旅先の歴史ものがたり・東京

 

東京には、知られざる物語があります。



町や村などの成り立ち、


その町や村にこそ他の地域には見られない物語があります。


「面白い感動話」「歴史や伝統」「男の女の哀しい物語」


「地域ならではの温泉の由来」「歴史的な神社仏閣」


「歴史上活躍した人物の横顔」「哀れな城跡や址」


「町や村、施設の命名縁起」「東京ならではの特産物」


「国指定の国宝・重要文化財」など。


 
旅に出たら、単なる物見遊山ではなく、こうした東京を代表する人間物語


を訪ねてみたいものです。


旅のその先に……新しい発見が。


それこそが「旅の醍醐味」ではないでしょうか。

 

 

皇居二重橋.jpg

 

皇居 二重橋

 

マッチングサイトをオープン(仮)しました。
仮とはいえ本格的に稼働しています。
 
経営者・個人事業主やシニア起業者の投稿をお待ちしております。
(いずれも姉妹サイトです)
 
 

 

東京港 十九の埠頭

東京港は東京の海の玄関口であり、国際的にも重要な貿易港です。この東京港が出来るまでは、横浜港が中心でしたが、

東京の坂

東京には四百三十三の坂があるといわれます。そのうち、江戸時代に名づけられた坂が三百余りあり、一つの坂に二つ

武蔵七党

武蔵七党とは、平安時代後期から鎌倉時代にわたって武蔵国を本拠地にした七つの豪族の事です。党とは、血のつな

鎌倉街道

鎌倉幕府はなやかなりし頃、信越や北国地方から鎌倉に至る街道でした。軍事的にも経済的にも大変重要な役割を果し

川越街道

川越街道は、江戸と川越を結んで作られた道で、現在国道二五四号線と呼ばれております。その当時の川越は、軍事上にも、

大山道  

国道二四六号線のもとをなす道は、室町時代に聞かれた矢倉沢街道でした。矢倉沢街道は、現在の国道二四六号線と同じく秦野市

中原街道

古くは中原往還と呼ばれ、東海道が整備されるまではこの道が主要街道でした。江戸の虎の門から三田、馬込を通り丸子の渡しで多摩川を

昭島クジラ  昭島市

私達が武蔵野、とよんでいる所は、今から五百万年も前には、東京湾の海の底でした。その頃の東京湾は、今の筑波山麓から、奥多摩の

狐塚 笛姫の哀話  昭島市

拝島駅の近くにある狐塚は、八王子の滝山城主・北条氏照の愛人・笛姫のお墓と言われ、周囲十メートルあります。奥多摩の二俣尾に

大日如来  昭島市

昔は松原村と呼ばれました。今から一千年以上前の昔、この地方は大洪水の為に、被害をうけました。しかし、この松原村だけはその難を

おねいの井戸  昭島市

本覚院元三大師堂(拝島大師)の境内に「おねいの井戸」があります。滝山城主、北条氏照の重臣石川土佐守の娘が眼の病にかかって見え

拝島大師 だるま市  昭島市

正しくは、本覚院元三大師堂といいます。天暦六年(九五二)、多摩川が大洪水をおこしたとき、桧原村の大日如来がながれてきました。村

大日堂 拝島のフジ  昭島市

拝島大師と道をへだてた所に大日堂があります。大日堂は、拝島の地名の由来となった大日如来像をおまつりしたのがはじまりと伝えられます。

秋川渓谷  あきる野市

秋川のアキはアイヌ語で「弟」という意味で、多摩川の支流では最も大きな川ですから、まさしく多摩川の弟になる川です。秋川渓谷は、多摩川

草花丘陵 石器時代の住居跡  あきる野市

JR・青梅線の福生駅から、大澄山-月待山ー浅間嶺-満地峠の道をたどりますと青梅線の小作駅に出ます。このコースの途中には、石器

網代温泉  あきる野市

弁天山(三三一)の東麓に網代温泉があります。網代温泉は「新編武蔵風土記稿」にみられる古い温泉です。秋川渓谷の静かな山あいに

秋留台地・大塚古墳  あきる野市

東西八キロメートル、南北四キロメートルのき広大な秋留台地は、古代「小川の牧」と言われ奈良時代の官牧だった所で、台地から発掘された

阿伎留神社  あきる野市

延喜式の阿技留神社です。御祭神は大物主神で、源頼朝や、足利尊氏などの武将の崇敬が厚かったと伝えられております。毎年、九月に

伊奈  あきる野市

江戸城築城に当たって信州伊那から動員された石工達が住んでいた所です。江戸時代を通じて伊奈の石工が作る石臼はとても有名

平将門の居城  あきる野市

鳩の巣渓谷の向う岸にそび聳える山を城山といいます。承平の昔(千年前)、平将門の居城があったと伝えられる山です。将門が相馬

戸倉城跡  あきる野市

城山高さ(四三四メートル)には戦国時代、秋川流域一帯に勢力を持っていた小宮憲明の築いた戸倉城がありました。後に滝山城主

二宮神社  あきる野市

平安時代の中頃、武蔵守、藤原秀郷によって創建されたと伝えられております。府中市にある大国魂神社の二宮の本社にあたる

3つの鍾乳洞  あきる野市

1.養沢鍾乳洞:養沢川源流部にあります。全長は一○○メートル足らずで規模は小さいのですが、乳石洞、地獄沢、暗闇梯子などと

大悲願寺 伊達政宗  あきる野市

真言宗の金色山大悲願寺です。鎌倉時代のはじめ、平山城主・平山季重が源頼朝の命によって建立した古いお寺です。元禄年間

安藤広重のお墓  足立区

竹の塚駅裏手の東岳寺に安藤広重のお墓があります。安藤広重は江戸後期の浮世絵師で、江戸名所図絵や京都名所、木曽街道

千住  足立区

「愛相よき 千住女郎衆に 袖ひかれ わらじとくとく 泊る旅人」古い歌にも詠まれる千住は、徳川時代の江戸四宿の一つとして栄えた

奥州街道   足立区

江戸と現在の青森県を結んだ奥州街道は、江戸五街道の中でも長い遠のりの街道でした。現在の東京都足立区千住に置かれた千住宿                   

千住大橋  足立区

隅田川十四大橋の一番上流に架けられる橋です。こ上に始めて橋が架けられたのは、今から四百年以上も前の文禄三年

西新井大師  足立区

今から一二○○年以上前の天長三年(八二六)東国を巡錫した弘法大師が夢のお告げにより、この地に自ら彫った十一面観世音

炎天寺  足立区

六月町とは一寸変った町の名ですが、これについて次のようなお話しがあります。今から九三○年前の天喜年間に、源頼義、義家

炎天寺と小林一茶  足立区

「やせ蛙 負けるな一茶これにあり」小林一茶は、しばしばこの炎天寺をおとずれ、多くの句を詠んでおります。「やせ蛙…」の句の

三河島駅事故慰霊碑  荒川区

こちらには三河島の名主・松本市兵衛のお墓があります。又、境内には「三河島駅事故慰霊碑」があります。これは昭和三十七年

清滝山観音寺   荒川区

江戸時代には「鶴の飼育場」がありました為に、寛政一〇年(一七九八)、十一代将軍家斉が鶴を見にきて、このお寺に御膳所を

尾久  荒川区

東京の山の手台地と低湿地の下町との境に広けた所で、昔から家具、鉛筆、自転車、既製服皮の工場など、町工場の密集する

円通寺  荒川区

慶応四年(一八六八)五月一五日、上野の山にたてこもる幕府の彰義隊と、これを攻める官軍との戦いを上野戦争と申しますが、この戦

遊女投げ込み  浄閑寺 荒川区

浄土宗のお寺で、俗に投げ込み寺とよばれます。近くにあった吉原遊廓の遊女が亡くなり、身寄や引取る人の無い場合に、このお寺に

ねずみ小僧次郎吉の墓  荒川区

今から三百五十年ほど前の寛文七年(一六六七)に両国回向院の別院として建てられ、受刑者や牢死者の回向を行っておりました。

小塚原の刑場  荒川区

小塚原は、東海道の鈴ケ森とともに、江戸の二大刑場として恐れられ、明治の初めに廃止される迄、ここで処刑された人はおよそ

奥の細道旅立ちの碑  荒川区

素盞雄神社(すさのおじんじゃ)の境内には、俳人。松尾芭蕉の「奥の細道旅立ちの碑」があります。元禄二年弥生も末の七日、

板橋区 地名由来

板橋は、中山道六十九次の第一番目の宿場町でした。板橋宿は、上宿、中宿、平尾宿の三つにわかれ、中宿には大名の本陣が

軍道紙  あきる野市

時がたつ程白くて丈夫になるといわれる軍道紙は、手すきの和紙で、七百年以上前に山梨県から伝えられたといわれます。原料は

寒山寺 中国の蘇州  青梅市

昔、田中らいしょうが中国の蘇州にある寒山寺に弟子入りをして、長い修業ののち、日本に帰国する折、寺の仏像を戴いて帰国しま

 

 

 

 

平将門の首塚.jpg

 

平将門の首塚 

 

