馬は、昔は、中仙道と北国脇往還といわれた、善光寺西街道(西街道)の、追分宿として栄えた宿場町でした。この洗馬という名の起りは、木曾義仲が

茶つぼ道中  三代将軍家光 塩尻市

大宝寺のすぐ隣りの長泉寺もかなり大きな寺として有名ですが、かつて、奈良井千軒で栄えた頃、茶つぼ道中の定宿であったという、古文書が、先頃発見され

鳥居峠  葬り沢  由来 塩尻市

一三六二メートルの鳥居峠です。鳥居峠という名は、木曾義仲十七代目の子孫の義允が、明応年間、松本勢との合戦の時、この峠から御岳山に、戦勝の

枝垂栗自生地  天然記念物 塩尻市

天然記念物の枝垂栗の自生地です。三百余株の栗の木があり、枝の長く垂れている姿は、丁度唐傘を開いたようで、大変美しいものです。その昔、天狗が

桔梗ヶ原の古戦場 塩尻市

今から五百年前、征夷大将軍として、信濃の守護職に任ぜられた宗良親王と、足利幕府の小笠原氏がこの地で戦いを交えました。官軍の大将矢崎正忠が

桔梗ヶ原の地名由来 塩尻市

桔梗ヶ原という地名は、京に帰る原、つまり帰京ヶ原とも書かれています。伝説によりますと、唐の玄宗皇帝が、世界的美人楊貴妃の菩提をと弔うために、

木曾漆器館 塩尻市

平沢は奈良井と共に、江戸時代初期からの、漆器の町として知られています。昭和二十四年に、会津若松、輪島、静岡と並んで、”重要漆工業団地”に

小野神社・矢彦神社 塩尻市

大正十四年天然記念物に指定された、信濃二の宮「小野神社(長野県塩尻市北小野175-1)」」と「矢彦神社(長野県上伊那郡辰野町大字小野3267)」です

小坂田公園・灯篭流し  皇女和宮 塩尻市

お盆に催される灯篭流しは有名です。また、今からおよそ百年以上前の文久三年、公武合体の犠牲者となった皇女和宮が、徳川家茂におこし入れの途中

永福寺  木曽義仲 塩尻市

真言宗の古いお寺で、仁王様は、彫刻家・高村光雲の高弟、太田南海の作といわれております。叉、旭将軍とうたわれた木曽義仲に由緒の地として

小野家住宅 塩尻市

重要文化財に指定される小野家です。この建物は、宿場時代から残る古い建物で、当時の民家の型を良く残している建築物です。

平出遺跡  日本の三大遺蹟 塩尻市

静岡県の登呂遺蹟、長野県茅野市のトガリ石遺蹟とともに、日本の三大遺蹟に数えられる有名なものです。この遺蹟は、畑仕事をしていた農家の方が発見

塩尻峠(頂上)と伝説 宮本武蔵 塩尻市

峠の頂にはいろいろな物語りや、伝説が残っております。その一つに、旭将軍とうたわれた木曽義仲がまだ駒王丸といった二才の頃、源義平に危く命をねらわれた

大宝寺 すばらしい庭 塩尻市

大宝寺は宿場の中程にあり、以前は天照山広伝寺といって、字豊口という所に建てられていたのですが、天正十年(一五八二)奈良井義高によって今の所に

奈良井宿  旅篭あんどん 塩尻市

標高一○○○メートルの高所にある奈良井宿です。そして、鳥居峠の下に位置する奈良井は、江戸からかぞえて、三十四番目の宿場にあたるところです。

マリア地蔵尊 塩尻市

有名なマリア地蔵というのは、大宝寺の墓地の中にあり、頭の欠けた石づくりの地蔵です。母親の手に抱かれた子が、手に持つ蓮の花が、十字架をえがいて

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奈良井宿

 

 

 

