京都 歴史問題 全118問

 

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●京都に「湯沢山茶くれん寺」という名前のお寺があります。

この名前はある天下人がつけたと言われます。それは誰ですか?

 

豊臣秀吉が大名や町人を集めて、北野神社で盛大なお茶会を開きました。

秀吉は、お茶会に行く途中、大変疲れてのどが渇いてきましたので、このお寺に立ち寄り「お茶を一杯飲ませて下さい」と所望しました。ところがお坊さんは、お茶の名人といわれている秀吉に、まずいお茶を出しては失礼と思い、わざと白湯を出したのです。

秀吉は、変だなと思いましたが、のどが渇いていましたので、それを飲んで「もう一杯」と申しました。するとお坊さんは又白湯を出しました。

それで秀吉は、このお寺はお湯ばか沢山出して、お茶をくれないお寺だと思い、「湯沢山、茶くれん寺」という名前をつけたのだそうです。

 

 

●京都の商家や民家は、間口が狭く奥行きの深い家が多いのですが、それはなぜですか?

 

俗にうなぎの寝床といわれる片側住居で、陽当り悪く、台所は通り庭にあり、井戸も屋内にあります。奥に入りますと中庭やモダンな離れがあります。間口の狭いのは、平安京の都市計画で家を背中合せに建てる様にしたためですが、一説には、間口の広さに応じて税金を取られたからともいわれています。

 

 

●京都の商家や民家の二階は低く表に面する所は格子になっています。なぜ、このように なっているのでしょうか?

 

昔、高貴な方の往来を見下す失礼のない様に配慮されたものといわれます。

 

 

●西本願寺境内に逆根の銀杏があります。その由来は何ですか?

 

境内にある大きを銀杏の木は、逆根の銀杏といわれます。秀吉公が植えられます時に、枝と根を間違えて逆さに植え、根から葉が出たと伝えられています。 一名、水ふきの銀杏ともいわれ、天明八年の大火の折、この銀杏の木が水をふき、延焼をくいとめたといういい伝えがあります。

 

 

●二条陣屋は忍者屋敷のようになっているのですが、それは何故ですか?

 

ニ条城に登城する大名の仕度場所になっていたところですが、刺客にそなえて抜け穴とか、つり階段、かくし廊下など手のこんだ仕掛があり、まるで忍者屋敷のようになっているようです。

 

 

   金閣寺。檜皮茸の屋根に鳳凰がいます。なぜ鳳凰?

 

足利義満がいつ迄も平和が続く様にとの願いをこめて作られたものだそうです。

 

 

   京都の三名山は?

 

船岡山、吉田山、双々丘《ならびがおか》と共に、京都の三名山といわれております。

 

 

   京都御所、正式の名前は何といいますか?

 

正しくは京都御苑といわれ、この中に皇居であつた京都御所と上皇のための仙洞御所、そして皇太后のための大宮御所があります。 

 

 

   京都御所の前身は誰が住んでいた?

 

 京都御所はもと天皇の御生母の実家で里内裏といわれていましたが、今からおよそ六五○年程前の第百代・後小松天皇の時、ここを天皇の御住居と定め、それ以後は歴代天皇が明治までお住いになっておられました。

 

 

   百万遍知恩寺、その名前の由来は何ですか?

 

元弘元年(一三三一年)後醍後天皇の御代、全国に悪疫が流行しました時、第八世空円が、天皇のお召しにより参内し、宮中で十七日間念仏百万遍を唱え祈願いたしました処、悪疫は忽ち退散し、天皇は大層喜ばれ、百万遍の号を賜わりました。

 

●京都・西陣は染めで有名です。西陣の名前の由来はなんですか?

 

西陣は応仁元年(一四六七年)、応仁の乱の時に、南禅寺の方に布いた細川勝元の東の陣に対して、山名宗全が陣を置いた千本、北野、西の京を西陣といったのにはじまります。

 

 

   大文字、終わったあとの残りの消炭は、お参りの人が押しかけ一夜にしてなくなってしまうそうです。なぜですか?

 

中風に効くという、言い伝えがあるそうです。

 

 

   大文字の「大」の字の大きさはどれくらい?

 

 大きさは大の字の第一画は八十メートル、第二画は一六〇メートル、第三画は一二四メートル。

 

 

   大文字の起りは?

 

昔、ふもとに浄土寺というお寺があり、ある日火災にあった時、御本尊の阿弥陀如来があの山に飛んでいって、大の字に光明を放った事に始まると伝えられています。

 

 

   哲学の道、なぜ哲学という名前?

 

その昔、三条の白線に破れ帽子、マント姿の若き日の西田幾太郎たちが、哲学を論じ、真理の探求に瞑想しながら歩いた所から、考える通、哲学の小道ともよばれました。

 

   哲学の道の疎水べりに続く桜並木を関雪《かんせつ》桜とよんでおります。関雪桜という名前の由来の裏には夫人の涙ぐましくも微笑ましい美談が残されています。どんな美談でしょう。

 

大正二年、遅日《ちじつ》という作品が文展で二等の栄誉を得て以来、世界にも知られ、それ迄の貧困からようやく光明を見出した画家、橋本関雪の夫人・米さんが、不時にそなえた貯えを寄贈し誕生した桜並木からその名が伝わっている。

 

●松虫鈴虫の哀れな話が安楽寺に残っています。どんな話ですか?

 

 安楽寺の近くに法然上人の念仏道場があって、上人の弟子、住蓮と安楽が説法を続けておりました。ある時、後鳥羽上皇に寵愛を受けていた松虫鈴虫の二人が訪れ、念仏にひかれてここで尼となりました。

そのため後鳥羽上皇の怒りをかい、その罪を問われた住蓮と安楽は斬られ、法然も土佐に流されてしまいました。

現在、安楽寺に住蓮と安楽、そして松虫と鈴虫のお墓があります。

 

 

   平安神宮には二人の天皇が祀られています。二人の天皇の名をあげてください?

 

平安神宮は、京都へ都が移されてから、丁度一一〇〇年目に当る、明治二十八年にその記念行事として、昔の大極殿を二分の一に縮めて造られたものです。そして、京に都を定めた第五十代桓武天皇の御魂と、京都最後の天皇、第一二一代孝明天皇の御二方をお祀りしてあります。

 

 

   「弘法も筆の誤り」の諺の根拠は何ですか?

 

 応天門(平安神宮)に応天門と書いた額がかかっておりますが、弘法大師の筆によるものと伝えられております。 

昔、大内裏にかかげられていた額で、応天門とお書きになりました時、弘法大師は、応の字の心の点を一つ書き落され、額を上にあげてからこのことにお気付きになり、もう一度下に降して書き直すのは面倒とばかり、下からエイッと筆を投げました所、うまくそこに命中して見事な字が出来あがったそうです。

これを弘法の投げ筆といいますが、これから弘法も筆の誤りのことわざが出来たと伝えられております。

 

 

 

   平安神宮、屋根の両側に金色に輝いているのは何ですか、またそれにはどんな意味がありますか?

 

鴟尾(しび)といって飾りの一種である。沓(くつ)に似ていることから沓形(くつがた)とも呼ばれます。魔除けになっています。

 

   京都の三大祭とは、その名を上げてください?

 

時代祭 祇園祭 葵祭

 

 

   時代祭りは何を記念した祭りですか?

 京へ都を移された日を記念して毎年十月二十二日に行われます。当日は桓武天皇御遷都以後の一一〇〇年の間の各時代の各衣裳をつけた行列が、京の町を棟り歩きます。目の前に一大絵巻を見る様は、京都三大祭の一つに数えられています。

 

 

   知恩院・本堂の屋根の棟の真中辺り四枚の瓦が余分に乗せているのはなぜですか?

 

昔から、満つれば欠ける世のならいとかいわれ、とかく完全をものには破壇が来る、五体満足に行きますと、いつかは下り坂になるといわれます。そこで本堂の建築に一点の非もないので、魔がさしてはいけないと云うわけで、いつ迄も未完成とするため、わざとあの瓦を残したものだそうです。そんなところから魔除けの瓦といわれています。

 

 

   知恩院・鶯張り廊下は何メートルありますか?

 

 この廊下は、阿弥陀堂の本堂から集会堂、さらに大方丈、小方丈迄全長五〇〇メートルもあります。この上を歩きますと、キュッキュッと音を発し、丁度鶯が、ケキョウケキョウと鳴く声に似ているというので、鶯張りといわれます。

 

 

   知恩院・鶯張り廊下、何のためにあると考えられていますか?