松月院  板橋区

松月院は、戦国の世、下総の豪族千葉白胤(よりたね)が、この地の赤塚城に移住した際、菩提寺として創建されたお寺です。この松月

近藤勇と土方歳三の追悼碑  板橋区

板橋駅の近くには、板橋刑場跡があり近藤勇と土方歳三の供養碑があります。幕末の京都において、勤皇の志士達におそれられた近藤

城北中央公園  板橋区

園内に昭和三十年、立教大学の運動場を建設する際、先土器時代から奈良時代の遺跡が発掘されました。発見されたものには

志村城址  板橋区

このお城は千葉氏一族の千葉隠岐守の居城でしたが、四百三十年前の大永四年に太田道灌に攻められて落城し、千葉氏一族は

志村の一里塚   板橋区

中仙道をはさんで、左右に相対する二つの塚がありますが、日本橋から三里目の志村一里塚です。お江戸日本橋を起点としました中仙

徳丸ケ原  板橋区

徳丸ヶ原は、三園、高島平、西台の低地部にひらける、広大な荒川沖積平野の総称で、明治の頃は、東京の米どこでした。徳丸ヶ原

石神井川 名の由来  板橋区

この川は、田柄川(田無用水)の南から始まり、三宝寺池の水を合わせて練馬、板橋、北区などをうるおし、荒川に流れそそいで  

舟渡  板橋区

荒川はもとは大変屈曲の多い川で、いったん増水しますと、すぐ氾濫してしまいます。それで明治の末に曲った川をまっすぐにする

新河岸川(志村橋)  板橋区

新河岸川は、川越の伊佐沼から流れて来た小川を松平伊豆守信綱が、改修して船の通うようにいたしたものす。川越から、江戸へ早船

板橋宿  板橋区

板橋はお江戸日本橋から二里(八キロのところにあたり、中仙道六十九次最初の宿場で、千住、品川、新宿と共に江戸四宿の一つ

縁切榎  板橋区

現在は枯木があるのみですが、今もこれに祈りますと縁が切れるという信仰が続いており、新しい絵馬も常に掲げられております。この木

下頭橋 名の由来  板橋区

旧川越街道には石神井川を渡る下頭橋があります。今でこそコンクリートの橋ですが、寛政一○年に江戸周辺で初めて架けられた石橋

瓦谷戸の窯跡  稲城市

瓦谷戸と呼ばれる一帯は、おびただしい数の瓦や摶(せん)が発見された所です。それらはいずれも武蔵国分寺跡から出土したものと

孝子面の話  稲城市

孝子面と呼ばれる田圃があり、孝行息子・長五郎の話が残されます。この話は江戸時代の中頃の事です。長五郎が七つになったある雨

葛西の華麗な歴史と没落  江戸川区

葛西は大変古い歴史を持ち、平安の昔、下総の国葛飾郡にあって、江戸川を境に葛東と葛西とに分けられていました。鎌倉時代には

大雲寺 歌舞伎役者の墓  江戸川区

今から三八○年以上前の元和五年に梵誉上人が創建され、大正十二年の関東大震災後、昭和六年にただ今の所に移りました。境内

名主屋敷  江戸川区

名主屋敷は一之江新田の開拓者で、元禄の頃から代々名主を勤めた田島家の住宅です。約二万四、○○○平方メートルの広い屋敷

松本弁天 弘法大師作  江戸川区

貞享元年(一六八四)、寿昌尼が庵室を建て、天海道龍を開山に迎えて創建したと伝えられます。弁天堂には弘法大師作と伝えられ

三田綱秀 将門の後喬  青梅市

平将門の後喬といわれる三田氏は、杣保(そまほ)と呼ばれていた多摩川上流一帯を領有していた豪族です。戦国時代に小田原の北条氏

金剛寺 平将門  青梅市

金剛寺は、承平年間(九三一~三八)に、平将門が開基したと伝えられます。重要文化財の仏画をはじめ、宝物が多く、境内には「将門誓

青梅市新町  

青梅市の東玄関にあたり、武蔵野の新田開発集落の一つです。青梅市新町は、徳川幕府が行った新田開発より前に開発された所で

鈴法寺跡 虚無僧  青梅市

鈴法寺跡は東京都の旧跡に指定されております。鈴法寺は、全国でも珍らしい普化宗のお寺で、新町を開発した名主・吉野織部之助が

御岳神社  国宝多数  青梅市

昔は、御岳大権現と呼ばれ約二千年前の崇神天皇七年の創建と伝えられます。御祭神は櫛真知命(くしまちのみこと)です。ただいまの

裏宿 村の端 青梅市

青梅街道第一の青梅の宿が東西に発展して東を新宿(にいじゅく)、西を裏宿というようになりました。「新編武蔵風土記」によりますと

怪盗・裏宿七兵衛旧跡  青梅市

児童公園が、怪盗・裏宿七兵衛の屋敷跡です。中里介山の名著「大菩薩峠」によって天下にその名を知られたのが、裏宿七兵衛です。その

多摩川  青梅市

多摩川は都民一二○○万人の生命をあずかる飲料水を供給する流れですが、同時に四季を通じてすぐれたレクリエーションエリアでも

岩割の梅 悲恋の梅  青梅市

岩割の梅(八雲神社の奥)は、その名の如く、岩を割わって梅の木が育ち、別名を「悲恋の梅」とも呼んでおります。この梅のいわれには

吉野梅郷   青梅市

吉野梅郷は、東京近郊でも随一の梅の名所として知られています。その歴史は古く、平安時代の中期、金剛寺の”将門誓いの梅”を

親木の梅  青梅市

親木の梅は、金剛寺の「将門誓いの梅」を根分けした老木です。樹令はおよそ六五○年余りで、吉野の梅の元祖といわれております。

軍畑  青梅市

戦国の世の三田、北条両軍の古戦場跡で青梅線の軍畑駅近くには、戦死した兵士や、具足を集めて葬った鎧塚があります。

辛垣城址  青梅市

三田氏最後の城となった辛垣城がありました。永禄六年三月に滝山城主北条氏照の攻撃を受け、綱秀はこの城を最後の拠点しこして

海禅寺  青梅市

海禅寺は、寛正年間(一四六○~六六)に、「一州正伊和尚」がひらいた寺で、後に三田綱秀が再興いたしました。この再興の折に

玉堂美術館  青梅市

玉堂美術館は、近代日本画の巨匠、川合玉堂の画業をたたえて昭和三十六年五月彼ゆかりのこの地に開館しました。館内には、

御岳山 日本三岳  青梅市

武州御岳山は、日本三岳の一つとして広く知られており、古い昔から信仰の山として栄え関東一円にたくさんの信徒をもっております。

吉川英治記念館  青梅市

吉川英治記念館は、故吉川英治氏の偉業をしのび、新しい世代に吉川文学を語り継ぐ為に、昭和五十二年彼の愛して止まなかったこの地に

即清寺 源頼朝  青梅市

天慶年間に創建された真言宗のお寺で、正式には愛宕山明王院即清寺といいます。本尊は智証大師の作と伝えられる不空羂索

池上本門寺  大田区

文永十一年(一二七四)、池上宗仲が日蓮に帰依して家、土地を寄進し、日蓮が長栄山大国院となづけて開いたお寺です。弘安五年

光明寺 雷留観音  大田区

光明寺は天平年間(七二九~四九)に行基菩薩がおひらきになられた後に弘法大師が再興したと伝えられます。延文三年に足利氏に

梅屋敷公園  大田区

江戸時代には梅林が三千坪(九九○○平方メ-トル)におよび、広重の「江戸名所百景」にもえがかれた、梅の名所として人々に親しまれて

善慶寺・義民 六名のお墓  大田区 

このお寺には江戸の昔、名もない農民達の苦しみを見て立ち上がり、そのために犠牲となった六名のお墓が残されております。四代将軍

 

吉野梅郷.jpg

 

吉野梅郷

 

頓兵衛地蔵  大田区

新田義興ゆかりの頓兵衛地蔵です。南北朝の昔、鎌倉へ向う新田義興が矢口の渡し舟に乗った時の船頭が頓兵衛でした。足利

歌舞伎「神霊矢口渡」  大田区

浄瑠璃や歌舞伎でおなじみの、福内鬼外(平賀源内)作「神霊矢口渡」は、多摩川にむかしあった、「矢口渡し」を舞台にしています。

亀甲山古墳  大田区

亀甲山古墳は長さ一○○メートルの前方後円墳で、都内では最大のものです。古墳時代中期の築造と推定され、武蔵国造の墓と

新六郷橋  大田区

慶長五年(一六○○)、徳川家康は江戸への交通の便をよくするために、ここに橋をかけました。これは六郷大橋とよばれ、千住、

六郷神社  大田区

かつて、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の別宮として、六郷八幡宮といわれていました。源頼朝が安房から鎌倉へはいるとき、ここに集結して