贄川番所 下り女を改める  塩尻市

贄川番所は慶長七年(一六○二)木曾福島関所の副関としておかれ、明治二年(一八六九)まで続いていましたが、昭和五十一年、関所が復元され、木曾考古館

広丘の歌人たち 島崎藤村など 塩尻市

広丘は、歌人に縁が深く、藤村をはじめ、太田水穂や若山喜志子などの出生地です。叉、アララギ派の歌人島木赤彦は小学校の校長を勤め、桔梗ヶ原を詠んだ

歌ケ丘・歌碑  信濃町

歌碑が五つありますが、この歌碑は、それぞれの芸術分野で一家をなした、しかもこの地に縁の深い方々のものです。(右の方から)丸い銅板には、能画専門家

小丸山公園 百万地蔵尊  信濃町

松の木の根元にお地蔵さまがございます。このお地蔵さまは昭和一八年、当時、ただいまの参議院にあたる貴族院の速記課長。石橋徳作氏の計画により建立され

駒場城・阿智公園  下伊那郡

城山の標高は六九三メートルあり、昔は城の築かれていた山です。今から六○○年以上前に、この地の豪族・駒場次郎が守った城でしたが、その後、甲斐の武田

小野川の頭権現 下伊那郡

小野川からニキロメートルほどの山あいに頭権現とよばれるお社があり、頭の病に霊験がありあす。この小野川に伝わる昔話です。旅の山伏が農夫に殺されて

寒原峠の歌碑 下伊那郡

この峠は標高一○七四メートルの高所にある峠で、冬は交通の難所として知られます。峠には尹良親王にゆかりの歌碑が淋しく残っております。後醍醐天皇の

七久里の初五郎 下伊那郡

浪曲や講談で知られる七久里の初五郎は、清水の次郎長親分の身内で、この七久里の顔役でした。生れは三河(愛知県)の豊川ですが、女のことから生れ故郷

駒場・信玄終焉の地 下伊那郡

駒場は日本で最も古い道東山道が通った所です。その頃、この駒場には阿智駅が置かれ、駅馬三○頭を揃えた重要な駅家の一つでした。江戸時代には宿場町

長岳寺  伝教大師の作 下伊那郡

長岳寺は天台宗の古いお寺で、伝教大師の作といわれる薬師如来像が祀られます。お寺の伝えによりますと、甲斐の武田信玄が三河(愛知県)の野田城を

昼神温泉の伝説 下伊那郡

伊那谷で唯一の硫黄温泉です。網掛山の懐に抱かれる静かな湯の里は、中央高速自動車道の工事の折に発見されました。昭和四八年の高速道路工事の折

金売吉次と梢姫 下伊那郡

義経のお供をして名高い金売吉次は、長野県の阿智村園原の炭焼きの家に生れ、炭焼吉次と呼ぱれていました。京都の公家の梢姫が、年頃になっても、誰一人とし

古歌の里・園原 下伊那郡

園原は恵那山(標高ニ一九○メートル)の東ふもと、岐阜県との境にひらける里で、奈良時代には都(奈良)と東国を結ぶ東の山道とよばれた道が通っておりました

園原の伏屋長者 下伊那郡

伊那谷の地方に残る園原の伏屋長者のむかし話です。その昔、園原に喜藤治(きとうじ)と云う男が住み、園原山で炭を焼くのが仕事でした。その頃、京の都の公家

神坂峠  国の史跡 下伊那郡

美濃(岐阜県)と信濃(長野県)の国境にあり、標高一五九五メートルの峠です。神坂峠附近は国の史跡に指定されており、昔の旅人が神に祈った「古代祭祀

浪合の関所跡  武田信玄 下伊那郡

徳川時代には飯田街道(三州街道)の関所として、旅人の取り締りが厳しい所でした。この浪合の関所は武田信玄の時代に設けられた関所です。甲斐の武田信玄

尹良親王御陵墓 下伊那郡

尹良親王は、南北朝時代・南朝の後醍醐天皇の孫にあたられた方です。父君の宗良親王とともに戦の指揮にあたっておりましたが、父の宗良親王が亡くなられた

瑠璃寺  頼朝の祈願所 下伊那郡

天台宗の瑠璃寺です。建久3(1197)年に源頼朝の祈願所となり、寺領750石を永代寄進しています。ここには平安末期の木造薬師如来と月光、日光菩薩が伝わっ

本学神社  本居宣長 下伊那郡

大変珍らしい神社です。本居宣長、加茂真淵、荷田春満、平田篤胤などの江戸時代の国学の大家をおまつりしています。

竹ノ内家住宅 重要文化財 下伊那郡

高森町の吉田には寛政十一年(一七九九)に建築された、切妻本棟造りの民家があり、昭和四十八年に重要文化財に指定されました。

カラス田の伝説 下伊那郡

神稲村伴野(現在の豊丘村)の山沿いにカラス田という沼田があります。五月雨がシトシト降る夕方、野良へ出た帰りの遅い父を心配して、子供はあちこちと探したの

信玄塚 下伊那郡

武田信玄の供養塔と伝えられます。根羽村は信州から三河に通ずる道の要所にあたっていたため、武田一族にまつわる話が多く、取手と言う場所には、武田信玄の部

茶臼山自然園 下伊那郡

茶臼山高原は愛知・長野の両県にまたがり、主峰の茶臼山は標高一四一五メートルの、愛知県では一ばん高い山です。天龍奥三河国定公園に指定され、東海の軽井沢と

月瀬の大杉伝説 下伊那郡

国の天然記念物に指定されております。高さ四九メートル、周囲一三メートルもあり、推定樹令・一六○○年と伝えられます。昔は月瀬神社の境内にあったのですが、

蛇峠山 武田信玄ののろし台 下伊那郡

昔は、山国信州から外に出ることもなく、海を見ずに生涯をおえる人もおりました。この蛇峠山からは伊勢の海が眺められ、「つつじ踏み分け 蛇峠の山へ 登りや

下諏訪温泉 下諏訪郡

この温泉は徳川時代から多くの旅人に知られ、和田峠越しに東信へ抜ける旅人のつかれをいやす場として親しまれておりました。下諏訪温泉は、妃のヤサカトメのミ

下社秋宮・お舟祭 下諏訪郡

八月一日のお舟祭りには神代の面影を伝えた青柴舟に、お二人の神様をかたどった翁、おうなの二体を安置し、大勢の氏子達がハッピ姿で掛声もいさましく、ひき歩く

志賀高原 発展の由来 下高井郡

今から一六五年以上前の弘化四年(一八四七)に、明治維新の先覚者・佐久間象山先生が、信州松代藩主・真田幸貫公の命を受け、高原の原始林の調査を行い、この時、

あけびづる細工 下高井郡

野沢温泉村のあけびづる細工の歴史は、約一五○年以上前の江戸の終わり頃になります。この地の農家に生まれた河野安信さんは、代かき作業をしていた六月のあ

野沢菜の始まり 下高井郡

野沢菜漬は、雪深い信州の冬には欠くことのできない冬場の漬物で、土地の人は、お葉漬と呼んでいるようです。毎年十一月の中旬、冬を向える準備に取りかかる頃、


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野沢菜

 

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大沼池

 