 

 昔、侵入しょうとする曲者を防ぐために作られたため、忍び返しともいわれております。

 

 

   知恩院七不思議といわれます。七つの不思議とはどんな不思議ですか?

 

 山門にある白木の棺は、秀忠公の命を受け、五味金右ェ門が責任者となって建立したのですが、一万両という莫大な予算をも超過してしまい、その責めを負って自害して果てた五味夫妻の木像です。そして鶯張りの廊下、大杓子、大方丈の板絵、どちらから見ても正面を見ている様な三方正面真向きの猫、大方丈菊の間の襖絵、あまり見事な作で一夜にして魂を得て飛び去ったと云う抜け雀、左甚五郎の忘れ傘、それに黒門前にある瓜生石。

 

 

   左甚五郎の忘れ傘、なぜここに(知恩院)あると考えられますか?

 

七不思議の一つで、名匠左甚五郎がここの修築の際、忘れて行ったものとか、あるいは、余りに立派なお堂が完成したので、かえって不吉であるというので、わざわざ置いていったとか云われますが、実際は、火災除けのまじないだということです。

知恩院は開祖、法然上人以後、江戸時代前期に至る迄の記録を見ても、幾度か炎上していますが、重ね重ねの火災にそなえて、この様な防火のまじないが生れたのでしょう。

 

 

   知恩院の釣鐘堂の鐘は、除夜の鐘以外につくのは特別な時、どんな時?

 

 四月十九日から二十五日迄行われる法然上人の法要の時以外は、鳴らさない事になつています。

 

 

   我が国三大祭りをあげてください。

 

 京都・祇園祭と東京の天下祭、大阪の天満祭

 

 

   祇園祭りのおこりは何ですか?またどこで、いつ行われますか?

 

清和天皇の貞観十一年(九八六年)に、京都の町に悪疫が流行した折、悪疫退散のため、播磨の広峰から牛頭天皇を勧請したのが始まり、と伝えられております。 

俗に祇園さんの名で親しまれている八坂神社で行われる毎年七月十七日の祇園祭りには、豪華絢爛たる山車や鉾が〝コンコンチキチンコンチキチン〟と祇園ばやしも賑やかに繰り出して行われます。

 

   養源院立札に血天井と書いてあります。どんな意味があるのですか?

 

四五〇余年前、秀吉公の側室淀君が、父浅井長政公の菩提を弔うために建立されたもので、今の建物は、淀君の妹、秀忠夫人の手によって再建されたものです。立札に血天井と書いてありますが、それは、関ケ原合戦の折、桃山城の鳥居元忠の陣を、石田三成の軍が攻めたとき、鳥居元忠以下一族郎党よく奮戦しましたが、その甲斐もなく破れ、生き残った兵と共に廊下で自害してはてました。その時流れた血が板の間にしみこんで消えなかった所から、冥福を祈るためこのお寺へ移されました。

 

 

   俗に三十三間堂、正式の名称は?

 

 三十三間堂は、本名を蓮華王院といいますが、本堂の棟木を区切る間数が三十三ある所から俗に三十三間堂と呼ばれています。 

 

 

   三十三間堂には観音様がたくさんおられます。何体ありますか?

 

中には、一千一体の観音様のほかに、風神、雷神、二十八部衆など鎌倉時代の彫刻がならんでいます。これら、一千一体の観音様をごらんになりますと、必らず誰かの顔に似た観音様があると云われます。

又、この裏で行われた通し矢は、江戸時代、諸国の武士が集まって夜通しその技を競いあつたといわれ、現在でも成人の日には弓の競技が行われます。

 

 

   鴨川(七条大橋)の河原では多くの人が処刑されました。石川五右工門もその一人ですが、風刺をこめた辞世の歌を残しています。その辞世の句とは?

 

 石田三成をはじめ多くの罪人が処刑されました。石川五右工門は

 

石川や 浜の美砂子は つくるとも

世に盗人の 種はつきまじ

 

と風刺をこめた辞世の歌を残し、愛児と共に釜ゆでに処せられました。

 

 

   京都の住所は上ル、下ルといいます。何に対して上ル、下ルですか?

 

 御所が北にあるため、北に行く事を上ル、南に向う事を下ルといいます。

 

 

   真宗大谷派本願寺は東本願寺、西本願寺と2つあります。なぜですか?

 

 京都では西本巌寺をお西さんと呼ぶのに対して、東本願寺はお東さんと呼んでいます。

真宗大谷派本願寺は、徳川家康が天下を治めようとしても、本願寺派の勢力が意外に強いので、これを弱めるために本願寺を二つに分け、東本願寺は第十二世教如上人を開祖として建てられました。

 

 

   東本願寺、大師堂は俗に「千畳敷き」といわれます。何枚の畳がありますか?

 

 大師堂または御影堂と呼ばれ、宗祖親鸞上人をお祀りしてあります。明治二十八年に建てられたこのお堂は、前面六十四メートル、高さ三十八メートルあります。この中には畳が九二七枚敷かれ、俗に「千畳敷き」といわれます。

 

 

   京都四大門とはどこをいいますか?

 

 南禅寺の山門、知恩院の山門、東福寺の山門、東本願寺の大門

 

 

   東本願寺・御影堂と阿弥陀堂の間の廊下に毛網《けずな》が保存されております。毛網とは何ですか?また、どんないわれがありますか?

 

 御影堂と阿弥陀堂の間の廊下に毛網《けずな》が保存されています。明治の中頃に、この大建築をした時使われた婦人の髪の毛で作った綱です。大きな材木を運んだり、棟あげをする時、どんな網を使っても切れてしまいました。それで、信者の婦人達が自分の黒髪を切り、これに麻糸をよってこのような毛綱をつくり、これを寄付いたしました。昔は五十三本ありましたが、戦争中海軍に使用され、現在ではその一部が陳列されているにすぎません。大きいものになりますと、一本で一トンあまりあったといわれます。今更ながら、女性の力の偉大さには感心させられます。

 

   清水寺・狛犬。どこの狛犬でも、一匹は口を開け、片方は口をむすんでいます。こちらは両方とも口を開けて笑っております。なぜ両方とも口を開けて笑っているのですか?

 

 清水寺の門の手前にある狛犬は笑獅子です。

これは、清水寺がこんなに高くては、お参りになる方も大変お疲れになり、疲れると不気げんになって、グチの一つも…という事になりますので、折角お参りになりましても、御利益が半分になってしまっては大変と、この狛犬は「私のように笑ってお詣りして下さい」と御手本を示しているのでしょう。

 

 

   清水寺仁王門、一名目かくしの門とも呼ばれます。なぜ目かくしの門という名が?

 

 仁王様は、鎌倉時代の名仏師・運慶作です。又、この仁王門は、西門から御所が見下すのは恐れ多いといって、目かくしのためにここに建てられたものです。

そんなことから一名、目かくしの門とも呼ばれます。

 

 

   清水の舞台、何本の柱で支えられていますか?

 

 崖の上に、一三九本の柱で支えられています。又、この下一帯は、新高尾と呼ばれ、桜、かえでの名所です。三重の塔は、泰産寺《たいさんじ》子安の塔といい安産の子安観音をお祀りしています。塔の右一帯を鳥辺山といい平安朝の頃から名高い墓地です。近松門左工門作で有名な、お俊、伝兵衛のお墓もあります。

 

 

   清水の舞台、釘は一本も使っていません。どんな効果?

 

 一三九本のけやきの木をくりぬき組合わされていて、地震にも強く決してこわれたりはしません縦横の柱の組合せに釘1本も使用しない「地獄止め」と呼ばれる工法。人間も一度地獄に落ちますとなかなか抜け出る事が出来ませんので、〝地獄止め〃の名がつけられたのでしょうか。舞台の高さは約十一メートルです。

 

 

   清水寺、名前のいわれは何ですか?

 

 僧、延鎮がたづね建てられた所で、美しい水が清く澄んでいる所から、清水寺と名づけられました。延鎮上人がとられた水ごりの修業は信者の間に伝えられ、今でも祈願や修業される方は、音羽の滝でまず身を清め、本堂にお参りいたします。

 

 

   無鄰庵は、日露戦争の開戦を決定したところと伝えられます。出席者は誰ですか?

 

 明治三十六年四月二十一日、伊藤博文、山県有朋、桂太郎首相、小村寿太郎外相が、ここの土蔵の二階で日露開戦の決定をしたところです。

また、明治・大正の政治家、山県有朋の別荘だったところです。美しい庭園は山県有朋の設計といわれます。

 

 

   京都五山とは?