洗足池・名の由来  大田区

この池は、いつごろ出来たかは明らかではありませんが、武蔵野台地の地下水が湧き出て、くぼ地にたまつたものといわれております。

磨墨塚の碑 馬の産地  大田区

馬込という地名は牧場に関係があります。鎌倉時代には文京区駒込や目黒の駒沢、世田谷の駒場などと共に、関東における馬の産地

新田神社  大田区

新田義興は鎌倉幕府を倒した新田義貞の二男で、南朝に味方して越後(新潟県)で活躍しておりました。正平十三年(一三五八)十月

大塚古墳  大田区

この付近(大田区)には大小の古墳がたくさんあります。大塚古墳は、直径三○メートルもある円墳です。出土品には、鏡や直刀

つね泣き峠の伝説  奥多摩

川野部落・香蘭橋を通り、左沢を登ったところがつね泣き峠です。この峠には、おつねの泣き坂という伝説があります。今でも大変な急坂

青砥・伝説  葛飾区

青砥は鎌倉時代の武将・青砥左ヱ門尉藤綱の館があった所で、この名があります。藤綱と云えば鎌倉の滑川に銭を落した話しで

玄恵井の碑  葛飾区

その昔、この辺り一帯は佐原の香取神宮の神領地でその末社として、建治二年にこちらの香取神社が創建されました。境内にはこ

柴又帝釈天  葛飾区

今から、二百八十年以上前に建てられた、経栄山題経寺というお寺です。御本尊に日蓮上人が自分できざんだという、帝釈天の像が

正福寺・小松菜の由来   葛飾区

お寺の伝えによりますと、奈良時代に行基菩薩が夢のお告げによってこの地に寺を建立したといわれます。その後の治承四年に源氏

南蔵院しばられ地蔵の話  葛飾区

金町には、。講談等でおなじみの”大岡さばき”の一つ、地蔵裁判で有名なお話があります。昔、江戸本所の中之郷という、田畑が続く

堀切菖蒲園  葛飾区

今から二○○年以上前の文化年間に、開かれたもので、入谷の朝顔、亀戸の藤等と共に、江戸の花どころの一つとされていました。

静勝寺(稲付城跡) 北区

太田道灌ゆかりの静勝寺です。静勝寺は戦国の昔、太田道灌が築いた稲付城跡で、江戸城と岩槻城を結ぶ中継の役割をなしてい

飛鳥山 佐久間象山  北区

飛鳥山は、かって豊島氏がこちらに飛鳥明神をおまつりしたのが始めです。江戸時代になってからこの飛鳥明神は、近くの王子神社の

滝野川銀座  北区

町並は、江戸時代の建築様式と現代の商店建築の様式が入り乱れて、新旧の対象が面白くみられます。そこにある三軒屋は非常に

近藤勇の墓  北区

板橋駅近く旧中仙道ぞいに近藤勇のお墓があります。近藤勇は、幕末における佐幕派の志士で、初め将軍徳川家茂が京都に上る

谷保天満宮  国立市

今から千年以上前に建てられた古いお社で、御祭神は学問の神様、菅原道真です。九州の太宰府に流されの身となった日、庭の片隅に今を

塩浜 古積塩  江東区

このあたりは江戸時代、江戸川の河港としてにぎわったところで、塩の良くとれたところであり、この塩は「古積塩」の名で知られ、東京湾

亀戸天神 うそ替え神事  江東区

学問の神様・菅原道真を祀っており、今から三百五十年前の寛文二年(一六六二)に、この地に社殿が造営されました。昔から梅と藤の花が

新木場  江東区

材木問屋街の新木場です。木場とは、徳川時代から江戸の深川に置かれた材木問屋街の町名で、江戸の発展に大きな役割をはたした

第五福竜丸展示館  江東区

第五福竜丸は静岡県焼津港の漁船で、マグロ漁の遠洋航海に出たのですが、昭和二十九年三月に南太平洋のビキ二環礁で操業中、アメリカ

小金井堤の桜  小金井市

江戸の中頃、幕府の命によって、新田開発の世話役をした川崎平右衛門定孝が、常陸や大和から数千本の山桜の苗木をとり寄せて植えた

小金井公園  小金井市

小金井公園は、昭和十五年、皇紀二千六百年記念事業の一つとして開園された自然公園です。武蔵野の面影を色濃くとどめる園内には

恋ケ窪の哀話  国分寺市

ここは鎌倉街道の宿場町として栄えた所です。鎌倉時代の昔、ここに遊んだ源氏の武将・畠山重忠は、夙妻太夫(あさずまたゆう)という美し

国分寺市の歴史

国分寺市の歴史は古く、文化財の宝庫と云うべき所です。市の南部には、高さ十二メートル程の国分寺崖線、いわゆる”ハヶ”と呼ばれる

武蔵国分寺跡  国分寺市

かって府中街道を中心にこの辺り一帯に壮大きわまりない武蔵国分寺がありました。道をはさんで左が僧寺で右が尼寺でした。国分寺は

最勝院国分寺  国分寺市

武蔵国分寺跡の北寄りにある現在の国分寺は、元弘の乱の兵火で焼失した後の建武二年に新田義貞によって再興されたといわれます。

お鷹の道   国分寺市

国分寺の前は清流と小径が整備されていますが、地元の人々は”お鷹の道”と呼んでいます。江戸の始め頃からこの辺りの村々は尾

真姿の池 美人・玉造小町  国分寺市

お鷹の道に沿って流れる小川の水源が近くの真姿の池です。嘉祥元年(八四八)、一世美人とうわさされた玉造小町がライ病を病んで苦しみ

殿ケ谷戸庭園  国分寺市

殿ヶ谷戸庭園は、大正二年、当時の満州鉄道副総裁・江口氏の庭園、として作られました。その後、三菱の岩崎氏の別邸となり、昭和四十九

小川九郎兵衛  小平市

明暦三年今の武蔵村山市出身の小川九郎兵衛によって開拓が始められ、乾ききった土地は、見る見るうちに潤され、多くの新田村が

鈴木遺跡  小平市

鈴木遺跡は、今から二万七千年程前の武蔵野台地最大の旧石器時代の遺跡です。昭和四十九年から本格的な発掘調査が行なわれ、黒曜石

武蔵国の豪族の戦い 裏切り

武蔵国の言われには、このようなお話しが残されています。今から一五○○年以上も前に、今の東京の狛江市辺りに胸刺族という豪族  

タケノコの記念碑  品川区

星薬科大学の裏手には珍しいタケノコの記念碑があります。この辺りは大正の頃まで耕地の四分の三が竹やぶで、タケノコの名産地でした

大森貝塚遺跡  品川区

我国最初の縄文式土器の発見地、大森の貝塚です。この貝塚を発見致しましたのは、アメリカの動物学者、人類学者であったエドワード・エス

立会川   品川区

川のほとりで、鈴ケ森の役人と、小伝馬町の役人が、罪人引渡しのため、川をはさんで立合ったものでした。旧道には、泊橋が残ってお

 

亀戸天神.jpg

 

亀戸天神 

 

八つ山・御殿山  品川区

江戸時代には八つ重なった丘があり、桜の名所として知られました。明治五年、新橋・横浜間に初めて汽車が走った時は、この八つ山は

東海寺 沢庵和尚  品川区

寛永十五年(一六一三八)三代将軍家光が、沢庵宗彭のためにつくった禅刹、東海寺です。沢庵寂後も、幕府や諸大名の庇護をうけ、塔頭十

品川神社 板垣退助  品川区

品川宿の鎮守社として親しまれてきた、品川神社です。石造鳥居は、都内では上野東照宮のそれにつぐ古いものです。治承四年(一一八○)

伊藤博文の墓   品川区

長州藩の貧農の家に生まれた伊藤博文は、吉田松陰の松下村塾に学び、のちに討幕運動に活躍し、やがてわが国初代の首相をつとめるまで

旗の台 地名由来  品川区

今から一、○○○年以上前に、上総、下総地方で平忠常が反乱をおこしました。これを鎮めるため朝廷から派遣されたのが源頼信です。源頼信は

船の科学館  品川区

白い大きな船をまねた建物が船の科学館です。東京湾の十三号埋立地に、昭和四十九年七月二十日に一般公開されました。中央の高い塔

鈴ケ森刑場  品川区

千住の小塚原刑場とともに、江戸の「両御仕置場」と称されていました。ここでは磔、火罪(火あぶり)の刑を執行し、獄門刑の梟示(さらし首

海晏寺 鮫洲の由来   品川区

千貫楓の名でよばれ、俗謡に「あれ見やしやんせ海晏寺ままよたつたの 高尾でも、及びないぞえ紅葉狩」とうたわれたほどの紅葉も、いま

戸越公園  品川区

池泉回遊式庭園です。江戸時代、肥後の国熊本藩主細川家の屋敷につくられた庭園で、明治になってからかなり手が加えられてしまいまし

渋谷 地名由来  渋谷区

渋谷の地名は、平安末期から鎌倉時代にかけて桓武平氏の流れをくむ渋谷氏の領地で、この名があります。戦国の世は、北条氏の支配する

忠犬ハチ公  渋谷区

渋谷駅前広場には忠犬ハチ公の像があります。ハチ公は秋田犬で、渋谷の松濤町に住む東大教授・上野英三郎氏の飼犬でした。毎日、主人を

道玄坂  渋谷区

道玄坂辺りの変身はめざましく、今でこそ都会的な賑わいを見せていますが、大正の頃まではわずかな農家が並ぶ一面の畑でした。この道玄

代々木公園 日本航空発祥  渋谷区

代々木公園は、東京オリンピックの時に選手村となった所で、面積は五五万平方メートルあり、都内では新宿御苑に次ぐ広さです。園内に

二・二六事件慰霊碑  渋谷区

昭和十一年二月二十六日、日本陸軍の若手将校達が、国の政治のあり方に不満を持ち、クーデターをおこしました。そして、各大臣の官邸を襲撃

松濤町  渋谷区

有名な忠犬ハチ公も、やさしい主人と一緒にこの松濤町に住んでいました。江戸時代、この辺り一帯は紀州徳川家の下屋敷でした。松濤公園には

東郷神社  渋谷区

日露戦争に活躍した東郷元帥をお祀りしております。東郷元帥は海軍の軍人で、明治三十七年・八年の日路戦争に海軍司令官として偉大な

タテ穴式住居跡  渋谷区

昭和二五年の秋、三千年程前の人々が住んでいたといわれる、タテ穴式住居跡が発見されました。八幡宮のありますこの丘は、北方に広がる幡ケ谷

明治神宮   渋谷区

明治神官は、明治天皇と昭憲皇太后の御二柱がお祀りされております。明治天皇は、明治四十五年七月三十日、御年六十一歳をもっておか

大聖寺 太田道灌と紅皿  新宿区

このお寺には、太田道灌の歌相手・紅皿のお墓があります。戦国時代の応仁の頃(一四六八年)、京都で細川氏と山名氏の合戦がありました時に、

聖徳記念絵画館  新宿区

聖徳記念絵画館には明治天皇と昭憲皇太后の第一代の出来ごとを画いた、八十枚の絵が展示されております。

明治神宮外苑  新宿区

明治神宮外苑は、スポーツの森として知られ、国立競技場を始め、野球場、体育館、プール、秩父宮記念ラグビー場、テニスコートなど各種競技

青梅街道  新宿区から

青梅街道は江戸と青梅を結んだ道で、青梅は古くから石灰の産地でした。これに目を付けた徳川家康は江戸城の修築に使う石灰を青梅から運ぶため

お岩稲荷  新宿区

お岩稲荷(長照山陽運寺)があります。昔は、御先同心の田宮家の邸があったといわれ その家の婿が女性問題で狂死したといいます。その話を

新宿 地名由来

新宿は、甲州街道の宿場町としてひらかれたのがその始まりです。徳川幕府が甲州街道を整備した頃は、高井戸が宿場町でしたが日本橋から

天竜寺 時の鐘  新宿区

この天竜寺は昔、天竜川の近くの小笠郡西郷村(今の掛川市)にありましたが、徳川家康の命により牛込に移され、天和年間(一六八一~一

花園神社  新宿区

新宿一帯の繁華街の守り神として知られております。花園神社は尾張徳川家の下屋敷、戸山ケ原の花園にまつられていた三光稲荷を、

淀橋の伝説  新宿区と中野区の境

新宿区と中野区の境界を流れている神田上水は我国最初の上水道とされております。この淀橋にはこんな伝説が残されております。五八○年

戸山町  新宿区

江戸時代は尾張の藩主、徳川家二代光友の創設した戸山園という下屋敷のあった所です。この戸山園は、水戸徳川家の後楽園と共に知られた

新宿御苑   新宿区

ここはもと、信州高遠の藩主・内藤駿河守の下屋敷でした。明治になって、皇室の園遊会場となりましたが、只今は一般に公開され都内の名園の

目白学園・古代人の住居跡  新宿区

この校庭には昭和二十七年に発見された、古代人の住居跡があります。ここの特徴は、古く縄文時代以前(一万年前)から弥生時代を経て、古墳

島崎藤村旧居跡  新宿区

藤村は明治三十八年に信州小諸から出て参りまして、坂本定吉の屋敷(西大久保)に住んでいました。この西大久保に住んでいる時に、最初の

面影橋 太田道灌  新宿区

面影橋のたもとに「山吹の里」の碑があります。太田道灌が狩りの途中、にわか雨に逢い雨具を借りようと一軒の家に立ち寄りましたとこ

大木戸跡の碑  新宿区

大木戸とは江戸時代に江戸城内と城外の境に番所を置き、通行人を取りしらべた所のことです。この四ッ谷大木戸は、甲州街道筋に置かれた

観泉寺 今川氏累代の墓  杉並区

今川氏の菩提寺です。江戸の昔、このあたりは今川氏の領地で慶長二年、、戦国大名の今川義元の子氏真によって建立されました。寺宝に

樋口一葉・九条武子のお墓  杉並区

「たけくらべ」「にごりえ」の作者、樋口一葉の墓が築地本願寺の和田堀廟所にあります。「おおきなるものの力に引かれてゆくわが足もとの

荻窪  杉並区

荻窪の地名は文字通り、この辺り一帯がオギの生えた窪地だった事に由来しています。又、鎌倉時代に行者が野原の荻を集めて堂を作りそ

中道寺  杉並区

中道寺は安房小湊の(千葉県)の誕生寺の末寺で、御本尊は日蓮木像です。お寺には鐘楼と山門を兼ねた珍しい鐘楼門があります。

光明院  荻窪の名の由来   杉並区

一名を荻寺といわれ、荻窪の名の由来となったお話があります。鎌倉時代の昔、ある行者が観音菩薩像を背負ってこのあたりを通りかかりました

荻窪囃子  杉並区

古くから伝えられる荻窪ばやしは、上荻窪の八幡神社に奉納されるおはやしです。昔から各地の神社の祭典にはいつも里神楽が奉納

医王寺  杉並区

お寺には南北朝時代の作と伝えられる薬師如来像があります。この薬師如来は目の病に霊験あらたかで、目のお薬師様と呼ばれて、庶民

 