野沢温泉の始まり  下高井郡

奥信濃の名湯として知られる野沢温泉は、聖武天皇の頃(七二四、~七四八)、この地を訪れた僧・行基によって発見されたと伝えられます。また、修業中の山伏が見つけた

スキー博物館 乃木大将 下高井郡

野沢温泉スキー場には、全国で唯一つのスキー博物館が、昭和五一年に開館しました。館内には、乃木大将(当時は学習院院長)が、新潟県高田の陸軍にいた長岡中将

大沼池と黒姫伝説 下高井郡

今からおよそ四五○年以上前のことです。中野の郷に小館城と呼ぶお城がありました。このお城の城主、高梨摂津守政頼には、近郷に並ぶもののない、美しい一人の姫君、

地獄谷温泉 下高井郡

夜間瀬川の上流、横湯川にそって渓谷かをさかのぼりますと、河床に、国の天然記念物に指定される噴泉塔が見られます。お湯は無色透明で、上林温泉と同じ含食塩石

渋温泉 北斉句碑めぐり 下高井郡

渋温泉は、湯田中温泉とともに、草津街道の湯の街として賑わった所で、温泉は今から一二四○年以上前の昔、神亀年間に(七二八)行基菩薩によって発見されました。

発哺温泉 下高井郡

温泉は、標高一六○○メートルの所にひらけており、今から一五○年以上前に発見されました。その頃は沓山とか館根温泉とよばれたようですが、後に、お湯の噴き出す音

上林温泉 下高井郡

志賀山に抱かれた海抜八五○メートルに開ける温泉場です。宿からの展望が良く、北アルプスの遠望を始め、妙高、戸隠などの北信五岳を間近に、眼の下には、渋、安代

熊の湯 佐久間象山 下高井郡

熊の湯は夜間瀬川の上流に当たる角間川の源流近くにあり、笠岳を背にして、横手山や志賀山に囲まれる静かな温泉です。今から一六五年以上前、信州松代藩の佐久間象山

角間温泉 横山大観 下高井郡

温泉は夜間瀬川の上流の角間川に沿い、北信五岳や、北アルプスの遠望が素晴らしい所です。第二次世界大戦中に、今は亡き女流作家の林芙美子氏が、この角間温泉

志賀自然教育園 志賀高原の成り立ち 下高井郡

信州大学教育学部の付属教育園です。志賀高原には七○にあまる湖沼があり、長池もその一つですが、その周辺には志賀高原の特長がもっとも良く見られるのです。

琵琶池の由来 下高井郡

何時の頃でございましょうか、都から流れてきた盲目の琵琶法師が、ある日、琵琶池のほとりで、得意の曲をかき鳴らしておりますと、何時からきていたのか、そばで熱心に

潤満滝 佐久間象山 下高井郡

角間川の流れにかかる滝で、幅二○メートル、高さ一○一メートルあります。今から一六五年以上前、志賀高原の調査を行った佐久間象山先生は「春はつつじ、秋は紅葉の

志賀山文庫 三島由紀夫ほか 下高井郡

昭和六○年に開設され(一九八五)木造二階建の洋風の建物を、東京から移築して資料館としました。中には、志賀高原にゆかりの人々の、原稿や手紙が陳列されており

世界平和聖観世音菩薩 下高井郡

お姿の高さは二五メートル、重さ二十二トンと大変大きく慈愛に満たお姿です。この観音様は、戦前からありましたが、供出され後に、昭和三三年に再建の話がもち上り、

湯田中温泉 一三五○年の歴史 下高井郡

温泉の起源は古く、天智天皇のころ(六六一~六七一)と伝えられ、およそ一三五○年の歴史があります。温泉は、大湯を中心に、滝の湯、綿の湯、平和の湯、白樺

久米路橋の人柱伝説 信州新町

久米路橋は、水内橋、撞木橋(しゅもくばし)、曲橋などともいわれ、古くから詩歌に名高く、また人柱の哀話も伝えられております。この橋は、初め、推古天皇の御代、

十三塚のお話・相森神社 須坂市

須坂市の北はずれ、浄念寺の傍に、十三塚と呼ばれます石塚があります。の十三塚には、次のような悲しい物語が秘められております。昔、須坂新町在の飴屋の次男

諏訪大社の伝説 諏訪郡

昔むかしのこと、諏訪湖のほとりの守屋山に御夫婦の神様が住んでいらっしゃいました。男神様はタテミナカタのミコトといい、女神様をヤサカトメのミコト

黄金千両、朱千両伝説 信玄 諏訪郡

承知川にまつわる伝説ですが、信玄は諏訪神社の本殿の新築を承知致しましたと答えましたが、まだお社が新しかったので、一寸おしい気持になり、何時でも新築

諏訪神社 注連掛 諏訪郡

諏訪神社御柱祭の際、この奥の山から切り出したお柱を、この辺りまで山出しをし、後は里びきとなりますので、ここで一度御柱を安置し、お注連をかけます

下諏訪温泉 諏訪郡

諏訪大社の下社と春宮、秋宮のあること、そして下諏訪温泉があり、江戸時代には甲州街道と中山道が合流する、宿場町として繁栄しました。この両街道の

承知川の伝説 諏訪郡

昔、武田信玄が戦におもむくとき、諏訪神社に戦勝祈願をし、「勝って帰ったあかつきには、その御礼として、神殿を新築いたします」と誓ったのでした。その願いが

水月園 桜の名所 諏訪郡

桜の名所水月園です。水月園は、全山桜と松林におおわれ、諏訪湖を中心にした、諏訪盆地の全景が眺められ、遠くに富士山、八ヶ岳の連峰等を望む事が出来

諏訪大社の祭り 諏訪郡

諏訪大社のお祭りは四つに分かれて行なわれます。まず例祭では四月十五日の「御柱祭」。これは上社本宮から前宮へ、みこしの渡御が行なわれ、二月一日に

八島湿原 霧ヶ峰 諏訪郡

霧ヶ峰は高層湿原地帯としても知られる所です。池のくるみ近くの踊場湿原や車山湿原そしてこの八島湿原などがあり、「霧ヶ峰湿原植物群落地」として天然記

下社春宮 諏訪郡

諏訪大社には四ツのお社があり、諏訪市に本宮と前宮、下諏訪町には、春宮と秋宮があります。大昔はそれぞれに別の神社であったと伝えられますが、小さな集落

御射山遺跡 最古の競技場 諏訪郡

わが国最古の競技場の跡といわれ、武神として崇敬された、諏訪大社下社の神事の一つです。平安朝から、江戸時代まで続けられたこの神事は、馬技を中心と

諏訪大社 諏訪郡

北海道から九州の鹿児島県まで日本全国に、五千余りの分社をもつ諏訪神社の総本社です。諏訪湖をはさんで、南東岸に上社、北西岸に下社がありこの二つの

諏訪大社・御柱祭 諏訪郡

諏訪大社の御祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)と、お妃の八坂刀売(やさかとめのみこと)の御二柱がお祭りされております。創建は、遠く神代と

水戸浪士の浪人塚 諏訪郡

今から一五〇年以上前のこと、元治元年(一八六四)十一月のこと、武田耕雲斉の率いる水戸の天狗党一千人余りが、和田峠付近で諏訪、松本両藩の連合軍

 

  

 

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諏訪大社

 

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御柱祭り

 