 

 室町時代に南宋にならって決められた臨済宗の寺の格式をいいます。最初は南禅寺(一二九一創建)、天竜寺(一三四〇)、建仁寺(一二〇三)、東福寺(一二三五)、万寿寺(一〇九七)の五寺院をさしましたが、至徳三年(一三九八)相国寺造営(一三八一)後は南禅寺を五山の上と定めました。

 

 

   「帷子の辻」の名のいわれは?

 

 帷子の辻の名は平安朝の始め、嵯峨天皇の后、檀林皇后を嵯峨へ葬られる途中、柩にかけられた帷子が落ちた所から、その名が残されたものです。

 

 

   映画撮影所で有名な太秦(うずまさ)、その名のいわれは?

 

 秦一族は淀川の中・上流地方を中心に、広く近畿地方一帯に居住して、養蚕や機織り・ 農耕・酒造りの技術をもつて朝廷に仕えていました。今もこの秦氏によって建てられた広隆寺や、秦氏の墓といわれる蛇塚が残され、地名の太秦も、庸・調の絹をうずたかく盛り、朝廷に貢献して兎豆麻左(うずまさ)の姓をあたえられたとも、また仁徳朝に秦氏の絹が肌膚のごとくあたたかかったので、波多の姓をえたとも記されています。

 

 

   車折神社、なぜ車折という名前に?

 車折神社は今から約八三十年ばかり前、高倉天皇の教授であつた清原頼業のお墓を守るために建てられたものです。車折と名付けられましたのは、亀山上皇が嵯峨に行幸された時、道の真中に石があり、牛が一歩も進まなくなったそうで、その石を調べたところ、頼業のお墓であることがわかりました。そこで嵯峨天皇は、車の前とかいて、車前大明神の号をさずけたのですが、それがいつの間にか、車が折れて牛が動かなくなった、と誤り伝えられたものだといわれます。今では、清原頼業にあやかって「お金がよるなり」とし、商売繁昌の神として大勢の参詣者で賑わっているそうです。

 

 

   京都名物、「名菓八ツ橋」のおこりは?

 

元禄時代、八ツ橋検校という琴の名手が、六段の曲をはじめ数々の名曲をつくりましたが、検校の死後検校の死をいたみ、お菓子を琴に形どり八ツ橋の名前をつけたのが「名菓八ツ橋」のおこりです。

 

 

   京都府庁。前には何があったところですか?

 

 明治三十八年建築のルネッサンス風の建物で、当時は大変立派なものだったといわれます。この府庁があるところが、幕末の京都守護職屋敷のあとだそうです。

 

 

   六角堂、正しい名称は?

 

 六角形の観音堂があることから六角堂とよばれますが、正しくは頂法寺という聖徳太子の創建によるお寺です。

 

 

   華道の家元、池の坊のおこりは?

 

 六角堂、本堂後方に華道の家元、池の坊があります。聖徳太子の没後、随から帰朝した小野妹子がこの池畔に一坊を営み、本尊如意輪観音に仕えたので、世人は妹子を池の坊と呼び、妹子は太子から伝えられた華道を世人に教えたので、華道池の坊が起ったといわれ、子孫は代々小野姓を名乗り、今日に至っています。

 

 

   嵐山の風景に無くてはならない渡月橋、最初は異なる名前でした。その名前は?

 

 長さ一五四・五メートル、始めは法輪寺橋と呼ばれましたが、月明りの夜、川上から眺めると〝くまなく月の渡るに似たり〃と云うので、渡月橋と名付けられました。

 

 

   金閣寺西方に美しい山、衣笠山があります。衣笠山の名前の由来は?

 

 将軍足利義満が鹿苑寺に、後小松天皇の御幸を仰ぎました時、丁度夏の暑い盛りであつたため、山に白絹をかけて冬の雪景色を表わした所から、キヌカケ山がなまって、いつの間にか衣笠山となったそうです。

 

 

   京都五山の一つ臨済宗東福寺、東福寺の名前の由来は?

 

 喜禎二年(一二三六年)、関白九条道家が、聖一国師に開山させた、京都五山の一つ臨済宗東福寺があります。このお寺は、東大寺と興福寺の一字ずつをとつて寺名としました。室町時代に建てられた国宝の山門や重要文化財の東司、禅堂、月華門等があることで有名です。

 

 

   江戸時代以来の公許の花街・島原、名前の由来

 

 平安京の昔は朱雀野の一部でしたが、天正十七年、足利家の家臣・原三郎左衛門と林又一郎が、豊臣秀吉の許可を得て六条の傾城町を朱雀野の一角に移した(徳川初期)のが始りで、当時九州島原に天草一揆が起っていた時でもあり、傾城町引越の様子が、まるで天草一揆の様なさわぎであつたため、島原と名付けられました。

 

 

   京都市内が一望できた船岡山、船岡山の名前の由来は?

 

京都の北郊、紫野(船岡山から大徳寺周辺一帯)に横たわる丘陵・船岡山。高さ一二〇メートル。東麓にはもと大池があり、その池に丘がうつって、船が浮かんでいるようにみえたので、船岡山という名が出たといわれます。

平安京の中心線の北の延長上にあって、京の玄武(家相で北に位置する)とされ、都造営の基準点となった丘です。平安時代には貴族がここで若菜つみなどをして遊んでいた   

行楽地で、「枕草子」にも「岡は船岡」と一番にあげています。その後は「平家物語」や「徒然草」にみられるように葬送の地となっています。さらに戦略的要衝として、応仁の乱(一四六七~七七)では、西軍の山名宗全の陣営が置かれたところです。山頂には明治十三年、織田信長をまつる建勲神社が創建され、船岡山公園となっております。

 

   京都・嵐山の渡月橋の下を流れる大井(堰)川、大堰川名前の由来は?

 

 葛野川のことをふつう大井(堰)川と呼ぶのは、嵯峨一帯に広い土地をもち、勢力をふるっていた渡来氏族の秦氏の先祖が、農業用水を確保するため、大井=大きな堰をつくったので堰の字を使って大堰川となつた=周辺を開発したことにちなみます。

京都・嵐山の渡月橋をはさんで上流が大堰川で、下流から桂川となる。この川はその後、鴨川、木津川、宇治川と合流して淀川となります。

 

 

   清涼寺に三国伝来の釈迦が祀られています。三国伝来の釈迦とはどういう意味ですか?

 

 ここにはもと棲霞寺《せいかじ》という立派なお寺がありました。境内に三国伝来の釈迦を祀り、清涼寺と名づけましたが、後、この釈迦が一般庶民の信仰をあつめ、棲霞寺の方は衰えていったといわれます。三国伝来の釈迦とは、インドから中国に渡り更に日本にやって来たというもので、顔も衣も大変エキゾチックなお釈迦様です。

 

 

   楠正行と足利義詮は敵同士。でも宝筐院の同じところに眠っている。なぜでしょうか?

 

 京都の嵯峨野にある非常に静かな佇まいの臨済宗の寺・宝筐院《ほうきょういん》。

小楠公楠正行の首塚があります。正平三年(一三四八年)、正行が河内の四条畷で討ち死にしますと、その首は京都へ送られて、首実験の後、ここに葬られました。ところが、正行を深く尊敬していた尊氏の子、義詮は自分が死んだら、正行の傍に葬ってくれる様遺言しました。正行と義詮は恩讐を越えて、敵味方仲良く同じ所に眠っているのです。

 

 

   朝廷が京都の北朝と大和国吉野の南朝に分裂し、南北両朝勢力があらそった動乱に終止符をうった南北両朝の講和はどこで行われたでしょうか?

 

 大覚寺。真言宗大覚寺派の大本山で、もと嵯峨天皇の離宮でした。

貞観十六年(八七四)、淳和天皇が第二皇子恒寂法親王《こうじゃくほうしんのう》を開基として、代々宮門跡が住まわれ、世に嵯峨御所とよばれました。鎌倉末期には、大覚寺統の御所となり、一三八四年に南北両朝の講和がここの客殿上段の間で結ばれました。本堂には、弘法大師の作と伝えられる本尊五大尊をお祀りしてあります。客殿は桃山時代の書院造りの代表的なもので、後宇多天皇が即位の当初から四年間、政治をとられた御冠の間の蒔絵は、嵯峨蒔絵といわれております。又、客殿内部に画かれている襖絵は、桃山時代の名作として有名です。なお、この大覚寺は生花の未生流嵯峨流の家元です。

 

 

   竜安寺は石庭で有名ですが、その石の並びは何を表していますか?