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忠犬ハチ公 

 

高円寺 三代将軍家光  杉並区

お寺の創建は四五○年以上前の弘治元年と伝えられます。これまでに四回の火災にあい、残念ながら寺宝や古文書類は全て焼失

井伏鱒二  杉並区

井伏は昭和の初期から東京府下の下井草(現杉並区清水)に住まい、その近辺をこよなく愛して来ました。井伏鱒二は明治三十一年

妙正寺 三代将軍家光  杉並区

文和元年、下総中山の法華経寺第三世の日祐によって創建されました。江戸時代には三代将軍家光が、武運長久を祈って葵紋幕

遅野井  杉並区 

善福寺池の南丘陵の麓に「オソノ井」と呼ぶ泉が湧いております。伝説によりますと、文治五年八月のこと、源頼朝が奥州征伐に

井草八幡宮 山岡鉄舟  杉並区

一ノ鳥居は嘉永四年の建立で、金文字の額は山岡鉄舟の筆になるものです。本殿前に懐古の調べを奏でている老松は、源頼朝

高井戸 宿場   杉並区

徳川時代、高井戸に内藤新宿が設けられるまで、甲州街道の第一の宿場が置かれた所です。その当時、この高井戸は日本橋

東運寺 安寿姫と厨子王  杉並区

お寺の本堂の屋根に大きな釜が乗っており、一般に釜寺の名で親しまれました。この釜の由来には次のようなお話があります。

妙法寺  杉並区

妙法寺は、江戸の初期にそれまでの尼寺を目黒の円融寺の末寺として創建されたものです。本尊は日蓮上人の木像で、師孝第

隅田川 十四橋  墨田区

東京の下町を代表する川と言えは、それは何と言ってもこの隅田川でしょう。遠く平安の昔から歌に詠まれ詩にうたわれ、文学に綴

隅田川橋ずくし  墨田区

十四橋が文の中に入っています。細々と奥の細道たどる芭蕉や干住大橋、願かかけて祈る心の白髪橋、都鳥こと問う橋や吾妻な

吾嬬神社  墨田区

日本武尊の妃・弟橘媛(おとたちばなひめ)が荒波をしずめて尊(みこと)の命を守ろうとして、三浦半島の走水(現在の横須賀市)

旧寺島  墨田区

墨田区から江東区にかけて、寺島、向島、柳島といった島という字のつく地名が多くありましたが、今の東京湾がこの辺りまで入り込

向島百花園  墨田区

文化年間、佐原菊鵜という人が、梅の木を植えたのが始まりで、その後、梅ばかりでなく、いろいろな木を集めて、文字通り百花園となりました。

酒井抱一、谷文晃   墨田区

江戸文化華やかな頃、多くの風流人が訪れ一名を「花屋敷」とよばれて、「堀切のしょうぶ園」とともに賑わった所でした。ここは

隅田川七福神めぐり  墨田区

三囲神社には恵比寿様と大黒様、弘福寺に布袋尊、長命寺の弁財天、百花園の福禄寿、白鬚神社の寿老人、そして多聞寺の毘沙門天で

江戸文化発祥の地  墨田区

向島は江戸時代に別荘地として知られた江戸郊外の景勝地であり、多くの文人墨客がその風景を愛で、詩に詠んだ江戸文化発祥の地でした

隅田公園  墨田区

向島から隅田川に沿って、言問橋や吾妻橋の附近までが隅田公園です。江戸の頃からの桜の名所で、多くの文人墨客が杖をひき、

言問橋 名の由来  墨田区

橋の下一帯が桜の名所隅田公園で、隅田川をはさんで川の両側一帯が公園になっております。言問橋の名は、平安時代の伊勢物語

両国国技館  墨田区

昭和六十年一月九日に落成式が行われ、伝統をふまえた古風な造りの中に、新しい建築技術をとり入れた美事な建物です。総工費

ポロ市 元祖フリーマーケット  世田谷区

中世の昔は足利氏の有力な一族であった吉良氏の城下町として発展し、交通の要でもあることから、市が開かれる賑わいもみせてお

九品仏・浄真寺  世田谷区

一般には九品仏といっておりますが、浄真寺というのが正しい呼び名です。広い境内には伽藍が建ちならび、本堂と向いあう三つの

鷺草伝説・浄真寺  世田谷区

浄真寺(九品仏)は大平出羽守の奥沢城跡といわれ、今でも城の土塁が残されています。境内の一角には出羽守の娘・常盤の哀しい伝説

蘆花恒春園  世田谷区  

この公園は、明治の文豪徳富蘆花が明治四十年から、昭和二年に亡くなるまで住んでいました。敷地内には資料館が建てられ、蘆花

上馬町 「馬」由来  世田谷区

武蔵野台地に馬は、この上馬を始め、下馬、駒沢、駒場、駒込、練馬など、馬に縁のある地名がたくさんあります。これは、平安時代

馬事公苑  世田谷区

馬事公苑は、昭和十五年に日本中央競馬会によって馬に関する知識の普及と馬術の訓練のために開設されました。叉、オリンピック

寺町 喜多川歌麿の墓  世田谷区

関東大震災の後に、浅草や築地。芝や麻布にあった二十あまりの寺がこの地に移つり、ここに寺町ができました。代表的なものでは

砧 地名由来  世田谷区

砧(きぬた)とは、織った布をやわらかくなめらかにする木製の道具の事です。今から一三○○年以上前にただ今の朝鮮半島から渡って

豪徳寺 井伊直弼のお墓  世田谷区

豪徳寺は文明十二年(一四八○)に世田谷城主の吉良政忠によって創建されました。その後、吉良氏にかわってこの地を領した

三軒茶屋 地名由来  世田谷区

その昔は、大山街道(玉川通り)と、津久井街道(世田谷通り)の分岐点になっていた所で、その名の通り、角屋、田中屋、信楽屋の三軒の

代官屋敷   世田谷区

世田谷通りから南に下った所に代官屋敷が昔のままの姿をとどめております。代官屋敷は寛永十年に世田谷村が、彦根藩主・井伊家

等々力渓谷  世田谷区

都内では珍しい等々力渓谷です。等々力渓谷は、約一キロの谷間を谷沢川によって刻まれた渓谷です。両側には樹木が生い茂り、

満願寺 吉良氏の祈願所  世田谷区

満願寺はこの地(世田谷区等々力)を治めた吉良氏の祈願所として栄えました。山門の額字の「致航山」は江戸中期の儒者であり、

野毛大塚古墳  世田谷区

等々力渓谷の近くには野毛大塚古墳があり、都内では珍らしいものです。野毛大塚古墳は、直径六十六メートル、高さ九十メートルの

呑川 東日本初の米  世田谷区

今から一、九○○年以上前、山の幸、海の幸に恵まれたこの地方も、人が増え山も海も、もうこの辺りでは見られなくなってしまいま

松陰神社 吉田松陰  世田谷区 

幕末の尊王論者・吉田松陰をまつる神社です。松陰は安政六年六月に二九歳という若さで、江戸伝馬町の牢で安政の大獄の露

隅田公園  台東区

大正十二年の関東大震災後、ひよけの目的も含めて作られたもので、隅田の流れにそった情緒ある公園です。

浅草寺  台東区

浅草の観音さまは、正しくは金竜山浅草寺といい、江戸の頃から人々に親しまれております。御本尊は、今から千三百五十年以上前

慈限堂  台東区

寛永寺の開山天海僧正を祀る開山堂で、天海の尊敬した慈恵大師をあわせて祀るために両大師とよびます。現在は輪王寺門跡の

西郷隆盛の銅像  台東区

明治三十一年からこの上野に建っています。西郷隆盛は幕末の折、江戸城の明け渡しを無血で(戦争をせずに)行うよう、幕府方の

不忍池・不忍弁天堂   台東区

周囲二粁の池は、大昔の東京湾の名残りといわれ、寛永寺建立の折、琵琶湖にまねて造成しました。江戸時代には池の周囲に水茶屋

 

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隅田川

 

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浅草寺

 