樋橋茶屋本陣跡  諏訪郡

茶屋本陣とは、大名が宿泊をせずに休憩するだけの立場茶屋のことで、中山道の昔は、下諏訪から和田峠をへて、この先の和田宿の間が二十一キロメートルもあり、

和田峠 和宮 諏訪郡

古い書物に、和田峠のことが一番最初に登場しますのは、慶長五年(一六○○)九月、豊臣軍と徳川家康が戦いました関ヶ原の天下分け目の合戦の時、徳川秀忠の

西餅屋茶屋跡 諏訪郡

一寸変った地名ですが、街道の昔は立場茶屋があり、お餅やおだんごが売られておりましたので、そのまま地名になったようです。徳川時代には下諏訪からこの先

萩倉薬師 諏訪郡

萩倉薬師は、昔行基菩薩が萩の木で彫ったというお堂で、一名医王渡堂ともいわれます。萩倉からは霧ヶ峰高原の、ツンドラ地帯といわれる、天然記念物七島

方形造りの家 諏訪郡

原村は、街道にそった静かな村にすぎませんが、左右の家の造りは方形造りです。これが、原村が諏訪大社の神域に当っていた所で、諏訪大社の狩の祭りにあた

堀辰雄の名作「風たちぬ」 諏訪郡

富士見高原は八ケ岳周辺の保養・別荘地としては、もっとも早くからひらけたところです。とくに富士見高原療養所は昭和の初期から当時不治の病とされた、結核の

日蓮上人の説教石 諏訪郡

敬冠院境内には日蓮上人の説教石があります。一名高座石とも呼ばれる大きな石ですが、この石は日蓮上人が土地の人々を集めて、日蓮宗を説かれたときに使った

瀬沢古戦場 諏訪郡

甲斐の武田信玄と、信濃の村上義清とが戦った瀬沢の古戦場です。武田信玄の兵力に追われた村上勢が敗れ激戦の血潮に染められたので、この地を

井戸尻遺跡と井戸尻考古館 諏訪郡

八ヶ岳南麓一帯は、古くより人が住んだといわれ、縄文、弥生時代の遺跡が沢山発掘されています。曽利、大花、猿古窪などの遺跡群があり、その遺跡群

諏訪湖の御神渡り 諏訪市

諏訪湖は、十二月下旬から一月上旬にかけて結氷いたしますが、氷が張りましてから、不思議な現象として「御神渡り」があります。「御神渡り」とは

諏訪湖の伝説八重垣姫 諏訪市

歌舞伎や文楽などで有名な、近松門左エ門の作による「本朝二十四孝」の内、「狐火の段」は、諏訪湖を背景として演じられています。戦国の頃

諏訪市

古くから諏訪地方の中心で、諏訪大社上社本宮があることでも分かりますが、この諏訪大社の、上社の代々の宮司が諏訪氏を名乗り、南北朝時代

曽根遺跡 湖底遺跡 諏訪市

縄文時代の前期の湖底遺跡として、考古学者の研究材料となっております。この湖底遺跡は、琵琶湖の湖底遺跡とともにに、全国にも珍らしい遺跡で、

地蔵寺 日本百名園 諏訪市

山号は愛宕山。本尊は延命地蔵大菩薩、脇本尊に千手観世音菩薩を祀っています。元禄二年、高島城主諏訪忠春が、高島城の鬼門よけのために

昭和寺 ラオス館 諏訪市

日本のお寺と感じが違いますが、この建物は、昭和四十五年の大阪万博に使われたラオス館で、昭和四十六年にここに移されました。中にはラオス

強清水 湿原植物群落 諏訪市

霧ケ峰高原の中心で、昭和の初期、詩人長尾宏也がヒユッテ「霧ケ峰」を建ててから、高原避暑地として知られるようになりました。この付近の斜面

霧鐘塔 霧の恐ろしさ 諏訪市

思い出の丘の上の霧鐘塔は、霧が立ちこめて視界が悪るい時に鐘を鳴らし、登山者の安全を守ります。霧ヶ峰はその名の通り、霧の多い高原で

上諏訪温泉 諏訪市

上諏訪は、昔は甲州街道の宿駅で、諏訪三万石の城下町として栄えておりました。上諏訪温泉は、有数の温泉郷に数えられています。温泉は、湖畔の至

島木赤彦生家 諏訪市

島木赤彦は、アララギ派の歌人で、童謡詩人でもありました。明治から大正にかけて活躍した人で、本名を久保田俊彦といい、幼い頃から文学に親しみ、

七ツ釜 氷が張らない 諏訪市

七ツ釜とは、湖水の中心部数ヶ所から八十度以上の熱い湯が噴出しているところで、その湯量は、一日に数万石もあるといわれます。そのため、冬でも

八ヶ岳伝説 

大昔、まだ人間というゴミの様な微生物が地球上に姿をあらわさない以前、海と平原だけのだだっ広い地球に、デイダラポッチという巨人が住んでおりました

夫神山 小県郡

海抜一二五〇メートル程で、別所村の南にある女神岳、別に天狗山と共に有名です。この夫神岳は、でいら坊の背負って来たもので、女神岳は

田沢温泉 子持ち湯 小県郡

海抜約七百キロメートル、三方を山々に囲まれ、東北の一方が展けて、上田から佐久平、遠く浅間の雄姿が望めます。一名子持ち湯ともいわれます。昔、

相染川の縁結び 小県郡

夫神岳と女神岳から出る山水を、尾合川、又は相染川と呼ばれます。この二つの山の神霊を併せて、この川のほとりに祠を建て、縁結びの神としてお祀り

大法寺 大法寺八景 小県郡

文武帝の大宝年間、勅令によって、定慧上人の開基された七堂伽藍、三十六坊の旧い址があります。本尊の十一面観音は高さ五尺八寸もあり、その脇体の

美しの塔 小県郡

王ケ頭と東の物見石山の、中ほどにある鉄平石で出来た避難塔を「美しの塔」と呼んでいます。その塔の側面に、詩人尾崎喜八の「登りついて不意にひらけた

木賃宿由来 小県郡

昔の宿場は本陣を中心に、大名や公卿のおつきの者が泊る脇本陣、馬や人の世話をする問屋、一般の旅人を一泊める旅篭等から形成しておりました。木賃宿は

長久保 賑わった宿場 小県郡

長久保は、中仙道の宿場の一つで、中仙道と諏訪街道の分岐点に位し、中仙道をねり歩いた大名行列や甲州方面から大門峠を通り、善光寺へお詣りに行く人々で

和田宿 和宮様御一行 小県郡

和田は、和田峠をはさんだ下諏訪宿の反対の宿場として栄えたところで、最盛期には、一五○〜一六○の旅篭屋が並んでおりました。文久元年の三月三日、宿場

善光寺平 千曲市他

善光寺平は、東西一二キロメートル、南四○キロメートルの平で、平野の少ない長野県の米どころとして知られます。山国信州と云われる長野県は平野が少ないため、

 

 

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井戸尻考古館

 

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諏訪湖

 

 