 

 油土塀にかこまれた方丈の庭に白砂を敷き、その上に東から西へ、五、二、三 二、三と十五の石を五つの群に配し、中国禅の五山の思想を表わしたものと云われ、どこから見ても、一個はかくれて見えず、白砂と石組だけ、一木一草も植えずに築かれた枯山水の庭園で相阿弥の作と伝えられる。

応仁の乱の東軍の将として、山名宗全と相対した武将の細川勝元公の建立と伝えられます。

 

 

   幕末の頃、勤王派の志士が等持院にある足利の像の首をはねて持ち出し、三条河原にさらしたといわれます。誰の首をはねたのでしょう?

 

 足利尊氏、義詮、義満。

等持院はもと真言宗のお寺でしたが、足利尊氏が夢窓国師をまねいて立派なお堂を建て、禅宗に改め、足利家の菩提所にしました。度々火災に合い、現在の建物は二〇〇年程前に再建されたものです。堂内には、尊氏以下十四代の木像があります。

 

 

   京都にはたくさんのお寺があります。いくつ位あるでしょうか?

 

 昔からお江戸八百八町、難波八百八橋、京都八百八寺といわれますが、八百八寺どころではないようです。大きいのは、東本願寺から小さいお寺を合せると千四百からあり、これに神社を合せると合計一八六二の社寺があるそうです。

 

 

   人形寺で有名な寺、そのお寺の名前は?

 

 宝鏡寺(人形寺)。光格天皇ご遺愛の人形をはじめ、数百体の人形や、双六、見合わせ等を集めてあり、春と秋には人形展が開かれます。また、境内には人形塚があり、人形業者や女性の信仰を集めています。

 

   京都三大祭りの一つ、葵祭りはどこで行われていますか?

 

 上賀茂神社。この辺り一帯に勢力を持っていた帰化人、賀茂氏の氏神で、下鴨神社と共に賀茂神社と呼ばれる、京都でも最も古い神社の一つです。五穀豊穣の神である雷神を祀っているところから農民の信仰を集めておりました。この神社のお祭りは京都三大祭りの一つ、毎年五月十五日に行われる葵祭りです。

 

 

●東福寺の方丈には四周に庭園をめぐらせた「八相の庭」があります。これは何を表現しているのでしょう。

 

禅宗の方丈には古くから多くの名園が残されてきましたが、四周に庭園をめぐらせたものは東福寺唯一のもので、釈迦成道を表現し、八相の庭と命名され、近代禅宗庭園の代表として広く世界各国に紹介されています。
南は禅院式枯山水、東に北斗七星、西に大市松模様、北に小市松模様をしめす庭園があります。

 

 

   壬生寺には新撰組にまつわる話と同じように有名な壬生狂言があります。この狂言は仏教の教えを取り入れていますが、それはどのような教え?

 

 このお寺で行われる壬生狂言は、鎌倉時代から伝えられたもので、毎年四月二十一日から一週間行われます。これは「善いことをすれば、必ずよいことがある」とか、「悪いものをこらしめ、善いものが勝利を得る」(勧善懲悪、因果応報)仏の教えを、狂言に採り入れたもので、「ガンガンデンデン」のおはやしと共に、身ぶり手ぶり面白く演じられますが、庶民性に富んでいて、子供達にも人気があります。境内には新選組隊士の墓や、近藤勇の胸像があります。

 延命、厄除けの地蔵菩薩の信仰が盛んなところです。

 

 

   日本三虚空蔵とは?

 

 法輪寺・本尊の虚空蔵菩薩は「嵯峨の虚空蔵さん」と親しまれ、伊勢の朝熊・会津の柳津のものとともに、日本三虚空蔵といわれています。

法輪寺は真言宗御室派で、奈良時代に僧行基によって開かれたお寺です。

花時の四月十三日には、十三詣いりといって十三歳になった男女が美しく着飾り、厄をはらい、知恵を授かりにお詣いりにまいります。参詣後、もし渡月橋を渡り切るまでに後を振り返えると、せつかく授かった福徳も知恵も、もとに戻ってしまうと伝えられています。

 

   虚空蔵菩薩の「虚空蔵」の意味は?

 

 虚空蔵とは、その広大無辺の功徳が虚空(大空)のように大きいという意味です。法輪寺の菩薩は奈良時代から、智慧(智=決断慧=えらぶの意で一般的には物事を深く考え、計画し、処理する力をいう)の仏として、庶民に厚く信仰されました。右手には智慧の剣、左手の連華の上には福徳の如意宝珠をもち、頭には五仏宝冠をいただいています。

 

 

●京都で一番古いといわれるお社は?

 

 松尾大社。

大宝元年(七〇一)に、秦都理《はたのつり》によって建てられた、京都で一番古いといわれるお社で、祭神は農耕の神、酒の神の大山咋神《おおやまくいのかみ》と、市杵島姫命《いちきしまのひめのみこと》です。境内にある「亀の井」の清水をくみ、醸造の時にこの水を加えれば、お酒がくさらないといわれ、これが信仰のもとになりました。 鳥居の様に大きな御神酒徳利がおかれています。また本殿は俗に〝松尾造り〟といわれる三間社流造り・檜皮葺きのお社で、この建物は天文十九年(一五五〇)に建てられたものです。

 

 

●〝松尾造り〟といわれる三間社流造り、三間社とは?

 

一棟のなかに御神体を安置する神殿が三つ並んでいる神社を三間社という。その神明造りの切妻の屋根になだらかな反りをつけ、前面だけを片流れ式に長くのばしたものを特にこの名でよびます。

 

 

   苔寺(西芳寺)、苔の種類は何種類?

 

 西芳寺というより、境内一面におおわれた苔の美しさから「苔寺」の名で知られており、臨済宗天竜寺派のお寺です。

「こけ」の種類はスギゴケ、高野の万年スギ、クサゴケ、オオスギゴケ等五十余種にわたり、庭園は特別名勝に指定されています。

創立は天平三年(七三一)僧行基と伝えられていますが、のちに、足利氏の尊崇により、延元年間(一三三六~一三三九)に、夢窓国師によって再興されました。庭は上下二段構に作られ、下段は池を中心とした廻遊式庭園で、〝心〟という字を形どった黄金池を中心に、湘南亭、潭北亭《たんほくてい》などが配されており、上段は夢窓国師作の日本最初の豪壮な石組みの枯山水庭園として広く知られています。また湘南亭は千利休の子、少庵が世をしのぶ陀住居として修築したもので、来客のためのものではなく書斉兼茶室といった感じで、普通の茶室とは一種おもむきの違っているのが特徴です。 

 

 

●歴史に名高い老の坂峠、何を思い浮かべますか?

 

 天正十年六月二日、主君織田信長から「中国の毛利攻めで苦戦をしている羽柴秀吉を助けよ」との命を受け、丹波亀岡の居城を出発した明智光秀は、数千余騎をひきいてこの峠にのぼり、まだ明けやらぬ中に、白々と浮び上る満々と水をたたえた桂川、その向うにまださめやらぬ京の町を見下し、「敵は本能寺にあり」と全軍に命をくだし、桔梗の旗さし物をなびかせ一気に本能寺を攻めました。不意をつかれた信長は、森蘭丸らの奮戦もむなしく、「人間五十年……」燃えひろがる炎の中でその生涯を閉じました。明智光秀はそれからわずか十一日後に秀吉にほろぼされ、三日天下などといわれましたが、〝敵本主義〟という言葉も生まれました。

また丹波は古くから絹の国として知られているところですが、生糸や絹織物をはこぶ絹の道はこの老の坂峠を越えて都に入りました。

乱世には、この峠道は盗賊の住みかともなり、謡曲「大江山」では、酒呑童子があらわれるのは、この老の坂という説をとっています。

 

 

   桂離宮の庭園は、桂川の水を引き入れた、池泉廻遊式と舟遊式とをかね、いくつかの茶亭が点在しており、自然美と芸術美が調和されている美しさは世界的にも有名です。

いくつかの茶亭の名は?

 

  雲はみな  あらしの山の  麓にて  かつらのさとに 月ぞくまなき

 

 と古歌にもよまれた桂の里の天下の名園〝桂離宮〟は、正親町《おおぎまち》天皇の孫智仁親王《としひとしんのう》と智忠親王《としただしんのう》父子の時代に造営されました(一六二〇~一六一四年頃)。以後一部改造され現在に至っています。

 古くは桂御山荘と呼ばれていましたが、明治十四年宮家が断絶していらい、皇室の離宮となりました。総面積は約四・三万平方メートルで、池だけで六七〇〇平方メートルもの広さがあります。御殿は古書院・中書院と後水尾天皇夫妻の行幸のとき新築された、御幸殿(新書院)が雁行形に建てられています。庭園は、桂川の水を引き入れた、池泉廻遊式と舟遊式とをかね、月波楼《げつはろう》、松琴亭《しょうきんてい》、笑意軒《しょういけん》、卍字亭《まんじてい》などの茶亭が点在しており、自然美と芸術美が調和されている美しさは世界的にも有名です。

 

 

   嵐山府立公園は三つからなる公園です。その3つとは?