上野公園  台東区

「花の雲 鐘は上野か 浅草か」と芭蕉の句にも見られるように、古くから桜の名所として賑わった所です。徳川時代には、江戸城の

徳川家霊廟  台東区

国立東京博物館の裏、寛永寺の墓地に徳川家の霊廟があり、東廟は四代将軍家綱の(厳有院)霊廟で、西廟は五代将軍綱吉

彰義隊戦死者の碑   台東区

上野戦争の際亡くなった彰義隊の兵士を供養するための碑、明治十五年(一八八二)建立。碑の文字は、山岡鉄舟が書いたものです

清水観音堂  台東区

もと寛永寺の仏殿で、寛永八年(一六三一)に天海僧正が京都の清水寺をまねて建立しました。正面五間、側面四間、単層入母屋で

旧因州池田屋敷の表門  台東区

因幡の国(現在の鳥取県東部)、三十二万石池田藩の江戸屋敷表門で、入母屋造、唐破風両出番所付で、大名家の格式をよく伝えてい

東京国立博物館  台東区

日本を中心に広く東洋諸地域の美術品や考古遺物を陳列し、収蔵品は約八千五〇〇件ほど。ここに収蔵される品は館所蔵品

東京文化会館  台東区

東京開都五百年を記念して、昭和三十六年開館、音楽会専門のホールがあり、音響効果は素晴らしい。大ホール(二、三二七席)、

国立科学博物館   台東区

自然科学と応用工学の知識を普及する為に、昭和六年開かれた。建物は一号館から五号館まであり、一号館は生物の進化と動

国立西洋美術館  台東区

昭和三十四年開館で、フランスの建築家、ル・コルビュジェの設計、前庭にはロダンの考える人、カレの市民、地獄門など六点の

東京都美術館   台東区

ここでは、日展・二科展などを始め各美術展が行われます。現在の建物は、昭和五十年に立て変えられ、規模としては米国のメトロポリ

上野動物園 台東区 

日本の動物園の中では最も古く、明治十五年に博物館の一部として開かれました。園内には、哺乳・鳥・爬虫・両棲・魚類など九百種

上野東照宮  台東区 

(家康と八代将軍吉宗を祀る)徳川家康を祀るのが東照宮で、寛永四年に東叡山内に社殿が建立されました。現在の社殿は、

寛永寺 徳川御三家  台東区

寛永寺は、天台宗の関東総本山で、寛永二年(一六二五)に天海僧正によって建立。この忍が岡が江戸城の北の鬼門にあたるた

寛永寺五重塔  台東区

寛永八年(一六三一)、佐倉城主土井利勝が寄進したもので、一度火災にあい、現在の塔は寛永十六年(一六三九)再建されました。

時の鐘  台東区

鐘は上野か浅草か」芭蕉の句で知られる鐘は、この花園稲荷裏の鐘です。江戸時代は市民に時を報らせた鐘です。

蔵前 地名由来  台東区

蔵前はオモチャの問屋街として知られる街です。蔵前の名は、昔、徳川時代には、このあたりに札差が沢山住んでおり、その米倉が多く

入谷鬼子母神   台東区

日蓮宗の真源寺に鬼子母神があります。言葉遊びに「恐れ入谷の鬼子母神」などと言われ、真源寺の名よりも入谷の鬼子母神様と

鴬谷   台東区

この辺りは根岸とよばれ、江戸時代には江戸郊外の別荘地として、自然を愛する風流人の仮住いや、江戸の豪商の別荘地として

対鷗荘の碑 明治天皇  台東区

この隅田川のほとりには、太政大臣・三条実美の別荘があり、実美公が御病気の折りに、明治天皇がお見舞なされ「見渡せば 

言問橋   台東区

隅田川十四大橋の一つです。その昔、在原業平が「名にしおば いざ言問わん 都鳥 わが思う 人はありやなしや」と歌った所から、

永久寺  台東区

永久寺は江戸時代に祀られた、江戸五色不動の一つ目黄不動が安置されるお寺です。江戸五色不動は、三代将軍・家光が、

谷中霊園  台東区

東京都営の霊園の一つで、徳川家最後の将軍であった十五代慶喜のお墓はこの谷中霊園にあります。徳川家歴代将軍の御霊廟

樋口一葉記念館  台東区

樋口一葉は明治二十六年七月から翌二十七年五月まで、一葉二十二歳の頃にこの竜泉寺町で駄菓子屋を営みながら作品を残しま

普済寺  立川市

臨済宗の玄武山普済寺です。南北朝時代の文和四年、この地の立川氏が、建長寺の物外可汁(ぶつがいかじゅう)禅師を開山に

砂川町 地名の由来  立川市

町内を流れる残堀川は普段は水無川ですが、雨が降った時だけ流れるので砂の川と呼ばれました。これが地名の由来といわ

流泉寺 教育発祥の地  立川市

流泉寺は、砂川新田が開拓された当時の創建で寺子屋にもなったお寺です。開拓にたずさわった農民達の教育を行なった教育発祥

阿豆佐味天神社  立川市

江戸時代の初め(寛永六年)にこの辺りが開拓された時、鎮守の社として今の瑞穂町の阿豆佐味天神社延喜式を分社したものです。

昭和記念公園  立川市

立川市は、大正十一年に陸軍立川飛行場が建設されて以来、第二次世界大戦にかけて航空機関係の軍需工場が次々と設立され、

笛吹峠 地名由来  多摩市

不動明王を本尊とする唐沢山吉祥院(多摩市)があります。そのお寺の裏山が唐沢山で昔は笛吹峠といわれました。元弘三年

小野神社  多摩市

武蔵国の一の宮と称される小野神社です。今から二○○○年以上も前に創建されたと伝えられ、延喜式神名帳に名を残す古社です。

乞田 地名由来  多摩市

乞田とは珍しい地名の一つですが、これについてこのようなお話しがあります。昔、この辺りをおさめていたお殿様は、とても強欲な

関戸の古戦場  多摩市

関戸(多摩市関戸)は、鎌倉時代に戦場となった所です。元弘三年、鎌倉幕府を治める北条氏を倒し、後醍醐天皇を中心とした新しい

多摩市関戸(霞の関)  多摩市

鎌倉時代の頃、この辺りは鎌倉街道の関戸宿がおかれ、大層な賑わいだったようです。関戸とは関所の入口という意味で、

多摩の横山・万葉歌碑  多摩市

多摩の横山には奈良時代から戦国時代にかけての多くの遺跡がありますが、万葉歌碑もその一つです。「赤駒を 山野に放ち 捕りかにて

聖蹟記念館 明治天皇  多摩市

この辺り一帯の丘陵は向の岡と呼ばれる桜の名所です。明治天皇ゆかりの聖蹟記念館があります。明治天皇は明治一四年二月にこ

江戸歌舞伎発祥  中央区

京橋のたもとに、江戸歌舞伎発祥の碑があります。寛永元年(一六二四)に、幕府の許可をえて猿若座、村山座、山村座、森田座

銀座 地名由来  中央区

銀座八丁柳の道を流れてやまぬ人の並とうたわれたのは今は昔、柳にかわって水銀灯が新しい銀座を象徴しています。この銀座は

銀座の柳 銀座文化の碑  中央区

銀座といえば、柳といわれるほど銀座の柳は有名でした。柳が植えられたのは明治十年頃で、永い間人々に愛されたのですが、

築地本願寺  中央区

京都西本願寺の東京別院で、俗に築地本願寺といいます。建物は古代インドの仏教様式をとり入れ、昭和十年に完成しました。この辺

旧中央卸売市場  中央区

俗に築地の魚河岸とよんでいますが、魚だけでなく青果物なども扱つており、生鮮食料品を一手に引受ける東京の台所として活気を呈して

 

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寛永寺五重塔

 

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時の鐘

 

勝鬨橋  中央区

明治のなかごろに、月島の埋立てが行われて、築地と月島の間は渡し船で連絡されました。昭和に入って橋が架けられ、月島が発展するとともに、

佃島 佃煮発祥の地   中央区

佃島は、徳川家康が江戸に移住きせた漁師の住んだ島です。今から三百八十年ほど前の天正十八年に、摂津の国(大阪)の佃村の名主・森孫右衛門

日本橋  中央区

〝お江戸日本橋七ツ立ち″と唄われた日本橋も、只今は高速道路の下になって、昔とは大分変りました。橋のたもと右の鉄の柱は

江戸名水  中央区

日本橋一丁目(元白木屋)ビルの地下には、江戸名水の一つ、白木名水があります。これは、今から三百年前に、呉服屋を開いた大村彦太郎

小伝馬町 牢獄に吉田松陰  中央区

ここは江戸時代に牢獄のあった町で、火つけ、強盗から政治犯にいたる罪人が入っておりました。当時の牢屋敷はこの右一帯で、右奥の

時の鐘  中央区

十思公園の中には、日本橋石町の時の鐘があります。時の鐘とは、江戸時代に人々に時間を知らせた鐘で、当時は江戸市内に九ケ所

水天宮 女難除  中央区

昔から、安産、水難、水商売の神様として庶民の信仰が厚く、毎月五の日の縁日には、一層の人出で賑わいます。 註 祭神は、天御中主      

人形町  中央区

江戸時代には、人形師や人形商人が集っていた町で、この名があります。その頃は、浅草とともに知られた江戸の繁華街でした。東京空襲で

一石橋  中央区

江戸時代の文化・文政の頃、この一石橋を境に金座の取締役・後藤庄三郎と、呉服屋の後藤縫之助という人の屋敷がありました。橋の両方に

調布 地名由来  調布市

「多摩川に 晒す手作り さらさらに 何ぞこの児の ここだ愛しき」と万葉の東歌にもうたわれた調布です。調布という地名は、大化の改新

深大寺 白鳳仏  調布市

関東地方でも数少ない由緒ある古いお寺で、創建は七三三(天平五年)年といわれ、開基は満功上人です。このお寺には白鳳仏の金銅釈

深大寺の伝説  調布市

いつの世にも伝説というものは、神秘ななぞにつつまれ、そして出来るだけ悲しく涙を誘う様につづられておりますが、この深大寺にも一

布多天神 布さらしの碑  調布市

社伝によりますと、平安時代菅原氏ゆかりの広福長者という人が、天神さまに七昼夜参篭して、神のおつげにより布の製作技術を修得

秋葉原の名のおこり  千代田区

秋葉原は江戸の火事が地名のおこりになっています。東京は江戸の昔から火事の多かった街で、「火事と喧華は江戸の華、その又花は町火消」と

平将門の首塚  千代田区

将門は、およそ一千年前の人で、当時の貴族政治に反抗して、新しい政治をおこす為に戦い亡された武将です。その首は当時の武蔵国芝崎

常磐橋公園・渋沢栄一銅像  千代田区

公園の中の銅像は渋沢栄一氏です。明治時代の実業家で日本銀行や第一銀行の創始者です。この常磐橋は徳川時代の江戸城外堀の

和気清磨呂像  千代田区

和気清磨呂は、奈良朝の頃、孝謙天皇にお仕えした方です。当時、天皇の位をねらう悪僧・道鏡の悪るだくみを見抜き、天皇家を守った忠臣です。

駿河台下由来  千代田区

駿河台の名は、徳川家康が駿河の府中で亡くなると、それまで家康のおひざ元に居た駿河の武士達が江戸に移り、神田山に住んだために、

赤坂見付跡  千代田区

見付とは、今日の交番のようなもので、江戸城外に通ずる主な街道の出入口に見張所を置きこれを見付とよびました。中でも虎の門

清水谷公園 大久保利通   千代田区

ホテルニューオータニの庭続きが清水谷公園です。昔は味の良い清水の湧く所として知られ公園内には、明治の元勲、大久保利通の暗殺

千鳥ケ渕 名の由来  千代田区

皇居のお堀・千鳥ケ渕です。青葉通りとともに、東京の桜の名所で、水上公園に指定され、都民の憩いの場所として知られます。この堀の形

大村益次郎銅像  千代田区

益次郎は、日本最初の陸軍大臣で、明治維新の時に上野で徳川の彰義隊を討伐し、明治二年に、洋式の軍隊を結成させた方です。皇居の

靖国神社 清い水と母  千代田区

靖国神社は明治二年六月に、東京招魂社として創建されました。その後、明治十二年に、現在の靖国神社に改称されております。明治維新

南総里見八犬伝・滝沢馬琴  千代田区

南総里見八犬伝は、今から百三十年以上前、江戸の作家滝沢馬琴が、二十八年という歳月をかけて作り上げた、戦国大ロマソです。当時の

楠正成の銅像 後醍醐天皇  千代田区

楠正成は、今から六百八十年ほど前の南北朝時代に活躍した武士です。後醍醐天皇の御代、天皇家に反抗して新しい政治を行う足利

四ツ谷見付跡  千代田区

見付とは今の交番のようなもので、江戸城の外郭に見張番所を置き、これを見付とよびました。江戸の見付は九十二門あったといわれ、

四ツ谷 地名由来  千代田区

四ツ谷の地名は、徳川家康が江戸に移った頃、この辺りには、梅島、木島、布屋、茶屋の四軒の茶店があって、往来の旅人の憩いの場

千鳥ケ渕戦没者墓苑  千代田区

世界平和の礎として戦場に散った、霊がしずまる所です。森の中には八角堂があり、堂の地下には九万一千体の氏名不詳の遺骨が納められており

和学講談所跡  千代田区

両側一帯は麹町の高級住宅地で、一番町から六番町まであり、昔から江戸城に近いため、大名や旗本の屋敷が塀をめぐらしていた、静かな

神田 地名由来  千代田区

神田の地名は伊勢皇大神宮の御領地であった頃の名残りといわれ、皇大神宮のお米を作る田圃があったために、神の田、つまり神田の名

聖橋 名の意味  千代田区

聖橋の名は、正面の湯島聖堂と二コライ堂の、両聖堂を結ぶ意味でつけられたものです。昔は駿河台と、前の湯島台地は地続きでしたが

ニコライ堂  千代田区

日本ハリスト正教会の首堂で、正しくは東京復活大聖堂と申しますが、一般に二コライ堂とよばれております。この堂は、明治二十四年に

神田明神 江戸の三大祭り  千代田区

正しくは神田神社といい、神田ッ子の氏神として信仰されております。この神田明神のお祭りは、江戸の三大祭りとして知られたのですが

皇居  千代田区

皇居は、今から五百六十年ほど前の長禄元年(一四五七)に、太田道灌によって築城されました。その頃は城の近くまで波が打ち寄せ 

書陵部庁舎  千代田区

書陵部は、皇室関係の文書を保管したり、記録を作成したりする所です。又、天皇家のお墓、つまり御陵管理をする部所もあります。

新宮殿(緑色の屋根)  千代田区

伏見櫓の右奥には皇居の新宮殿があります。新宮殿は昭和四十三年十一月に完成し、総工費百三十億円ほどかかっております。新宮殿

江戸城天守閣跡  千代田区

江戸城天守閣の跡です。慶長十一年(一六〇六年)から二年がかりで完成させた天守閣ですが、完成から五十年後の明歴三年

桃華楽堂  千代田区

昭和天皇の皇太后様の還歴のお祝に建てられた音楽堂で、桃華楽堂とは、皇太后が三月六日の御誕生ですので桃花をとり、桃華の華の

 