荒砥城 千曲市

上山田町城山史跡公園に室町期の城「荒砥城」が復元されました。ここは豪族山田氏の山城があったところですが、たびたび上杉・武田両軍の戦いの場となって、

戸倉上山田温泉 恋しの湯の伝説 千曲市

お湯は元禄のころから、千曲川に湧いており、恋しの湯の伝説にも見られる名湯です。今のような街になるはじまりは、明治二六年(一八九三)ごろからで、土地の人・

千曲天狗 天狗伝説 千曲市

戸倉町の東山を俗に天狗山とよび、樹令四○○年の天狗松や天狗の洞があって、天狗の伝説が伝わっています。その場所に「戸倉宿キティパーク」がつくられ、小動物公園の

姥捨の伝説 千曲市

標高一二五二メートルの冠着山(かむりきやま)(またの名を「姨捨山(おばすてやま)」という)の頂上からやや下がったあたりが嬢捨の地と伝えられます。嬢捨の

冠着山と神話伝説 千曲市

冠着山には戸隠神社にまつわる神話伝説があります。遠く神代の昔のこと、天照大神には、須佐之男命という弟神がいらっしゃいました。弟神は大変な乱暴者で

屋代城跡 千曲市

今でも、空濠と郭の一部が残っています。屋代城は東信に勢力を持つ村上氏の出城でした。村上氏は甲斐(山梨県)の武田信玄に亡ぽされ、越後(新潟県)の上杉氏のもと

森将軍塚古墳 千曲市

森将軍塚古墳は、長さ一○○メートルの前方後円墳で、大和朝廷に関係する強力な人物の墓であったと思われます。中央に堅穴式の石室があり、室内には、埋葬者や埋葬

武水別神社 千曲市

その創建は古く、第八代・考元天皇の御代と伝えられ、養和年間には(一一八一~八二)木曽義仲が戦勝祈願を行い、近世には、歴代の松代城主の崇仰を集めたお社で

長楽寺 姨捨の地 千曲市

境内には高さ一○メートルに及ぶ、安山岩のの姨石(おばいし)があって、一説には、この地が姨捨(おばすて)の地であると云われます。境内は月見の名所として知られ

田毎の月 小林一茶 千曲市

稲を刈った水田に、満々と水が張り、鏡台山から上る月が中空にかふる頃、一枚、一枚の田毎に月が映ります。その見事のさまを俳人・蕪村は、「帰る雁 田毎の月の

車山の伝説 お金持 茅野市

昔、車山の麓に住むおじいさんがおりました。毎日毎日車山に登って柴を刈ったのですが、ある日のこと、柴刈をしているおじいさんの前に赤い長い鼻の天狗がヒョッコ

御座岩 信玄 茅野市

信濃攻略に往来した信玄が、ある日のこと、峠の下の岩に腰をおろし、戦の会議を開いておりますと、近くを流れる川の音がうるさく、腹を立てた信玄が「うるさいと一括し

池の平・古戦場 茅野市

天文十一年七月二十三日、甲州の武田信玄と村上義清、小笠原の信州連合軍一万三千が鉾を合わせた古戦場です。信玄は御座岩に腰をかけ、例の軍扇を振って指揮

白樺湖 茅野市

この湖は人造湖で、昭和二十一年に茅野市北部の、北山地区の潅概用水の水源として作られました。周囲六キロで、北岸は北佐久郡立科町、南岸は茅野市に属し、

文化塔 茅野市

大きなキノコ型をした異様なコンクリートの白い塔が文化塔です。この塔は昭和十五年に、紀元二六○○年を記念して、当時の新聞、雑誌を百年間保存するようにコン

上原城跡(安国寺の戦い) 茅野市

上原城跡は市の西端、諏訪市との境に沿ってのびる永明寺山尾根を利用した山城の跡で、この付近一帯を治めた諏訪氏の本拠となっていたところです。城は西に諏訪湖

頼岳寺 茅野市

頼岳寺は永享年間(一四二九〜四一)の領主諏訪安芸守頼満が創建し、慈山永訓の開山と伝えられ、寺名も宝勝山永明寺とよばれていましたが、永緑年間(一五五八

尖石遺跡・縄文考古館 茅野市

八ケ岳の西麓には、全国でも珍らしい程、縄文遺跡が密集しております。尖石遺跡もその一つです。標高一千メートルの丘陵の斜面に三角錐形をした大きな石があり

蓼科温泉郷 信玄のかくし湯 茅野市

蓼科湖湖畔に滝の湯、この先に滝の湯川、さらに親湯などの温泉が点在していますが、いずれも一湯に一件程度の、ひなびた旅館がある程度で、いわゆる歓楽施設は

蓼科観音 薬師寺の分院 茅野市

正しくは蓼科山聖光寺といわれ、奈良の薬師寺の分院にあたります。自動車メーカーのトヨタが、全国の交通犠牲者の霊をしずめる為と、交通事故の絶滅を祈って、

御座石神社・どぶろく祭り 茅野市

建御名方命(たてみなかたのみこと)のお母様コシヌナカワヒメをお祀りしております。昔々この母上は、毎日どぶろくを造って山狩りから帰る命(みこと)に山ウドをさか

諏訪大社前宮 茅野市

茅野市宮川にある前宮は、諏訪湖や諏訪盆地を見晴らす景勝地にあります。境内には「現身神」の歴代大祝の居館跡や、中世まで祭政をとった建物の「十間廊」が

西行法師・二ツ山 茅野市

西行法師はこの山の形におどろき「幾千代と 変らぬさまの 二ツ山 いつの世にかは 生まれ出けむ」とうたってから、ここを通る人の縁談はこわれたということです。

雷電為右ヱ門の生家 東御市

寛政時代の大力士、雷電為右衛門の出生地です。雷電は、今から約二三〇年以上前の明和四年に、この大石の農家の息子として生れました。小さい時から大変身体

百体観音石造町石 東御市

地蔵峠の一番観音と呼ばれ、ここが峠の入口になっています。柔和なお顔を、少しかたむけています。毎日訪れる旅人一人一人に、やさしく会釈されているお姿です。

奈良原温泉 東御市

天延年間(一○二○年以上前)に発見され、当時は奈艮原牧場の傷病馬の療養に利用されていましたが、約二九〇年以上前の享保二年、近くに薬師如来が建立され

海野宿跡 時の無い街 東御市

北国街道の昔は、本陣や問屋も置かれ、伝馬屋敷は六三戸を数えて栄えました。江戸時代の末には、飯盛女の数も多く、華やいだ雰囲気がただよい、ただ今でも往時を

焼岳 アルプスの香炉 東御市

標高二四五五メートル、日本アルプスの山としては、余り高い方ではありませんが、アルプス中、唯一の活火山として知られています。この火山は、学名ではトロイデ型

飯縄忍法発祥の地・飯縄山 長野市

飯縄山は、遠く、奈良時代から山岳信仰の霊場で、飯縄修験道と飯縄忍法発祥の地として知られました。山頂からの展望も良く、山頂近くには飯縄大権現を祀る飯縄

飯縄山の名の由来 長野市

その昔、飯縄山の山頂付近に食べられる砂が出るところがあったので、飯砂山と名付けられたという説と、平安時代の初期に、この地が飯縄忍法発祥の地であること

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焼岳 火口湖

 

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白樺湖

 

 