 

 嵐山(三七五メートル)を中心とした景勝地で、亀山公園・中の島公園・嵐山東公園の三つからなる公園です。

 

 

   「平家物語」の哀話・小督塚《おごうずか》、どんな話ですか?

 

 渡月橋のほとりの大堰川にそって亀山公園に向う途中、木立のなかに見落しそうな小さな五輪塔が小督塚です。小督の局は高倉天皇に愛されながらも、平清盛の怒りにふれて、嵯峨野の奥に身を隠したという「平家物語」の哀話から後の人が作ったものです。又、近くには小督局をさがしにきた源仲国が「想夫恋《そうふれん》」の琴の音に駒を止めたという、琴聞橋《ことききばし》もあります。

 

 

   京の七口とは?

 

 古くから京都には「京の七口」と言われる街道口があり、人々は「七口」、あるいは「七路」と呼んでいました。いずれも諸国に通じる重要な諸街道につらなっていました。

中世の「七口」は、鞍馬口、小原口、今道之下口、鳥羽口、東寺口、西七条口、長坂口があげられますが、その他にも、粟田口、西三条口、伏見口なども加えられ、どれがほんとうの「七口」かは、あまりはっきりとはしておりません。

また、江戸時代になって登場する「七口」は、東寺口、五条橋口、四条大宮口、竹田口、三条橋口、大原口、清蔵口となっており、これ以外に、粟田口、荒神口、伏見口、丹波口、長坂口、若狭口、八瀬口などもありました。

このように「京の七口」はその時代によって変っていたようですが、変わらないのは、多くの旅人の出入と、いろいろな物資や、さまざまな文化が、京を出入りしていたということでしょう。

 

   八瀬の里、八瀬の名前の由来

 

 高野川のこの辺は瀬(急流)が多いところから八瀬という地名がつけられました。また古い記録では、弓矢の〝矢〃と背中の〝背〃を書いて〝矢背〟と記されています。

これは今から一三〇〇年ほど前の、壬申の乱の時、大海人皇子と大友皇子がたがいに皇位をあらそい、その時、大海人皇子(後の天武天皇)がこの地で背中に矢傷をおったところから〝矢背〟とよばれるようになったといわれています。

 

 

   下鴨神社の南側にひろがる美しい森、(ただす)」の森、「糺」はどんな意味があるか?

 

 「糺」の森は、下鴨神社の南側にひろがる美しい森で『源氏物語』、『枕草子』をはじめ、数々の物語や詩歌管弦にうたわれてきた名所です。その昔「糺」の名は、賀茂川と高野川の合流点から単に川の洲を意味した「只洲」、あるいは「蓼洲」とよんでいたといわれます。いつの頃からか「糺」の文字が使われるようになりました。この文字には〝問いただす〃〝正しくさせる〃という意味があるので、いつしか「糺」の森はいつわりを正す神のいる森、というような信仰を集めるようになりました。

 

 偽りを 糺の森の 木綿だすき

    かけつつ誓へ われを思はば     平 貞文

 

と、「新古今和歌集」にもうたわれたように賀茂建角身命が、からみあったヒカゲノカズラという蔓草をときほぐすように、人々の訴えをきき、ものごとの白黒を定め、難事件を解決したという伝説があります。ちなみに、その蔓草が明治時代の裁判官の法服の飾りとして用いられていました。

 

 

   葵祭りの名の由来は?

 

 祇園祭り、時代祭りとならぶ京の三大祭りが葵祭りで、毎年五月十五日に行なわれます。

王朝風俗を再現した雅やかな祭りは、平安の昔の古式にのっとり、宮中の儀・路頭の儀・社頭の儀の三つにわかれて進行いたしますが、祭りのハイライトはやはり一キロに近い行列を組む路頭の儀でしょう。行列の牛車(御所車)のすだれ、勅使、供奉者の衣冠、牛にいたるまですべて葵(フタバアオイ)の葉でかざることから葵祭りの名があると伝えられています。 

 

   葵祭りの起源は

 

葵祭りの起源は飛鳥時代にまでさかのぼります。欽明天皇の御世のこと、国内は風水害で大変な凶作にみまわれました。これは賀茂の神のたたり(雷神は雨をよぶ神、すなわち農耕神として賀茂社は崇敬されていた)であろうと、これをしずめるため、天皇は四月吉日に鈴をつけた馬を走らせ、祭礼をいとなみ、五穀豊穣を祈ったのにはじまるといわれます。また、葵祭りの名は別雷命の夢に母神があらわれて「我をまつるに葵を鬘にせよ」とのお告げがあったといういい伝えが残っています。

 

 

   葵=二葉葵にはどんなご利益がある?

 

本殿には二葉葵の神紋が入っています。この二葉葵は必らず二葉で芽を出すところから、男女の縁をあらわし、縁結びにご利益かあるそうです。

 

 

●京都三大奇祭の一つ、今宮神社のお祭りの名は?

 

今宮神社が創建されたのは平安時代正暦五年(九九四)のことで、病気退散を祈るため、京都の四すみにつくられた、たたり神(疫神)をまつる神社のひとつです。

現在の社殿は明治時代に再建されたものです。四月第二日曜には、疫病退散を願って「やすらい祭」が行なわれます。この「やすらい祭」は太秦の牛祭、鞍馬の火祭とともに、京都三大奇祭にかぞえられています。門前の名物に「あぶり餅」があります。これは平安中期に厄除けのためにそなえられたのが起源といい、食べれば疫病がはらえるといわれています。

 

   今宮神社の末社八幡殿の前にある石は不思議な石で知られています。何が不思議?

 

 今宮神社 社宝には、天治二年(一一二五、平安時代後期)の銘がある重要文化財の四面仏があります。これは四方に仏像を線刻してあり、在銘石仏では現存するものの中で最古のものです。また、末社八幡殿の前にある石は「怒る石」といわれる境内の人気者です。たたいたりすると重くなって持ちあがらなくなり、なでたり、拝んだりすると軽くなるという、不思議な石で、昔から神占石といわれています。

 

 

   賀茂大橋からの道を半木(なからぎ)の道といい枝垂桜の名所です。半木(なからぎ)の名前には面白い逸話があります。どんな逸話?

 

 賀茂大橋の上流にかかる葵橋から北山大橋まで、賀茂川の東岸沿いにのびる二キロの道を、半木の道といい、隠れた枝垂桜の名所です。かつて植物園内の片すみに、上賀茂神社の末社・流木神社があり、あるとき、この神社が洪水で流されたため、〝流〃の字をきらって、半木の字をあてたといわれます。周辺の町名は半木とよんでいます。春には遊歩道沿いの枝垂桜が、あたりを美しくそめています。

 

 

   牛若丸で著名な「鞍馬」、地名の由来には色々あるようです。あなたならどんな由来を考えますか?

 

 鞍馬の地名の由来はいろいろありますが、鞍馬寺縁起のなかの白馬伝説によると、大友皇子に追われた天武天皇が、この地で鞍をつけたまま、馬をつないだためともいい、また樹木におおわれた暗きところ、「闇部」「暗部」が転化してクラマとなったという説や、崖の間・谷の間をさす倉間や蔵間のあて字説など、諸説があります。 

 鞍馬山のふもとには、牛若丸、鞍馬天狗伝説をのこす鞍馬寺、鞍馬の火祭りが行なわれる由岐神社があり、歴史と伝説の世界が残っています。

 

 

   鞍馬寺に伝わる「鞍馬山曼陀羅」には、サナート・クラマ(魔王尊)として描かれているものがあります。何が描かれていますか?

 

 北山杉と桧の巨木が鬱蒼と茂り、義経と天狗の物語で知られる鞍馬山は、標高約五六九 メートルで、古くから霊気ただよう山として、都の人びとの信仰を集めていました。

この鞍馬山の中腹にあるのが鞍馬寺で、縁起にはさまざまないい伝えがあります。

幾万年もの昔、金星より地球の霊王として天降ったサナート・クラマが出現した聖地と もいわれ、鞍馬寺に伝わる「鞍馬山曼陀羅」には、サナート・クラマ(魔王尊)として、天狗の姿が描かれています。また寺伝によりますと、奈良の唐招提寺を開いた鑑真和上の高弟鎮禎上人が、宝亀元年(七七〇)、山背の国の北の方に霊山のあるのを夢みて訪ねてみると、宝鞍を負った白馬があらわれました。それに従って行くと、まばゆいばかりの毘沙門天が現れたので、さっそくそこに草庵を結んで、昆沙門天をまつったのが始まりといいます。

 

   貴船川と鞍馬川の合流地貴船口より北の貴船川にそった山間部一帯を貴船といいます。貴船、地名の由来とは

 

 地名の由来は、樹木の生い茂る山を意味する「木が生える根」、または「木が生える嶺」と書く木生根・木生嶺が転訛したものです。古来より都の水源地であるため、水神をまつる貴船神社があります。近世には北の芹生峠をこえる丹波街道が通じて、丹波国などからの炭の集荷中継地として栄えました。

 

 

   貴船神社は和泉式部の縁結びにまつわる歌があります。どんな歌ですか?