西の丸  千代田区

西の丸は、将軍が隠居して大御所とよばれた時に住む御殿のあった所です。その他、次の将軍になられる方が住む御殿も西の丸にありま

 

二重橋・西の丸御門  千代田区

昔は二重に橋が架けられておりました。今日、一重になっても二重橋と呼ばれます。二重橋の手前の橋は、皇居正門石橋ですが一般に

 

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江戸城の天守閣跡

 

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隅田川と勝鬨橋

 

国会議事堂 千代田区

我が国の立法府の最高殿堂が、ここに完成したのは昭和十一年秋でした。大正九年から十七年の歳月を費し、当時のお金で二千五百八十万円

憲政記念館 尾崎行雄  千代田区

昭和四十七年に、我が国の議会開設八〇周年を記念して開かれた会館で、国内や外国の議会政治関係資料が展示されています。この地

日枝神社 江戸三大祭  千代田区

赤坂山王の日枝神社です。この神社は、江戸城鎮護の神として、古くから信仰のあつかった所です。毎年四月に行なわれる山王祭(神幸祭)

日比谷公園  千代田区

日比谷公園は、明治三十六年六月に開かれた日本最初の洋式庭園で、ドイツの近代的庭園を参考に造園されました。園内には、日比谷

豊島区

豊島区は、鎌倉時代に武蔵七党の豊島清光が、石神井公園の所に石神井城築いてこの地一帯を治めました。ところが、文明年間に太田道灌に

豊島氏  豊島区

豊島氏は桓武平氏の流れをくむ名門の出で、秩父氏から別れた秩父二郎武常がこの地を開拓し豊島の名を名のりました。豊島氏は

池袋 地名由来  豊島区

池袋の名は昔、この辺りに弦巻川の水源があって、その丸池が袋のように入り組んでいたために、現在の地名が生れたといわれます。

染井の墓地  豊島区

明治から昭和にかけての有名人のお墓が多い墓地です。園内には、二葉亭四迷、岡倉天心、高村光雲、高村光太郎とその夫人の智恵子

庚申塚  豊島区

庚申塚とは、道の分岐点に設けられた塚や石碑のことで、天孫降臨(天照大神の御孫「ににぎの命」があまくだるの意)の時に道案内をした

真性寺  豊島区

徳川時代の始め、元和元年(一六一五)に祐遍上人が中興されたお寺で、境内には江戸六地蔵の第四番にあたる、銅造の地蔵菩薩坐像

高岩寺・トゲヌキ地蔵  豊島区

トゲヌキ地蔵の名で知られる高岩寺です。このお寺は慶長元年(一五九六)に開かれたと伝えられ、始めは台東区の下谷にありましたが、

とげぬき地蔵の縁起   豊島区

江戸の毛利邸の腰元が縫物をしていましたとき、折れた針をを口にくわえて、もう一本の針をとろうとした拍子にくわえていた針をのみこんで

江戸六地蔵  豊島区

江戸六地蔵は、今から二百八十年以上前の宝永三年(一七○六)から享保七年(一七二二)までの十六年をかけて造られた銅造地蔵菩薩

里見八犬伝・巣鴨の庚申塚  豊島区

江戸文学の第一傑作といわれる滝沢馬琴の書かれた「南総里見八犬伝」は時代を鎌倉管領の頃として、その舞台は関東一円に及んでおり

鬼子母神   豊島区

鬼子母神のお堂は、寛永六年(一六二九)に、加賀百万石の前田利常の娘・満姫が広島の藩主浅野家へお嫁入りの時に建てられたもの

目白不動・金乗院  豊島区

金乗院には、江戸五不動の一つ目白不動が祀られております。江戸の五不動は、正しくは江戸五色不動とよ ばれ、江戸の東西南北と中央を

善養寺  豊島区

尾形乾山のお墓があります。乾山は、尾形光琳の弟で、陶芸家として有名な方です。この他、江戸で義理人情の厚い人として名をあげ

妙行寺  豊島区

四谷怪談で有名なお岩の墓があります。もとは、四ツ谷にありましたが、明治四十二年に移されました。

長者橋 名の由来 中野区

そのむかし、中野長者といわれた鈴木九郎が住んでおりました所から、名付けられた橋です。鈴木九郎は応永年間(一三九四~一四二七)

宝仙寺 象のお寺 中野区

今から九百年以上前の永承年間に源頼義と源義家親子が後三年の役で清原氏を討ち、戦勝の御礼に創建されました。JR中野駅が

成願寺 中野長者の娘 中野区

このお寺には、こんな話が残されております。ある日、中野長者鈴木九郎の娘が病気になってしまったのです。一人娘のために今まで

五日市街道 西多摩郡

五日市街道は、文字通り東京都西多摩郡五日市町へと続く道で江戸時代の初めに開かれました。広い武蔵野を横断するこの道の果し

五日市憲法 西多摩郡

五日市町役場の前に五日市憲法草案の碑が建てられております。一○○年以上前、全国で自由民権連動がくりひろげられた時、

奥多摩湖 西多摩郡

奥多摩湖は、多摩川の本流を堰止めて造った人造湖です。東京都民の飲料水は、多摩湖、狭山湖の両貯水池に多摩川の水を取り入れて

岫沢園地 西多摩郡

岫沢集落の跡で、昔は郷土芸能・鹿島踊りが行われていましたが、ダムの完成とともに対岸の小河内神社に移し、いまでも古い伝統は

御前山 海底だった 西多摩郡

頂上から少しくだった所が小河内峠で、その近くから縄文石器時代の中の原遺跡が発掘されています。昔、海底だったことを語る化石

鶴の湯の伝説 西多摩郡

小河内には昔から知られた名湯・鶴の湯がありました。伝説によりますと、傷ついて落ちた一羽の鶴がここに湧き出ている泉につかり、

数馬渓谷 西多摩郡

この辺りは、白丸渓谷、又は数馬渓谷と呼ばれ、四季それぞれの美しさは格別です。その昔、この白丸付近は、人も通れないような断崖

鳩の巣渓谷 地名由来 西多摩郡

多摩川の流れもこの辺りから狭くなり、両岸には岩壁がそそりたち美しい景色が展けます。奥多摩を代表する渓谷美です。鳩の巣という

奥氷川神社 西多摩郡

いつ頃の創建かつまびらかではありませんが、伝えられるところによりますと、神代の昔、牙邪国造(むさしのくにのみやつこ)が東夷

日原の鍾乳洞 西多摩郡

江戸庶民の信仰の霊地として栄えた日原鍾乳洞は、全長約八○○メートル、洞内には、高さ二メートルもある白衣観音や二、五メートル

笛吹 口笛を吹く 西多摩郡

人里(へんぼり)とともに変わった地名です。昔は笛吹と書いてウソブキと呼ばれましたが転じてウズシキになったといわれます。ウソブキとは

数馬 カブト式入母屋造り 西多摩郡

東京の最奥地、数馬の部落です。この山里の地を開いたのが、武蔵七党の横山党に属した中村数馬守小野氏経という人で地名もその

笹野の式三番そう 西多摩郡

笹野には古い伝統をもつ、式三番そうが伝えられており由緒ある郷土芸能として都の無形民俗文化財に指定されています。この舞は

浅間尾根 西多摩郡

浅間尾根駐車場の少し手前から富士山が見えます。浅間尾根は標高千メートル余りの小さいピークが連なるなだらかな山陵で、

口留番所跡 西多摩郡

江戸時代、秋川の深い崖の渕に作られた関所でその当時は甲州の裏街道のおさえとして設けられました。番所跡の反対側に黒い板塀の

上川乗 武田の落武者 西多摩郡

上川乗の部落からカブト造りの民家が目立つようになりました。ここは武田の落武者が人目をさけて、移り住んだ所と言われ、武田信玄の

五社神社 五大明王 西多摩郡

鳥居から十五分程山を登った所にお社があります。平安時代に創建されたという由緒ある神社で江戸の頃には「五大尊」とも呼ばれま

人里 縄文式土器 西多摩郡

人里(へんぼり)は人の里と書く大変かわった地名です。アイヌ語のヘンポリつまり、谷間の集落の意味が訛って人里になったとか、又一説

檜原城跡 秀吉により落城 西多摩郡

戦国時代に小田原北条氏の家臣・平山氏が居城1して甲州勢の侵略を防いでおりました。平山氏は、源平合戦の時活躍した、平山武者

 

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とげぬき地蔵

 

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日原の鍾乳洞

 