駒形岳駒弓神社  長野市

今から一三五○年以上前、第三五代皇極天皇の勅名により、伊那の座光寺から、芋井の郷といわれた長野市に移され、善光寺とほぼ同じ時代に建てられたものです。駒弓

替佐城跡公園 長野市

替佐は江戸時代以降、善光寺道の宿場町として栄えたところで、その名残りの地名、上宿・下宿・一里塚などが現在ものこり、町のなかには永禄年間(一五五八〜六九)に

往生寺と夕焼け小焼けの碑 長野市

刈萱道心と石童丸親子の悲しい物語りで知られる旧蹟で、刈萱道心の墓や刈萱杉とよばれる杉が残っております。往生寺の境内には「夕焼け小焼けの碑」があります。

佐藤博物館 甲青武具専門 長野市

佐藤博物館は、全国的にもめずらしい甲青武具専門の博物館です。主に上杉家と木田家ゆかりのものが展示されています。

大座法師池 長野市

安永三年(一七七五年)に、自然の湧水池に土手を築いて作られたもので、飯綱高原の中で四番目に大きな池で、風光も高原随一です。標高一○四五メートル、池のほとり

刈萱道心と石童丸 長野市

今から八○○年以上前の昔、筑前の守護(福岡県)の地位にあった加藤左ヱ門繁氏は、世の無情を感じ、二一歳の折に、地位も名誉も妻子も捨てて出家し、京の都に

川中島古戦場 長野市

八幡神社境内に、武田信玄と上杉謙信の、「三太刀七太刀の跡」の碑があり、その脇には、両雄の像があります。床机に座って鉄扇をかまえる武田信玄に向い、馬上

長谷寺 雨乞まつり 長野市

長谷寺は、俗に長谷観音とよばれ、信濃三十三ヶ所霊場の一八番札所で、今から一一六○年以上前の承和五年に(八三八)十一面観世音菩薩がまつられたと伝えられ

康楽寺 長野市

今から七八○年以上前に(建暦二年・一二一二)親鸞上人の弟子・西仏によって開かれた、浄土真宗の寺院です。西仏は、木曽義仲に仕えた武士でしたが、のち、比叡山

仁王尊 弘法大師作 長野市

長勝寺の仁王様です。昔から霊験あらたかというので、遠近の参詣客で賑います。この仁王尊は弘法大師の作と伝えられます。仁王門は永享年間、今から五七○年

牧野島城跡 長野市

犀川がゆるく曲って、びわの胴の形をしている中に位置しているところから、琵琶城ともよばれましたが、今はただ堀と堤が残っているぱかりで、有名な玄番稲荷がまつられ

水内の滝 長野市

弥太郎が滝、水内が滝とよばれましたが、水内ダムのため、水位が上ってかくれてしまいました。それは、犀川の水が、全部矢のように落ちてさかまくところで、この滝を

クジラの化石 長野市

叉田羅から、クジラの推骨が発見され、天然記念物になっていました。これは地上約五、六○メートルの崖の中腹に、砂の層にはさまって行儀よく並んでいるのを、

中山晋平生誕地 長野市

中野市は、中山晋平のふるさとです。大正から昭和にかけて、多くの名曲を生み出し、作曲家として活躍した中山晋平は、明治二○年に中野市日野で生れました。幼なく

戸隠神社の由来 長野市

神代の昔、天照大神が、弟のスサノオノミコトの乱行をお怒りになり、天の岩戸におかくれになりましたところ、どこもかしこも真暗になって、悪い神食が出てきて、

高野辰之の生家 唱歌「故郷」 長野市

豊田村永江は唱歌「故郷」で”うさぎ追いしかの山小鮒つりしかの川”とうたった、国文学者高野辰之の生まれ育ったところです。辰之は、この他に作曲家岡野貞一

大峰城 世界各地の蝶 長野市

大峰山の標高は八二八メートルあり、善光寺平とよぱれる長野盆地の展望台と云われる山です。山頂には大峰城があり、今から四六五年以上前の天文年間(一五五○

物見岩(善光寺展望道路) 長野市

川中島合戦の時、越後の上杉謙信が岩の上に立って、川中島の武田勢の様子を探ったと云われます。岩の上の広さは、畳一畳敷ありますが、善光寺平を眺めるに

花岡平(善光寺展望道路) 長野市

一光三尊の仏様が、一番最初に安置された旧蹟地、花岡平です。昔は、高野山、比叡山とともに全国の善男善女の方々から、善光寺に因む、お骨を納める場所として

雲上殿(善光寺展望道路) 長野市

この辺りは善光寺の真うしろに当り、古くから善光寺の納骨の場として知られました。この由緒ある地に、昭和二四年(一九四九)雲上殿が完成し、中央の多宝塔には

荒神堂 行基菩薩作 長野市

子安山荒神堂の荒神座像は、重要文化財で安産子育ての神として昔から有名です。本尊の三宝荒神は、行基菩薩の作と伝えられ、川中島合戦で名高い、坂城の葛尾城

松代城跡(海津城) 八○日間で築 長野市

今から四五○年以上前の永禄三年(一五六○〉武田信玄の知恵袋といわれた山本勘助が築城しました。築城の翌年、永禄四年九月の川中島合戦には、武田軍の本陣

延徳田圃 長野市

昔は一面の沼地でした。その上、たびたび千曲川の水害をこうむりましたので、今から五○○年以上前に、領主の高梨氏が、千曲川の放水路としての篠井川を開き

善光寺地震について 長野市

今から一六〇年以上前の弘化四年三月二四日夜、善光寺平の北部を震源地とする大地震が起り、十時頃から夜明までにかけて二百回も震動し、岩倉山が、真二つに割

善光寺 長野市

善光寺は、どの宗派にも属していませんが、今は、天台宗の大勧進と浄土宗の大本願を中心として運営されております。善光寺の創建は白鳳時代の第三五代皇極天皇

如是姫と善光寺 長野市

昔、インドに月蓋(げつがい)と云う長者がおりました。大変に慾が深く、因強な人で、仏の教えを信ずることも出来ず、御仏の供養などしたこともありませんでした。ところ

横田河原古戦場 木曽義仲 長野市

今から八三○年以上前の昔(養和元年。一一八一)越後の国の烏井坂城主・城長茂は、平家の大将として四万の兵をこの河原に進めました。しかし、源氏の木曽義仲

葛尾城落城哀話 埴科郡

今から四五○年の昔、天文二二年(一五五三)のことでした。松本城の小笠原長時を破った武田信玄は、その勢に上じて、坂城の葛尾城にせまりました。城主・

鼠 鼠宿 埴科郡

ネズミ(鼠)とは、ちょっと変った地名ですが、かって、北国街道の賑わった頃は、鼠宿があり、栄えた所です。ネズミの地名については、いろいろな説がありますが、

佐久間象山 勝海舟、坂本竜馬など 埴科郡

維新の先覚者として知られる佐久間象山は、松代藩に仕え、松代藩の兵制を洋式に改め、また、種痘を試みたり、電話通信の実験も行いまました。幕末に活躍した、勝海舟

 

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松代城 

 


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戸隠神社 奥社へ

 

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善光寺 山門前

 

地下大本営跡 埴科郡

昭和一六年に始まった第二次世界大戦で、日本の本土がアメリカ空軍の空襲を受けるようになり、時の日本政府が、この松代町の地下に大本営(日本軍隊の総元締)