 

  和泉式部は夫との復縁を願い貴船を訪れ、貴船川を舞う螢を見てうたいました。

 

   物思へば 沢の蛍も わが身より

      あくがれ出づる 魂かとぞ見る

 

すると、社殿の中から貴船の神様が返歌をされました。

 

返歌
おく山に たぎりて落つる 滝つ瀬の
   玉ちるばかり ものな思ひそ

 

その後、願いが叶えられ、夫婦仲がもとの円満に戻ったといいます。

 

 

   「貴船神社と丑の刻参り」の話にはおどおどしたものを感じます。「丑の刻参り」にはどんな姿、形でお参りするのでしょうか?

 

その昔、うらみを抱く女性が、丑の刻(今の時間でいえば午前二時)に間にあうよう、白い衣を身にまとい、人にみつからぬよう、裸足で都からはるばるこの神社にかけつけ、髪をおどろにふり乱し、頭にかぶった鉄輪にはロ-ソクの火をかかげ、もってきたわら人形を五寸釘で神木に打ちこんで、憎い相手を殺すために祈願をこめたと伝えます。

謡曲の「鉄輪」では、もの狂おしい妖妬のすえに鬼女となる、悲しい女性がえがかれています。

千年余の都の歴史は、政治の争いと戦乱の歴史そのもので、雅びな都の生活の裏には、怨念渦巻く闇の世界が隠されていました。それが千年の間につもりつもって、古都の街角にたくさんのミステリー、物怪、幽霊話などとなって、恐い話が今も伝わっています。貴船神社の「橋姫伝説」や、深泥池から円通寺の前を通る旧鞍馬街道周辺では、幽霊の出るミステリースポットといわれるところです。

 深泥池では「口裂け女」の発祥の地といわれ、また、タクシーがこの付近から若い女性を乗せると、いつの間にか姿を消し、シートは水でぬれていたといいます。

 旧鞍馬街道の細い道では、深夜、この道を運転していると、後からヘッドライトが光って猛スピードで追いぬいていきます。それもかつての名車・いすずペレットだといわれます。しかしこの道はすれちがいさえできないほどの細い道なのです。さらに、黒い服を着た女性の幽霊が出るという噂もあります。 

 

 

   小倉百人一首の「小倉」、なぜ「小倉」なのでしょう。

 

    小倉山  峰のもみじば  心あらば

       いまひとたびの  みゆきまたなむ          藤原忠平

 

 右京区嵯峨西方にある山を小倉山といいます。

 標高は二八六メートルの形の美しい山で、保津川の保津峡をはさんで南岸の嵐山と向いあっています。南東にのびる尾根を亀山とよび、古くから紅葉の名所として知られ、歌枕の一つになっております。

 小倉百人一首の名は、藤原定家が当地で百首を選んだことに由来しています。

 平安時代、小倉山の麓は皇族や貴族の隠棲地で、付近に大河内山荘、常寂光寺、落柿舎、二尊院、砥王寺、化野念仏寺などがあり、亀山の麓には、野宮神社、天龍寺があり観光コースとなっています。

 

 

   歌枕ともなっている嵯峨野、どんな文学作品がある?

 

 嵯峨野とは、北は大覚寺付近の北嵯峨(上嵯峨)から、南は大堰川(大井川)、東は有栖川、西は小倉山山麓にわたる台地をいい、古くは狩猟場や隠棲地だったところです。      

 嵯峨天皇をはじめとして皇族・貴族が山荘寺院を次々に営んでおり、歌枕ともなっております。「古今集」「枕草子」「源氏物語」、「平家物語」や松尾芭蕉の「嵯峨日記」など、多くの文学作品にこの地が出ています。嵯峨という地名は、中国の長安郊外にあるサツガツ山(嵯峨山)の名をとつたとも、また、嵯峨の一帯の地形が北から南へとサカ(坂)のように傾斜していることによる、ともいわれています。

 

 

   伊勢神宮へ奉仕する未婚の皇女が心身を浄める潔斎を行なったところとは?

 

 野宮神社(天龍寺から小倉山の山麓に至る途中にあるのが野宮神社です)。

竹やぶの奥、柴垣の内にひっそりと建てられているのが、嵯峨野めぐりの起点として知られる野宮神社で、天照大神をおまつりしています。かつて当地は、天皇の即位ごとに天皇の代理が伊勢神宮へ奉仕する未婚の皇女(斎宮)が伊勢へ出発する前の一年間、清浄な野に造られた野宮に移って、心身を浄める潔斎を行なったところと伝えられています。(嵯峨野に残る唯一の野宮の跡)野宮は斎宮が伊勢に出発すると取りこわされ、次の斎宮のときにはまた別の場所に造られるしきたりになっておりました。この嵯峨の野宮の置かれた年代や正確な場所は、はっきりいたしません。

平安時代の野宮は、嵯峨、有栖川、西院、北野など転々と場所が移っていたようです。黒木の鳥居(木皮がついたままの鳥居を黒木とよぶ。それは心身ともに清浄無垢の内親王が出入りするところであるため、鳥居の木は皮をはいで汚れるのをきらったためです)小柴垣、石の井戸、神明造の社殿、右手奥の苔庭と境内は簡素そのものです。現在は縁結び祈願や合格祈願の他、安産、財産、病気平癒などの神さまがまつられています。

 

   嵯峨に落柿舎があります。落柿舎とは?そしてその名の由来は?

 

松尾芭蕉の門人で蕉門十哲の一人、向井去来(江戸時代前期に活躍した俳人)の草庵で、元禄4(1691)には芭蕉がこの草庵に滞在し、『嵯峨日記』を記したといわれています。去来はもと洛東の聖護院村に住んでいましたが、元禄初期(一六八八~一七〇四)に嵯峨に移り、臨川寺付近に住居を構えて、農民や町人も出入りできる俳諸道場を開きました。去来が移り住んだ当時は、周囲に柿の木が四十本ほどあったといいます。ある秋、商人が家の周りの柿の木を立木のまま買い求めましたが、その夜、はげしい風にあって、一夜にして実がすべて落ちてしまったといいます。以後、去来はここを「落柿舎」と名づけたと去来の「落柿舎の記」に書かれ、そのあとに

 

   柿ぬしや  こずえは近し  あらし山

 

の句が書いてあります。

 

 

   小倉山の東の麓にある二尊院、本尊が2つあるところから二尊院となりましたが2つの本尊とは?

 

正しくは小倉山二尊教院華台寺といいます。本尊に釈迦如来(左側)と阿弥陀如来(右側)の二尊を安置するのでこの名があり、鎌倉末期の仏像はいずれも国の重要文化財です。

 

 

   大沢の池から北へ一〇〇メートルほど行ったところに「名古曽の滝」跡があります。

「名古曽の滝」という命名のもとになった歌は?

 

嵯峨天皇の離宮嵯峨院の庭内に設けられていた滝で、名のいわれは藤原公任(平安中期の公家。歌人。四条大納言と称され、温厚な性格と豊かな学識で知られる)がここで

 

滝の音は  絶えて久しく  なりぬれど

      名こそ流れて  なほ聞えけれ

 

(作者がこの歌をよんだときは、離宮造営後七十年を経て、水も涸れ形ばかりをとどめていました。滝の水音が絶えてから長い年月が経ってしまったが、その滝の名声は、世に流れ伝わって今もなお世に知られていることだよ)と詠みました。

 

 

   愛宕神社にまいる有名な千日詣いり、実際には何日間のお詣いり?

 

 有名な千日詣いりは、愛宕神社を七月三十一日夜半から翌八月一日未明にかけて行なわれ、参詣すると千日の功徳があるといわれています。清滝から登るのが表参道(約四キロ)となり、夜を徹してのにぎわいを見せています。神社の祭神は、火伏せの神として信仰を集め、三歳までの子供が詣いるとその子一代火難から免れるという言い伝えがある。

 

 

   愛宕神社は武家の尊崇を集めお参りする人が多かったようです。なぜ、武家の尊崇を集めたのでしょう?