狭山池自然公園 西多摩郡

狭山池はいまはこじんまりした小さな池ですが、むかしは十五万平方メートルもある大池でした。この池には蛇喰治右衛門の伝説が残されて

狭山神社 勝海舟 西多摩郡

永承年間(一○四六)、源頼義が反乱をおこした陸奥の安倍氏を征伐しにゆくとき、箱根ケ崎権現をここに勧請し戦勝を祈ったといわれて

千川上水 江戸市民の飲料水 西東京市

江戸時代には本郷、下谷、浅草などに送られ、江戸市民の飲料水として重要なものでした。千川上水は保谷市で玉川上水から分かれて

東伏見稲荷神社 西東京市

昭和四年に関東の守護神として京都の伏見稲荷神社を勧請したもので二月の初午祭は有名な神事です。神苑は、武蔵野特有の風情

練馬区 

練馬区は、昭和二十二年に板橋区から分かれて、東京都第二十三番目の区として誕生しました。練馬区の地名の由来には、面白いお話

長命寺 東高野山 練馬区

真言宗の古刹で慶長十八年、北条早雲の後商・増島重明によって建立されました。古くから庶民に東高野山と親まれ、紀州(和歌山県

八王子市の歴史 

自然に恵れ生活条件の整ったこの地に約三千年も昔から人々が住みつき、市内には数基の縄文時代の遺跡が発見されております。

人同心屋敷跡の碑 八王子市

千人同心とは、江戸と甲州の国境の警備に当たった武士団の事を言います。天正十八年に江戸に入った徳川家康は、江戸を平和に治める

八王子の名の由来 

八王子の名の由来は、その昔、大国主命の八人の王子がこの地に住みついて、土地の人々に機織を教えたということです。その後

南浅川 弘法大師伝説 八王子市

南浅川は、高尾山麓から流れ名前の通り大雨の時以外は、ほとんど水が流れません。その昔、弘法大師が東国を巡られた折、この辺りの

小仏関所跡  八王子市

小仏峠は武蔵国と相模国、甲斐国と境を接する山なみで、戦国時代には小田原北条氏が厳しく取り締った所です。その頃は峠の尾根に

片倉城跡 八王子市

室町時代、応永年間(一三九四〜一四二八)のころ、大江備中守師親(もろちか)がこもっていたと伝えられていますが、たしかなことはわから

高留関所跡 八王子市

陣馬街道は、甲州街道の裏街道でもあり、甲州街道には小仏の関所、陣馬街道には、高留の関所がありました。代々、関所の常番役を

夕焼け小焼け」の碑 八王子市

宮尾神社の境内にはひろく愛唱された「夕焼け小焼け」の碑があります。この歌を作った中村雨紅は、本名を高井宮吉といい明治三十年

東洋象について 八王子市

片倉城跡から西へすこし行った、小比企町に流れる湯殿川で、昭和三十四年に東洋象の歯の化石が発見されています。これは、百万年くら

車人形  八王子市

恩方第一小学校裏の白い建物には、車人形の西川古都座(ことざ)、の稽古場があります。車人形は、江戸時代の終わり頃から庶民の郷土

浄福寺城跡 八王子市

浄福寺の裏山が、大石氏の拠った浄福寺城跡です。至徳元年(一三八四)、大石氏初代の大石信重が築いた城で、一名、新庄城とも

心源院 大石定久 八王子市

小田野城跡に向う道の右に深沢山心源院があります。文明十六年、滝山城主大石定久によって建立されたと伝えられます。又、名僧の

浄福寺 大石定久 八王子市

浄福寺は、鎌倉時代の文永年間に本堂の裏にあります観音堂が建てられたのがはじまりと伝えられます。その後、兵火で焼かれましたが

西蓮寺 八王子市

室町時代の寛正年間(一四六○~六六)の創建と伝えられる真言宗のお寺です。寺伝によりますと、天正十八年の八王子城落城の時、

薬王院 八王子市

薬王院は一名高尾山有喜寺といいます。今から千三百年以上前、聖武天皇の勅願によって、行基菩薩がお開きになったものです。本堂や

薬王院 三大不動 八王子市

高尾山は古くから山岳信仰の霊場して知られ、山頂近くに高尾山薬王院有喜寺がございます。有喜寺は真言宗の智山派に属し、今から

滝山城跡 八王子市

滝山城(国指定史跡)は、室町時代の終わり頃、武蔵の豪族の大石定重によって築かれました。定重は小田原北条氏の攻撃に備えて

御陵表参道入口 八王子市

美事に続くこのケヤキは、山陵の正門まで七百六十六本を数え、天皇の陵にふさわしい雰囲気を感じさせます。山陵の正門から総門

昭和天皇陵 八王子市

天皇家の武蔵陵墓地の中で、もっとも新らしいのが昭和天皇の御陵・武蔵野陵です。第百二十四代・昭和天皇は、大正天皇の第一皇子で

貞明皇后陵 八王子市

大正天皇の后・貞明皇后は御名を節子(さだこ)と申し上げ、故・公爵・九条道孝の第四女、明治三十三年五月十日、皇太子嘉仁親王

多摩丘陵 遺跡の宝庫 八王子市

多摩丘陵は西の高尾山の麓から扇形に広がり、東のはずれは神奈川県横浜市まで伸びて東京湾にのぞんでいます。この丘は遺跡の宝庫

小田野城跡 八王子市

小田野トンネルの上に小田野城跡があります。北条氏照の家臣・小田野源太左衛門の屋敷跡と伝えられます。八王子城の出城として

宝生寺・夕焼け小焼けの鐘 八王子市

宝生寺は、応永年間(一三九四~一四二八)に建立された真言宗のお寺です。一○世住職の頼紹(らいしょう)は西蓮寺の住職と共に、

八王子城跡 八王子市

八王子城は戦国時代に高さ四三六メートルの城山に築かれたお城で、滝山城主北条氏照が甲斐の武田氏に傭えて築いたものです。

鑓水 絹の道 八王子市

平安時代のころから、八王子は桑都とよばれるほど織物業がさかんであり、江戸時代には、織物取引の中心地として月に二度市がたつ

玉川上水 玉川の姓 羽村市

江戸の街が発展するとともに、従来の井の頭池を水源とする神田上水のみでは飲料水に不足をきたしました。こで三三○年前の慶安

まいまいず井戸 羽村市

JR羽村駅東口近くには、都の史跡に指定されるまいまいず井戸があります。この武蔵野は、人間の命である水がとぼしい土地柄でした。

羽村の堰 命の水 羽村市

玉川上水を完成させた玉川兄弟の銅像が堤わきの公園にあります。取水口を指さし立っている方が兄の庄右衛門で、座わっているのが

阿蘇神社 羽村市

阿蘇神社は推古天皇の御代に創建されたと伝えられます。平安期には、平将門が武運長久を祈り、これを討った藤原秀郷も戦勝祈願を

中里介山の墓 羽村市

禅林寺の墓地には、「大菩薩峠」の著者、中里介山のお墓があります。中里介山は明治十八年に羽村に生まれ、本名を弥之助といいます。

 

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八王子城跡

 

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薬王院

 

徳蔵寺  東村山市

徳蔵寺は、鎌倉時代の終わりに新田義貞が戦勝祈願の為に開基したといわれます。寺の板碑保存館には、国の重要文化財に指定された元弘

九道の辻 迷い花  東村山市

昔は九本の道が分岐していた所です。その道は鎌倉街道をはじめ、奥州道、江戸道、秩父道、大山道、引又道、宮寺道、御窪道、清戸道の九本の

八坂神社 牛頭天王  東村山市

御祭神は素蓋鳴命(すさのうのみこと)で、約六○○年以上前の応永の頃の創建です。古くは野口の牛頭天王(ごずてんのう)といわれ、厄除け、

梅岩寺  東村山市

梅岩寺の創建はつまびらかではありませんが慶安四年(一六五一)阿山呑磧和尚が中興したと伝えられます。御本尊は、聖観音で狭山三十三カ所

久米川古戦場跡  東村山市

この辺りは、鎌倉攻略の為に上州から南下した新田義貞が鎌倉幕府軍と合戦した所です。これを久米川の合戦といい、小高い八国山

正福寺 国宝・千体地蔵堂  東村山市

正福寺は、鎌倉の建長寺の末寺で鎌倉時代の中頃に建長寺の住職であった石渓心月(せっけいしんげつ)禅師の開山と伝えられます。

日野市 地名由来  

市の歴史は古く奈良時代にこの地に狼煙台が設けられ、飛火野と呼ばれていた事から今の地名があります。平安期以後、武蔵七党の

高幡不動尊  日野市

高幡不動尊は火防の神様として、関東三サン大不動の一つに数えられております。叉高幡山明王院は、行基菩薩がお開きになったお寺で

多摩動物公園  日野市

昭和三三年に開園した多摩動物公園は多摩丘陵の起伏や自然林などの自然環境を生した動物公園です。園内には約二○○種、一、六○○

百草園 百草八幡宮  日野市

百草園は奈良時代に建立された松蓮寺というお寺のあった所です。お寺の住職が庭師を招いて手入れをして以来、庭園の美しいお寺とし

兜造りの民家  檜原村

建物は、三階または四階建てで、一階を居間や寝室にあて、二階から上は養蚕室や物置などに使っていました。屋根はクギを使わずに、

府中市の歴史

府中市は、大化の改新(六四五)後、武蔵国の国府がおかれた所です。国の中心であった所を国府や府中といいます。昭和五十一年からの

多摩霊園    府中市

多摩霊園は、大正十二年に造られた東京都営の公園式墓地で、面積は九九○万平方米(三十万坪)もあります。多摩霊園には、海の提督

分倍河原古戦場跡  府中市

鎌倉時代の末期ともなりますと、鎌倉幕府の力がだんだんとおとろえてきました。この頃朝廷では幕府を倒そうとする動きがおこり、各地の

大国魂神社  府中市

今から一九○○年以上前の景行天皇の御代に、武蔵国の鎮守として大国魂大神をお祀りしたのが始まりと伝えられます。大化の改新に

福生市

昭和の初め頃は養蚕と紡績の町でしたが戦後、日本陸軍の横田基地が米軍に接収されて以来、国際色豊かな基地の町として知られました

福生の地名の由来

福生は「福を生む」と書き、縁起のいい地名という事で、福生駅の入場券が切符マニアに人気集めて以来、福生の名が広く知られるようにな

水喰士 玉川兄弟の苦心談  福生市

JR青梅線と八高線にはさまれた雑木林の中に、”水喰土”と呼ばれる窪地があります。約三四○年以上前に玉川兄弟によって玉川上水が

長沢遺跡   福生市

縄文時代中期の長沢遺跡です。昭和四十五年以降の発掘調査から九ヶ所の住居跡、三十種もの土器と、千五百点にも及ぶ石斧等が出土

文京区の名の起り

文京区はその名の通り、東京で一番学校の多い区です。この様にたくさん学校が出来ましたのは、江戸時代こちらにたくさんの大名屋敷が

六義園・柳沢吉保の邸跡  文京区

徳川五代将軍・綱吉の御側用人であった柳沢吉保の邸跡です。吉保は徳川綱吉から拝領した土地を、自ら設計し、造園は元禄八年

国際柔道会館  文京区

創立者は、嘉納治五郎先生で、先生は心身の鍛練によって、おのれを完成させることを目標として明治十五年に下谷北稲荷町の永昌寺

こんにゃくえんま伝説・源覚寺  文京区

「こんにゃくえんま」とよばれる変った呼名のおえんま様がございます。昔、一人の目の不自由なおばあさんが、雨の日も風の日も一日として

後楽園 名前の由来  文京区

後楽園は、水戸光圀公の庭園で三代将軍家光が自ら助言して造らせ、光圀公が完成したものです。名前の起りは、中国の宋の名臣、

樋口一葉の碑  文京区

樋口一葉が下谷竜泉寺町から本郷丸山福山町に移って来たのは、明治二十七年(一八九四)五月一日のことでした。「たけくらべ」「にご

根津神社  文京区

御祭神は須佐之男命、大国主命で日本武尊の創建と伝えられる古いお社です。俗に根津権現とよばれ、建物は江戸時代の代表的な

小石川植物園  文京区

東京大学付属の小石川植物園です。館林の城主、松平綱吉(後の徳川五代将軍)の下屋敷だった所で、将軍になってからは、白山御殿

本郷と文学  文京区

本郷界隈は、明治の文学者とは大変縁の深い所です。明治の女流作家、樋口一葉の「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などはこの付近