生坂タバコ 東筑摩郡

慶長年間(一五九六~一六一四)生坂村称名寺、唐の禅僧が、長崎から南蛮渡来の種を持ち帰り、雪隠のそばに植えたのが始まりで、「雪隠タバコ」などとよばれており

乳房観音 行基菩薩作 東筑摩郡

天然記念物の乳房観音大イチョウです。樹齢五、六百年、目通りの太さ六・八五メートル、高さ三五・三メートルという大木で、小立野乳房観音境内にあります。この乳房

大城 東筑摩郡

大城は北安曇地方を領した、仁科氏の四八城のうち、要害第一といわれたました。天正十年九月(一五八三年)、松本の小笠原貞慶によって攻撃され、城主仁科

金戸山の伝説 東筑摩郡

建仁三年、今から約八○○年以上前、源頼朝の弟、蒲冠者(かばのかんじゃ)範頼が修善寺の変の時、逃れて来、ここに金戸城を築きましたが、やがて、鎌倉幕府の知

山清路の伝説 東筑摩郡

このあたりは、珍らしい大岩が沢山あったのですが、ダムのために全部水の下に入ってしまいました。山清路には次のような伝説があります。昔、この宇宙の主の女神

麻績村 東筑摩郡

篠ノ井線の聖高原駅近くに麻績(おみ)村役場があり、その附近が、かつての麻績宿の置かれた所です。麻績は東筑摩郡の最も北にある集落で、東山道時代には

修那羅峠の石仏群 東筑摩郡

立峠から東に(右)五、六キロメートルの所に国道一四三号線の青木峠があります。その途中の修那羅川上流には、有名な修那羅峠の石仏群があります。石仏群は、

錦織の駅跡 東筑摩郡

筑摩山地の一部にひらける四賀村は、江戸時代に北国西脇往還の宿場でした。その頃は会田宿とよばれ、難儀な峠を往来する旅人にとって大切な宿場だったのです

岩殿寺 へそくりの語源 東筑摩郡

天台宗の古刹で、寺宝の大日如来像は重要文化財に指定されております。また、古代には麻の栽培のお護札をわける寺として知られた所でした。この地方は、

上高地の地名由来 松本市

上高地の地名については、遠く神代の昔、明神池のほとりに穂高見命(ほだかみのみこと)が宮居を定められ、神の郷の意味から、神郷地(かみがうち)と名づけ

扉温泉 松本市

標高一一○○メートルの静かな温泉で、泉質は硫化水素泉で、リュウマチ、神経痛などに良く効く温泉です。高原の白樺と落葉松に囲まれた中に旅館があり、美ヶ原や

松本市

歴史古く、善光寺門前として栄えた長野市とは、性格をことにしているため、とかく、反目や競争が両者の間で起こり、とくに、明治維新後、長野県の県庁誘致で、

美ヶ原と山本俊一氏 松本市

今日では新緑に紅葉にそして三百六十度の展望の素晴らしさなど、広く人々に知られる美ヶ原ですが、この高原の美しさに魅せられ、高原開発に半生を捧げたのが

美ケ原高原 松本市

広さ二○平方キロ、海抜二、○○○メートル、数百種の高山植物が、美しく咲き乱れる、名の通りの美しい高原です。この高原の中央には、ここを訪れる旅人の夢を

浅間温泉 松本市

今から一千年以上前の昔、犬飼半左ヱ門という土地の豪族が発見したと伝えられ、当時は『犬飼の湯』といわれておりました。その後、松本城主の石川氏が、

犬飼の湯 松本市

元禄の頃は、関西方面からの、善行寺詣いの往ききには、必ずこの湯に浴する習いとなっていたそうで、大変賑った所です。この温泉は、胃腸カタルやリュウマチ

穂高連峰 松本市

日本アルプス中の最高峰で、アルプスの王者といわれています。中央に白く走っているのが、岳沢の雪渓で、その奥、一段と高く偉容を示しているのが三一九○メー

産屋の沢 松本市

天正年間、豊臣勢に破れた飛騨高山の城主姉小路中納言秀綱は、最早施す術もなく、城を捨て、奥方との再会を約して落ちのびたのでした。別れた奥方の一行

大樋鉱山跡 武田信玄 松本市

戦国時代、武田信玄によって開発された大樋銀山の跡です。産出したのは主に鉛でしたが、鉛に混じってわずかに銀が出ました。鉛は、当時の新兵器鉄砲に欠かせ

白骨温泉 大菩薩峠 松本市

標高一四○○メートルの高所にある白骨温泉は、古くから名湯として知られ、鬱蒼と茂る樹々の間にたちのぼる湯煙りが仙境の感を一層深めております。温泉は、

大正池 松本市

大正四年六月六日、焼岳の大爆発で、流れ出た熔岩、泥流が梓川の清流をせき止め、一夜のうちに、こつ然と出現した天然ダムです。大正の時代に出来た池な

中の湯温泉 松本市

今から二○○年以上前の江戸のころに、木樵によって発見されたと伝えられます。泉質はアルカリ性硫化水素泉と鉄鉱泉の二通りで、湯温は七十三度あり、神経

噴湯丘・球状石灰石 松本市

噴湯丘は、炭酸石灰を含む温泉の噴出口周辺に沈澱物が堆積してできたものをいいます。球状石灰石も炭酸石灰の沈澱物の一種ですが、この球状石灰石は大

卜伝の湯 松本市

卜伝の湯は洞くつのお湯で、講談でおなじみの塚原卜伝が、飛騨山中で修業中、好んで入浴したという伝説があります。

泡ノ湯 松本市

白骨温泉泡ノ湯です。湯川渓谷の奥にある泡ノ湯は深い谷あいにあって、見えるのは緑の樹々ばかり、というひなびた山の一軒宿的な存在です。お湯は三九度と

中里介山の文学碑 松本市

小説「大菩薩峠」の「白骨の巻」のなかで、白骨温泉を「五彩絢爛たる絶景」と描写されたのが中里介山です。その名を広く世に紹介した業績をたたえ、昭和二十九年

薬師堂 松本市

古くからお薬師様と湯治場は深いつながりがありました。ここ白骨温泉でも薬師信仰は古く、現在の薬師堂は江戸時代、元禄十五年に建立されました。この

坂巻温泉 松本市

湯治宿が一軒しかありません。素朴な味を残す温泉です。お湯は七五度の硫黄泉で、神経痛、婦人病、リューマチによく効く温泉といわれます。

梓水神社 松本市

乗鞍岳は平安時代の昔から、信仰の山として知られていたところです。梓水神社はその遥拝所であったところで、建物もたいへん貴重なものであるとされています。

 

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穂高連峰

 


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大正池

 

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美ケ原高原

 

 

 