 

 愛宕神社は山城と丹波の国境にそびえる、九二四メートルの愛宕山の上にあり、全国愛宕神社八百余社の総本社で火除け、火伏せの神として有名です。祭神は迦倶槌命《かぐつちのみこと》で、誕生のさい母神いざなみを焼いたというので火の神の信仰をえました。この迦倶槌命を仇子《あだこ》といったのが、アタゴの語源ともいいます。

延喜式では名神小社に列しており、古来より庶民の信仰のあつかったことは、各地にある愛宕灯篭や愛宕道の道標がしめしています。また、山岳仏教がさかんになると、この山は修験道の一大霊場となり、俗に「伊勢に七度、熊野に三度、愛宕山へは月参り」とうたわれるほどになりました。当神社の本地仏が勝軍地蔵のため、武家の崇敬も集めるようになりました。

 

 

   「火の用心」の護符、その信仰はどこ?

 

 愛宕山。京都市の西北に位置する標高九二四メートルの山。

中国の五台山を模して、山中の五山に五寺があり、また火除けの守護神がまつられ信仰され、古くから修験者の行場となっていました。

明治三年(一八七〇)に廃仏毀釈によって、仏寺が廃されて、今は山頂に愛宕神社が鎮座しています。火除けの神として永く京の人の信仰を集め、各町内ごとに「火の用心」の護符がくばられ、カマドや台所の壁にはられています。現在も七月三十一日夜から翌日にかけて参詣すれば、千日間の功徳があるという千日詣では有名です。東側の山腹には、奈良時代末に慶俊が開いた月輪寺や、南方に空也が修業をした空也滝があります。

 

 

●月輪寺・境内の時雨桜は、五月には雨がふらぬ日にも、葉の先から"しずく"を落とすといいます。なぜ?だと伝えられていますか?

 

 月輪寺は愛宕神社の東方約一・三キロのところにある天台宗延暦寺派の寺です。

奈良時代の天応年間(七八一~八二)に慶俊によって創建されたと伝えられています。清水寺の観音の霊告から、空也が念仏道場とし法然や親鸞も参詣したといいます。寺宝には本尊阿弥陀如来、千手観音、空也上人像のほか、この地に隠棲した月輪関白九条兼実の像など重要文化財が数多くあります。また、境内の時雨桜は、親鸞が兼実との別れを悲しんで植えたと伝え、五月には雨がふらぬ日にも、葉の先から"しずく"を落とすといいます。

 

 

   世界文化遺産に選ばれた仁和寺、その名の由来は?

 

 大内山を背景に、南に双がガ丘をひかえた景勝の地にあるのが、真言宗御室派の総本山・大内山仁和寺で、旧御室御所として国の史跡に指定され、また、一九九四年に世界文化遺産に選ばれました。この寺は、仁和二年(八八六)、光孝天皇の勅願によって建てられ、宇多天皇が仁和四年、(八八八)に完成されたもので、年号にちなんで仁和寺と名づけられたものです。宇多天皇は、退位後、法皇となってこのお寺に入られ、ここを御室御所とよぶようになり、のち、御室(僧坊のこと)の地名ともなりました。

以来、法親王が入られるのが例となって、門跡という言葉もこのお寺から始まったものといわれます。

 

 

   京の人々に"お多福桜"あるいは春にわかれを告げる"別れ桜"ともよばれ、親しまれている桜はどこ?

 

  御室は桜の名所として有名で、江戸時代以来の歴史を持つこの御室の桜は、八重の遅咲の里桜で、幹の背丈が低く、地面に近く、大輪の花を咲かせます。俗謡に

 

    わたしゃお多福  御室の桜

       花(鼻)は低ても 人が好く

 

とうたわれています。ここの桜は四月中旬から下旬ごろが見頃となり、京の人々に"お多福桜"あるいは春にわかれを告げる"別れ桜"ともよばれ、親しまれております。

 

 

   大根だきで知られる法輪山了徳寺。なぜ大根?

 

 法輪山了徳寺は真宗大谷派。建長四年(一二五二)の冬、親鸞が師である法然の足跡を愛宕山の月輪寺に訪ねた帰り、吹雪をさけて鳴滝の地で休んでいた時、住民が塩煮の大根でもてなしました。それに感謝した親鸞は鍋のススとススキの穂で念仏(十字の名号)を書いて、与えたところと伝えられます。 

後、親鸞の跡を慕った蓮如も六字の名号を書いたといい「ススキの名号」として寺に残っています。そしてこれを機縁に室町時代末期の大永四年(一五二四)に、寺が建てられました。

 

 大根だきは、了徳寺の諸病封じの行事になっています。十二月九日・十日の両日、約三千本の大根を煮て参詣者に供養します。これを食べると中風よけになるとされ、当寺創建以後はじまった報恩講です。

 

 

   蓮華寺は土用丑の日の"きゅうり封じ"、きゅうりによる疫病除けの祈祷会でも知られています。どんな言い伝えがあるのでしょう?

 

 寺伝によりますと、弘法大師空海がきゅうりに疫病を封じ、五智不動尊に祈願すると疫病にかからぬと説いたことに始まるといいます。きゅうりに姓名・年齢・病名などを書き、祈祷を受けて持ち帰り、朝晩祈りをこめて身体の悪いところをなでたあと、川に流すか、土の中へ埋めると、きゅうりが病気を持ち去るといいます。

 (北区上賀茂の神光院でも同日、同様の祈祷が行なわれます)

 

 

   京の女人風俗を代表するものに、柴を売る大原女や花を売る白川女などとともに、もう一つの話が伝えられています。それは?

 

 今ではもう姿を消してしまいましたが、柴を売る大原女や花を売る白川女などとともに、京の女人風俗を代表するものに、畑の姨《おば》がありました。梅ケ畑や高雄の女性が、北山丸太の残木で作った梯子や鞍掛、床几などの木工品を頭の上にのせて、京の町々を売り歩いたのです。畑の姨とは、「梅ケ畑のおばはん」をちぢめた言葉だそうです。

この土地の伝えによりますと、承久の乱(一二二一)で、北条氏に追われて梅ケ畑の奥、菖蒲谷に逃げこんだ後鳥羽上皇を里人が助け、米袋のかわりにもらった上皇の着衣の片袖を、米を運ぶとき頭にのせたことに始まると伝えます。紺木綿の着物に三幅前だれ、手甲・脚絆をつけ、ゆったりとはく、たっつけが特徴です。

手ぬぐいをかぶり、腰に長きせるを差し、歯はおはぐろで染めました。畑の姨は商売上手で、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の中で「京女とあまくみて、ひやかしたばかりに、梯子を買わされるはめになった」と、三条大橋での弥次さんの失敗談を書いております。

 

 

   槙尾・栂尾とともに三尾といわれるもう一つの末尾に「お」のつく山の名は?

 

 高雄は槙尾・栂尾とともに三尾という、紅葉の名所として、また清滝川の清流とあわせて洛北の景勝地です。神護寺は高雄山の山腹にあって、東寺や高野山金剛峰寺とともに真言密教の寺としては古い歴史をもっています。もとは和気氏の氏寺神護国祚《うじでらじんごこくさ》真言寺といいましたが、天長年間(八二四~八三四)、弘法大師が住持してから神護寺とよばれるようになりました。その後、久しく荒廃しておりましたのを寿永元年(一一八二)、文覚上人が白河法皇や源頼朝の援助によって再興いたしました。建物のほとんどは江戸時代以降の再建ですが、大師堂は文覚上人の再建と伝えられ、国宝の薬師如来立像などの仏像も平安前期および鎌倉時代のものが多く、中でも銅鐘は古来より、音は三井寺(または妙心寺のつりがね)、形は宇治平等院、銘は神護寺と日本三名鐘の一つに数えられており国宝です。

 

 

   書道の上達を願うなら道風神社に。なぜ?

 

 道風神社。このお社は三蹟の一人小野道風を祭神としており、杉坂の産土神《うぶすながみ》で一名武明神《たけのみょうじん》ともいっております。

社伝に延喜二〇年(九二〇)の創建とあります。境内に不動明王を祀る明王堂や、どんな日照りにも枯れることがないという、道風水とよぶ池があり、書道の上達を願う人が硯の水に用いたと伝えます。

 

 

   五社明神の一つに山国神社(右京区)があります。他の四社とは?