東大赤門  文京区

東大の代名詞にもなっているこの赤門は、国の重要文化財で文政十年(一八二七)に徳川十一代将軍・家斉の娘・溶姫(やすひめ)が

安田構堂・三四郎池  文京区

美しいイチョウ並木の奥突当りが安田構堂で、東京の三大構堂の一つに数えられております。なお、東大構内には、前田侯時代のお庭が

湯島聖堂 孔子の霊   文京区

元禄四年(一六九一)二月に徳川五代将軍綱吉公が、林羅山(江戸初期の儒者)の建てました上野忍ガ丘の聖堂をここに移しました

町田市

市内からは、縄文や弥生の遺跡が数多く発掘され、市の歴史の古さを物語っております。鎌倉時代の始め、鎌倉武士の小山田氏の領

小野路  町田市

小野路町は、鎌倉時代の頃、鎌倉街道の宿場としてひらけた所です。江戸時代に入りますと、甲州街道、と東海道を結ぶ脇往還の宿とし

小島資料館  町田市

小島資料館は、代々この地(小野路町)で名主をつとめた小島家が管理する資料館です。館内には、歴代当主の学問や文化への

高ケ坂石器時代遺跡  町田市

東京都町田市は原始から古墳時代にかけての遺跡の宝庫です。その数は七○ケ所にものぼり、東京二十七市の中では第一位になります

薬師池公園  町田市

薬師池公園は丘陵に囲まれたくぼ地に薬師池があり、池を中心とした自然公園です。薬師池は、戦国の世に滝山城主・北条氏照が支配

自由民権資料館  町田市

こちらの資料館は、この地で行われた三多摩自由民権運動のあらゆる資料を集めて昭和六十一年に開館されました。明治になって全国

井出の沢  町田市

菅原神社の付近一帯は、古くは井出の沢と呼ばれる湿地帯でした。井出の沢とよばれたこの地は、鎌倉時代の終わり頃、僧明空が集めた

宏善寺 日蓮上人の真筆  町田市

日蓮上人が今から七三○年前の文王元年に時の執権北条時頼に「立正安国論」を建白したため、、これが原因で佐渡へ配流となりました

菅原神社 都の旧跡  町田市

寛永七年、この地の大沢氏が土地を寄進されて祠を作られたのが始まりと伝えられます。御祭神は、学問の神様の菅原通真で

 

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六義園

 

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湯島聖堂

 

泉岳寺 四十七士の墓所  港区

正しくは、万松山泉岳寺といいます。播州赤穂(兵庫県)の城主・浅野内匠頭の善提寺で内匠頭を始め四十七士の墓所があります。

高橋是清記念公園  港区

高橋是清は、昭和十一年、広田内閣の時の大蔵大臣で、ここがその邸でした。昭和十一年二月二十六日、二・二六事件の折に、反乱軍

乃木邸・乃木神社  港区

乃木大将は、明治天皇にお仕えした陸軍の軍人です。明治三十七・八年の日露(日本とロシア)戦争に活躍し、又、学習院の院長など

愛宕山・愛宕神社  港区

愛宕山の標高は二十六メートルの低い丘ですが、江戸時代から月見や雪見の名所でした。鳥居が愛宕神社です。ここは講談でおなじみの

江戸城開城記念碑   港区

この辺りは、かつて、薩摩藩の蔵屋敷があつた所で、西郷隆盛と勝海舟が江戸城無血開城の話し合いを行ない、慶応四年三月十四日

カラフト犬の群像  港区

東京タワーの足元にある犬の群像は、カラフト犬の像です。これは、第一次南極観測隊が引揚げの折、船の事情でやむおえず犬を置いて

東京タワー  港区

高さ三百三十三米の世界最高の総合電波塔で、昭和三十三年十二月二十三日に完成しました。総工費三十億円で、一年六ケ月の歳月と

増上寺 徳川家の菩提寺  港区

正しくは三縁山増上寺といいます。徳川の頃は上野寛永寺に次ぐ格式を持ち、浄土宗関東総本山として知られ、中には徳川二代、六代

覚林寺(清正堂) 港区

覚林寺は寛永八年(一六三一)に加藤清正にともなわれて来日した、朝鮮の王子・日延上人によって創建されました。境内には清正をまつる

旧白金迎賓館   港区

江戸時代は松平家の下屋敷でしたが、その後、朝香宮様の邸宅となりました。戦後しばらくの間、時の外務大臣・吉田茂氏が公邸として

国立自然教育園   港区

古い武蔵野の面影をとどめる所としては都内唯一の公園で、二十ヘクタールの園内には、九〇種をこえる植物や鳥類が生息しています。

鉄道発祥の地  港区

明治五年十月十四日、日本最初の汽車が新橋から横浜に向かって走りました。日本の鉄道発祥の地は新橋です。新橋横浜間の二十九キ

浅野内匠頭終焉の地  港区

忠臣蔵で御存知の浅野内匠頭終焉の地の碑があります。元禄十四年三月、江戸城松の廊下で、吉良上野介に刃傷に及んだ浅野内匠頭

東禅寺  港区

安政六年(一八五九)から明治六年までイギリス公使館の置かれた所です。又、大仏次郎の「鞍馬天狗」にもこのお寺が出てまいりますが

高輪大木戸跡  港区

徳川時代には、江戸に入る各街道口に番所を置いて旅人の出入をチェックした所です。徳川時代には、江戸城の外堀の各所に見附を

虎の門  港区

江戸城の外堀のあった所で、その外堀を埋めたてて出来た通りです。昔ここに江戸城三十六門の一つ虎の御門がありましたところから

寺町 お城の防護の役目  港区

今から三百八十年以上前、寛永十二年(一六三五)の江戸寺院の大移動により寺町に定められたもので、芝地区の代表的な寺町です。

札の辻 地名由来  港区

江戸時代には、東海道と鎌倉街道が交差し、百間波止場といわれた程、数多くの船が出入りし人通りの多い所でした。只今のように、新聞、

青山墓地  港区

明治五年に開かれた墓地で、我が国最初の公営墓地です。只今は東京都立となっており、明るい公園式墓地として知られ、およそ十万

有栖川宮記念公園  港区

もと盛岡藩主・南部家の下屋敷でしたが、明治になりましてから有栖川宮家の所有となった所です。その後昭和九年十一月十七日に東京都

迎賓館  港区

外側はイギリスのバッキンガム宮殿をまね、内側はフランスのベルサイユ宮殿をかたどった豪壮な建物です。昔は赤坂離宮とよばれました

六本木 地名由来  港区

東京山の手の高級住宅地としても知られ、東京の歴史を刻む古い屋敷や寺院が残っております。徳川の頃から武家屋敷が多い所で、

三宅島・絵島と生島の流人哀話  三宅村

三宅島は東京から南へ約一七五キロの遠い南の孤島です。面積五十五平方キロで、伊豆七島のうちでは大島、八丈島につぐ大きな島で、

武蔵野市 先史時代の遣跡  武蔵野市

市内には先史時代の遣跡がみられ、市の歴史の古さを物語っております。現在の市街地がみられるようになったのは江戸時代になって

井の頭公園  武蔵野市

正式には「井の頭恩賜公園」といい、もとは皇室の御料地でしたが東京市に下賜され大正六年に自然公園として開園しました。公園は御殿山

吉祥寺 地名由来  武蔵野市

吉祥寺の地名の起りは、今から三三○年以上前の明暦三年、江戸の大火にさかのぼります。この大火で今の水道橋にありました吉祥寺の

国木田独歩文学碑  武蔵野市

武蔵野を愛してやまなかった国木田独歩がこの辺りを訪れたのは明治三十年頃の事で、その三年後に代表作「武蔵野」が書き始められま

御門訴事件の慰霊碑  武蔵野市

御門訴事件とは、明治三年、明治の新政府による、農家一戸当り米二升の年貢のとりたてに対して、武蔵野十二新田の名主、農民達が

村山大島紬  武蔵村山市

武蔵村山市は、東大和市とともに、市の南に武蔵野台地を、北側に狭山丘陵をひかえており、丘陵の麓には先土器時代からの土器が出土し

目黒のサンマ  目黒区

目黒のサンマのお話は、落語などでよく耳にいたしますが、これは将軍様の鷹狩りからヒントを得て面白く作られたものです。目黒は、江戸と

立会川  目黒区

室町時代の文永四年(一五二四)、小田原の北条氏綱と江戸城主上杉朝興が、この川をはさんで太刀合いをやったので立会川というように

柿の木坂  目黒区

昔、こめ付近の農民は朝早く起き、野菜などを手車で運んでいました。坂の多い目黒の農民は三人、四人と隣組をつくり、急な坂に来ると

大鳥神社  目黒区

大同元年(八○七)の創建しこいわれる大鳥神社は、目黒区内で最も古い神社で日本武尊と弟橘媛命をお祀りしています。通称”目黒の

目黒不動 富くじ  目黒区

江戸時代、市内に五つの不動様がありましたが、俗に五色不動と言っておりました。この目黒不動もその一つです。昔は、代々の将車もお

行人坂  目黒区

目黒駅を過ぎて左に別れる細い道が行人坂です。江戸の頃は目黒不動尊への参詣者でにぎわった通りです。坂の途中には山の手七福神

正覚寺(鬼子母神)  目黒区

こちらには、お芝居などで有名な先代萩の政岡の局(三沢初子)の銅像とお墓があります。三沢初子は三沢権佐清長の子として鳥取に

祐天寺 大正天皇の御生母  目黒区

祐天寺は芝の増上寺(浄土宗)の末寺で、亨保三年(一七一八)に増上寺第三六世祐天上人を第一世とし、高弟・祐海上人が建立したもの

碑文谷 首塚や数々の碑文  目黒区

昔は谷や沼ばかりのとても淋しい所でした。この近くを鎌倉街道が通っていたので幾度か戦場となり、首塚や数々の碑文が今でも残されてい

円融寺  目黒区

平安時代に慈覚大師円仁が開いたと伝えられ、目黒区内では目黒不動につぐ古いお寺です。山門の仁王像は室町期の作で、その前で七日間

権之助坂のいわれ  目黒区

かつては、人々に愛された落語、講談の寄席などもありました。権之助坂はその昔、このあたりに住んでいた権之助という、お百姓さんの

 

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迎賓館

 

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東京タワー