竜神の滝  松本市

白骨温泉のバス停から八○メートルほどくだつたところにあるのが竜神の滝です。鍾乳洞の上を細い糸のように水が流れ、無数の滝になっています。季節の変わり

白骨三十三番石仏群 松本市

山の斜面に白骨三十三番石仏群が一列に並んでいます。古くは旧道脇にありましたが、道路整備の際、現在の位置に移されました。一段高いところには地蔵尊が

隊通しと冠水渓 松本市

湯川の渓流の急な流れが、石灰岩を浸蝕してできた自然のトソネルを隊通とよびます。白骨温泉のバス停の地下が長さ二○メートル、高さ六メートル、巾十一メー

善五郎の滝のいわれ 松本市

標高一七五○メートルのところにある善五郎の滝は落差ニ五メートル、巾一○メートルの端正な滝としてしられています。滝見台から眺めるとバックには乗鞍岳の

雑炊橋の恋 松本市

梓川に架かる雑炊橋の話です。それは今から三百年以上前の昔のことです。万年雪が溶けて流れる梓川には、一つとして橋がなかったのでした。島々と目と鼻の

三本滝 松本市

かもしか平の北にある三本滝は小大野川本沢(中央)と支流の黒い沢(北)、無名沢(南)にかかる三つの滝の総称です。岩肌を伝うように流れる滝や、足元を響か

乗鞍高原温泉 松本市

乗鞍高原温泉は、湯川源泉から引湯をして、昭和五十二年に完成いたしました。この温泉は、高原に点在する一五○軒余りのホテル・旅館・民宿・ペンションなどに

乗鞍高原の山の幸 松本市

乗鞍高原は山あり、川あり、滝あり、また広い牧場ありと自然あふれる高原地帯です。こうした自然の恵のなか、四季を通じていつも山の幸は豊かです。春にはワ

乗鞍岳の高山湖 松本市

乗鞍岳山頂に点在する湖は、いずれも火山に起因したもので権現池、亀ヶ池、不消ノ池などは火口に発達した火口湖です。 ①権現池は乗鞍最後の爆発である剣

長野県乗鞍自然保護センター 松本市

乗鞍を訪れた人たちに、より深く乗鞍の自然と人々の生活を理解してもらうために造られた施設です。展示室には乗鞍岳から乗鞍高原に生息する動・植物の様子

千間渕 松本市

この辺りは、江戸時代には松本藩の重要な木材の生産地(御用杣村)だったところです。当時の集落は旧大野川地区が中心で、番所などへ季節的な出作り小屋が

番所大滝 松本市

小大野川の三大滝(番所大滝、善五郎の滝、三本滝)のひとつ、番所大滝は乗鞍高原の入口にあたる番所にあります。県道からは遊歩道が整備されており、展望

中入城跡 隠れ穴 松本市

山城としては特殊な防備を傭えたもので、松本城主小笠原長時が、戦国時代の初期に築城したと伝えられます。本城秋葉神社のある辺りには、今も大きた石垣が

千手 納涼踊 松本市

ここには、二百七十年以上前よりの千手観音があり、観音堂建立当時からの銀杏があり、天然記念物に指定されています。この木は目の高さの周囲が十一・五

牛伏寺 三蔵法師 松本市

真言宗の古刹です。聖徳太子がお造りになりました十一面観音をはじめ、七体の重要文化財があります。三蔵法師にまつわるお寺です。

玄向寺 松本市

この寺には、歴代松本城主が、苔むした墓石の下で静かに眠っております。又、日本アルプスの名峯槍ヶ岳を開いた、幡隆上人が長く滞在した所でもあります。

山辺温泉郷 皇居移設計画? 松本市

「いずる湯の 湧くにかかれる 白糸は 来る人絶えぬ ものにぞありける   源重之」。今を去る一三〇〇年以上前、白鳳年間に関西地方に大地震があり、紀州

伊深城址 松本市

伊深城は、保元の頃(一一五六~五八)、岡田冠者親義の築城によるものです。天文の年、豊後の守定一に二男、大蔵思常が伊深、下岡田、松岡を領して此処に

兎川寺 松本市

千手観音をお祀りしています。兎川寺の名の起りは、この地に寺を建立するとき、白兎が群れ遊んでおり、兎の多く遊ぶ地は平和の地といわれた所から、この名が

鯨の化石 松本市

昭和十一年の秋、穴沢川左岸(標高七百メートル)の崩壊の個所から堀り出されました。県は、その一部を露出したまま下方の周囲に石垣を積み、木造の上屋を

鷹巣根城址 城破れて山河あり 松本市

昔、海野小太郎幸継の五男、苅谷原五郎の築造によるものです。其後、大永三年、江戸城を築いた太田道灌の子、太田弥助資忠が、この地に来て小笠氏に属

召田城址 松本市

この城は、後に小笠原長時の三男貞慶が、三河の国から伊那、塩尻にいたり、松本の深志城の上杉勢を追って、安筑の旧領を手におさめ、父長時のとき武田に

信仰の山乗鞍岳 松本市

乗鞍岳は、木曽義仲の武運を祈って登った大夫坊の時代から、信仰の山としてたいへん崇められてきました。修験者達の修行の場であるばかりでなく、山の麓に

”度”という名称 松本市

梓川渓谷をさかのぼると、奈川渡、前川渡、沢度、湯川渡、寄合渡などの地名が続きます。さらに支流には黒川渡、寄合渡の”渡”という字のつく地名が多くみられ

奈川温泉 松本市

奈川温泉は乗鞍岳の南麓にあり、野麦峠の東にあたっています。松本から木曽に通じる街道のちょうど中間点となります。温泉開湯の歴史は古いといわれます

物草太郎 松本市

今から千百年余り昔のお話しです。草木に深く埋もれた信濃の国に、その名をものぐさ太郎と呼ばれる無精者がおりました。それはそれは大変なものぐさで、生れ

松本城 松本市

松本城は、姫路の白鷺城と共に、我が国の二大名城として知られます。文緑三年、松本藩主石川光長の築城で、天守閣を始め物見やぐら、渡りやぐらなど、我が

日本民俗資料館 松本市

展示物は主に松本の歴史、民俗、自然などの資料で、歴史資料は特に松本藩と松本城に関するものが多く、大変興味深いものです。また、そのほかに、全国的に

護国神社 松本市

昭和十三年、戦争犠牲者をお祀りするため、東京の靖国神社にならい、信濃招魂社として建立され、昭和十四年三月、護国神社と改められました。太平洋戦争の

一の瀬園地 南安曇郡

一の瀬園地は乗鞍高原のなかにあり、池や小川、湿原などが点在する大自然の庭園です。起伏に富んだ広大な草地にはのんびりとした牛たちが草を食む牧場が


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松本城

 

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善五郎の滝

 

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三本滝

 

 

臼田町の地名の由来 南佐久郡

貞和二年(一三四六)春のことでした。城主の井出長門の守正重は、ある夜の夢枕に一人の老人が現われ、「光さす松の根元に大きな石がある。その下に石の臼

川上犬(天然記念物の指定) 南佐久郡

古くより、奥秩父の金峰山や、甲武信ヶ岳などの登山口として、叉、武川の三峰信仰の参詣道としてして、往来のあった集落です。村内には昔ながらの古い家屋も

大深山遺跡 南佐久郡

縄文時代中期の、大深山遺跡です。この遺跡は、昭和二十八年十一月に、林道開さく中に発見され、およそ四千五百八十年余り前の遺跡ということが解りました。

仙ケ滝の伝説 南佐久郡

昔、この近くにお仙という娘が住んでおりました。気のやさしい娘でしたが、機を織ることが苦手で、いつも苦にしていました。その頃は機おりと縫物が嫁入りの条件

小海町の名の起こり 南佐久郡

今から千余年前、八ヶ岳の根石岳が崩れて川をせきとめ、ここに大きな湖が生れ、小海の名が起ったといわれています。

松原湖 南佐久郡

松原湖は、八ヶ岳の東北のふもとに位置しており、猪名湖、長湖からなる天然の湖で、主に猪名湖の事を松原湖とよび、標高一一二三メートルの高い地点から、

のざらしの鐘・松原湖の伝説 南佐久郡

松原湖のほとりにある諏訪神社上社には、武田信玄の寄進と伝えられる鐘があり、重要文化財に指定されております。この鐘は、武田信玄が川中島合戦の折に、

秩父事件暴徒戦死者の墓 南佐久郡

馬流駅の近くに、秩父事件暴徒戦死者の墓があります。叉、そく近くには九名の無名の方々のお墓もあります。秩父事件は、明治十七年十一月におきた出来ごと

白駒の池の伝説 南佐久郡

八千穂高原からバスで三十分のところに白駒の池があります。標高二一一五メートルの高所にあり、シラビソ、トウヒ、ダケカン(などの原生林におおわれ、無気味

板橋宿のお助け小屋跡 南佐久郡

徳川時代の佐久甲州街道は、海の口から平沢峠を越えて、甲州へ抜けており、現在の国道一四一号よりは南に寄っておりました。その頃は海の口と平沢峠の国

海の口城跡 信玄初陣の地 南佐久郡

天文五年十一月(一五三六)武田信虎の長子晴信は、十六歳の少年でしたが、初陣のよろいかぶとに身を飾り、父に従って海の口城を攻撃いたしました。これが

海ノロ馬市跡の碑 南佐久郡

かつては木苗日の馬市と共に、二大市場といわれ馬の産地としては、古い歴史を持っていました。明治二十年、我が国で最初に輸入された馬、浅間号がこの地で

市場ヶ原 南佐久郡

野辺山高原の一番北の端にある原で、大正時代には馬市が立ち賑わいました。ここは木曽の馬市場と共に、二大市場といわれたところで、産馬については古い歴

海尻 南佐久郡

小海、海尻、海の口などと信州の山奥にどうしてこんな地名がつけられたのでしょうか。その昔、日本の国土はアジア大陸の東の方につらなった、大きな山脈であっ

 

 

 

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松原湖

 

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上高地