 

山国神社(右京区)は、式内社に列せられ、山国一の宮とも称される古社です。

社伝によりますと、奈良時代後期の宝亀年間(七七〇~七八〇)の創建で、長和五年(一〇一六)三条天皇の祈願所となっています。その際春日神社(比賀江地区、ニの宮)、加茂神社(中江地区、三の宮)、御霊神社(比賀江地区、四の宮)、日吉神社(比賀江地区、五の宮)の四社をくわえて五社明神としました。

 

 

   幕末期、桑田郡山国郷(京北町)の郷士が結成した農兵隊を何とよぶか?

 

 幕末期、桑田郡山国郷(京北町)の郷士が結成した農兵隊を山国隊といいます。

明治元年(一八六八)一月十八日、山陰道鎮撫使総督の西園寺公望が義兵をつのると、郷士九十一人で山国隊を結成いたしました。隊名は岩倉具視の命名です。八十三人中六十三人の山国隊が西園寺にしたがいましたが、のち従軍をことわられ、江戸攻撃にくわわるため上洛し、請願して三十五名が因幡藩の軍に従って東征軍に加わりました。山国隊は関東、東北に転戦し、七名の戦死者をだしています。関東から官軍が凱旋するとき、錦の御旗を奉じて先導をつとめ、鼓笛隊が「宮さん宮さん」の歌を演奏しています。

明治二年二月十八月に帰郷、同三年春解散、同五年、戦死者慰霊のため(京北町辻清水谷)山国護国神社が建設されました。十月二十二日に京都市で行なわれる時代祭の先頭に立ち、鼓笛隊をつとめております。

 

   捕虜同然の生活など数奇な運命をたどり無範和尚を名乗った元天皇の名は?

 

 常照皇寺ゆかりの光厳天皇(一三一三~六四)は第九十代・後深草天皇の曽孫にあたり、後伏見天皇の第一皇子で持明院統の正嫡です。十四歳で後醍醐天皇の皇太子となりました。十九歳のとき北条高時におされて、北朝初代の天皇となりましたが、わずか一年九ケ月で、後醍醐天皇の建武の中興(一三三四・天皇政治の復活)をむかえ廃帝となりました。三年後に足利尊氏におされて、上皇として院政をとっていましたが、実権は尊氏・直義兄弟がにぎっていました。南北朝の内乱のさいとらわれ、五年間、捕虜同然の生活をおくり、この間出家し、禅号を無範和尚と名のりました。ゆるされて帰京後は戦死者の霊をとむらって各地を巡歴してまわりました。貞治元年(一三六二)ごろ、草庵をむすんで隠棲しておられましたが、二年後の貞治三年(一三六四)七月になくなられました。

この草庵の発展したのが常照皇寺で、開山は光厳天皇。天皇がなくなられたあと、二世清渓通徹《せいけいつうてつ》が天皇の菩提をとむらう本格的な禅寺といたしました。

戦国期には衰微していましたが、江戸時代に入って徳川秀忠が五〇石を寄進し、また朝廷の庇護も厚く、寺運は栄えてゆきました。

現在の堂宇は江戸中期以降のもので、鬱蒼と茂る杉や桧の樹木につつまれ、石段をのぼると勅額門、方丈、仏殿などがひっそりと建ちならんでいます。また、江戸後期の作庭という庭園も、丹波地方の名園に数えられています。寺宝も千手観音像、光厳法皇像、阿弥陀三尊像、後光厳天皇震翰、夢窓国師頂相や無準師範の墨跡などがあります。また、上皇が行脚に使用した、黒衣、袈裟や携帯物などが残されています。なお、庭には国の天然記念物に指定された九重桜をはじめ、桜の名木があります。

 

 

   遺体は尋常の茶毘のかたちをとらず、ひそかに裏山に骨をうめよ、遺言した天皇は?

 

 常照皇寺の裏山の中腹に、貞治三年(一三六四)七月、五十二歳でなくなられた光厳上皇を葬った山国陵があります。南北朝対立の悲劇と数奇な運命を一身におった上皇は、自分の死後は遺体は尋常の茶毘のかたちをとらず、ひそかに裏山に骨をうめよ、塚に草がはえ、木がはえ、雲がかかればもっともうれしいと遺言いたしました。塚の上には松・椿・かえでの樹をしるしとして植えてあります。また、光厳天皇の遺風をしたわれた後花園天皇も、後山国陵、後土御門天皇分骨所も御陵内に祀られています。

 

 

   白川女は旅人に花を与え茶を売った女性のことをいいます。そのスタイルは独特のものがあったようです。そのようなスタイルで花やお茶を売っていたのでしょう。

 

 紺木綿の着物に紺絣の三幅前だれ、着物のすそをからげ、白い腰巻と脚絆をつけ、白地に藍でそめた、白川と桜と菊の手ぬぐいを肩にかけ、藤原定家の歌をそめた手ぬぐいを姉さんかぶりにいたします。

紅たすきをかけ、箕に盛りあげた切り花を頭にのせているのが白川女のスタイルです。また、平安初期、三善清行(漢学者、菅原道真に辞職を勧告したことでも知られる)のすすめにより、里の娘が美しく装い、白川の里にさく切りたての草花を、禁裏に献上したと伝わっています。現在も地元の白川女風俗保存会に伝承され、十月二十二日の時代祭に「白川女花行列」が参列しています。

 

 

   近江平野は八百八水といい川の水は琵琶湖に流れこんでいるが、琵琶湖から流れて川になっている川は瀬田川だけです。その瀬田川には、歌で名高い瀬田の唐橋がかけられています。 誰のどんな歌ですか? 

 

淡海《おうみ》の海《み》 タ波干鳥  汝《な》が鳴けば

心も萎《しぬ》に 古思いにしえおもほゆ 

 

柿本人麻呂は、琵琶湖の風景をながめ、しみじみと近江朝廷時代の繁栄を思いおこし歌っています。

 

 

   琵琶湖は古代には、近き淡海とよんでいました。では遠き淡海はと呼ばれていたのはどこで何と言う湖しょう?

 

 琵琶湖は断層が陥没してできた淡水湖で、面積が六七三平方メートル、周囲二三〇キロにおよぶ我国第一の湖で滋賀県の全面積の六分の一にあたります。

いまから五十万年前には伊吹山や比良、比叡の山の麓まで、つまり今の近江盆地のほとんどが水面でした。その後はだんだんと水が引き七、八千年前には、今より小さくなっていたのです。

このような関係で、湖底から古代の遺物が出土したり、かなり高い山岳地帯に農耕の遺跡が発見されたりしています。古代には淡海《あわうみ》、つまり淡水《あわみず》の湖とよばれ、東の浜名湖を遠き淡海、この琵琶湖を近き淡海ともよびました。その何れも呼び方がだんだんつまって、遠き淡海を遠江《とおとみ》、近き淡海を近江《おうみ》とするようになったのです。そして、それがいずれも国の名になりました。近き淡海が琵琶湖とよばれるようになったのは室町時代からといわれ、その形が琵琶に似ていることから名づけられたとされています。また、水鳥のかいつぶりが多くすむところから、かいつぶりの別名「鳰《にお》の海」ともいいます。

 

鳰の海や  月の光の  うつろえば

            浪の花にも  秋はみえけり

 

と新古今集の中に藤原家隆もよんでいます。

 

 

   千日回峰行は荒行で有名です。七年間に全行程何キロを走ることになりますか?

 

 回峰行というのは、比叡山中の二六〇ケ所の諸仏を礼拝して回る修行で、相応和尚(円仁の弟子、無動寺を創建)が始めた修行法です。一年目から三年目までは毎年百日ずつ、四年目と五年目は三月末から二百日ずつの回峰を行ないます。そして七百日の満行で九日間の断食、断水、不眠不臥の「堂入り行」を行ないます。その後、二年間に百日の間、毎日六〇キロを踏破する「赤山《せきざん》苦行」や、百日間で京都市街をめぐる「大廻り行」を行ない、ふたたび比叡山を百日回って大行満行者となるのです。これは、七年間に千日行を完了するもので、その間はどんな理由があっても行を中止することができない決まりになっていて、荒行といわれるゆえんです。全行程は四万キロメートル、地球を一周する距離です。

 

 

●清水寺の音羽の滝から山麓にそって、南の清閑寺へ行く道を、「歌の中山」といいます。

「歌の中山」といわれる由来は?

 

その昔、清閑寺に住む真燕というお坊さんが、あるタ方、門の外を通る大変美しい女性に心を動かし、清水への道を尋ねてみると、その女性は

 

見るにだに  まよう心の  はかなくて

まことの道を いかでしるべき

 

と僧の煩悩をいさめる歌を一首残して、姿を消したと言われております。真燕はこの後、一生懸命修行に励んだと伝えます。