旅先の歴史ものがたり・栃木

栃木県には、知られざる物語があります。


町や村などの成り立ち、


その町や村にこそ他の地域には見られない物語があります。


「面白い感動話」「歴史や伝統」「男の女の哀しい物語」


「地域ならではの温泉の由来」「歴史的な神社仏閣」


「歴史上活躍した人物の横顔」「哀れな城跡や址」


「町や村、施設の命名縁起」「栃木県ならではの特産物」


「国指定の国宝・重要文化財」など。


 
旅に出たら、単なる物見遊山ではなく、こうした栃木県を代表する人間物語


を訪ねてみたいものです。


旅のその先に……新しい発見が。


それこそが「旅の醍醐味」ではないでしょうか。

 

 

中禅寺.jpg

 

 

中禅寺 

 

マッチングサイトをオープン(仮)しました。
仮とはいえ本格的に稼働しています。
 
経営者・個人事業主やシニア起業者の投稿をお待ちしております。
(いずれも姉妹サイトです)
 
 

奥州道道中唄  栃木県

江戸時代につくられた五街道の一つ、奥州街道は江戸千住から、奥州白河に至る街道(奥州道中)で、一般には                     

例弊使街道  栃木県

例弊使とは、京都の天皇家が伊勢神宮に派遣した勅使のことで、徳川時代になると、日光東照宮に権限を持たせる為、            

足利市  栃木県足利市

歴史は古く、藤原秀郷の六世の成行が、両崖山(りょうがいさん)に山城「足利城」を築いたのが天喜年間(一○五三〜五七)の

八木節  足利市

八木節は足利の八木宿(今の足利市御厨)あたりで盛んに歌われたことから、八木節といわれるようになったという伝えが

ばん阿寺  足利市家富町

八幡太郎源義家のひ孫、足利義兼がつくった館跡で、鎌倉時代の武家屋敷の状態をいまに残していることでも有名です。

栗田美術館足利本館  足利市駒場町

館内では江戸時代に作られた陶磁器、伊万里鍋島のみを展示しているのが特長で、収蔵品約一万点の中から三分の一が常時展示

足利学校跡  足利市昌平町

足利学校の起源についてはいろいろな説があります。小野たかむろが建てたとか、藤原秀郷のひ孫が創建したとか叉は、足利尊氏

宇都宮市  

街の歴史は大変古く、第一○代の崇神天皇の皇子・豊城入彦命が蝦夷征伐の折、この地をの基地とされました。当時は池ノ辺郷

宇都宮城  宇都宮市

戦前は、第十四師団司令部が置かれ、軍都としての名もありましたので、終戦直前に空襲で、市の大半は焼かれてしまいました。

蒲生君平  宇都宮市

宇都宮市は蒲生君平の誕生地です。寛政の三奇人の一人といわれる蒲生君平は、宇都宮の商家の子として生れました。君平が活躍した

石の里大谷  宇都宮市大谷町

多気山の麓に大谷石で知伊われる大谷があります。宇都宮市の大谷地区は古くから石の町として知られており、天平年間

大谷洞窟遺跡  宇都宮市大谷町

大谷寺の麿崖仏を保護するため勾昭和四十年に観音堂の防災工事を行ったのですが、この時、洞窟前の土の中から沢山の人骨や土器

平和観音  宇都宮市大谷町

大谷寺の麿崖仏の他に、この大谷には平和観音が祀られます。平和観音は昭和三十一年に開眼された観音像で、陸の松島、関東の耶馬渓

雀の宮神社伝説  宇都宮市雀の宮

雀の宮神社については、次のようなお話しがあります。昔々、一人の男がふとしたはずみに針を呑み込んでしまいました。針は胃にささり

多気不動明王  宇都宮市田下町

不動明王は、(多田満仲の子)に命じて、紀州の熊野(和歌山県熊野)の霊木で造らせた像で、始めは比叡山に祀られておりました。この

多気山城跡  宇都宮市田下町

多気山城は、今から九三○年余り前の康平六年(一○六三)に藤原宗円が築城した山城で、後に現在の宇都宮市内に城が移され、多気城

徳次郎城跡  宇都宮市徳次郎町

トクジロウと書いてトクジラと読む変った地名の所で、徳川時代には江戸から十八番目の宿場町として賑わった所です。この徳次郎の羽黒街

長岡百穴古墳  宇都宮市長岡町

六世紀頃につくられた横穴式の墳墓群遺跡です。凝灰岩の丘陵の斜面に、南向きにたくさんの穴があり、昔は百の穴を数えたといわれます

二荒山神社  宇都宮市馬場通り

宇都宮市内には宇都宮の基となった二荒山神社がまつられています。御祭神は豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)で、第十代・崇神天皇

宇都宮釣天井  宇都宮市本丸町

釣天井については真偽のほどがはっきりしておりませんでしたが、近年、この釣天井は作り話しであるということに落着いたようです。ことのあらまし

大田原市  

那須扇状地の南部にあたる大田原市は、かつては福原郷前室村と呼ばれていました。室町初期の明徳二年(一三九一)、関東管領足利氏満の

金燈篭  大田原市

旧奥州街道と西那須野街道が交差するところに金燈篭が建っています。この金燈篭は、文政二年(一八一九=江戸時代後期)、町内の安全の

那須与一宗隆  大田原市

那須与一は鎌倉時代前期の武士で、実名を宗高(宗隆)といいます。父は源義経の武将として、下野国那須荘を治めていた那須太郎資隆

与一まつり  大田原市

大田原市では毎年八月上旬に、夏祭り最大のイベントとして「与一まつり」が行なわれます。この大田原は那須与一が青年時代を過ごした場所

那須国造碑  大田原市湯津上

笠石神社には、国宝の那須国造碑がご神体として安置されています。碑はその形から笠石碑とも呼ばれ、日本三古碑のひとつとして名高い

高館城跡  大田原市大輪

標高三○二メートルの高館山に高館城跡があります。中世にこの地を治めた益子氏の城跡で、ただ今では二ノ丸、三の丸の土塁が残る

城鍬踊り  大田原市上石上

大田原市上石上地区には「城鍬踊り」という民俗芸能が伝えられています。城鍬踊りの起源は天文十四年(一五四五)、大田原城築城を終

雲巌寺・芭蕉  大田原市雲岩寺

臨済宗妙心寺派の雲巌寺は、武茂川の渓流を茨城県の八溝山(一○二二)を主峰とする、八溝山地を深く分け入った山麓にあります。

大雄寺  大田原市黒羽田町

大雄寺は、曹洞宗永平寺派の古刹で、応永十一年(一四○四=室町時代)黒羽藩主大関氏の菩提寺として、はじめ余瀬地区に創建さ

招魂社・黒羽神社  大田原市黒羽田町

明治十年(一八七七)、旧黒羽藩主大関増勤(けすのり)が戊辰戦争での戦死者をまつるために建立したものです。(境内には幕末の名君

常念寺  大田原市黒羽向町

芭蕉が黒羽より殺生石に行くとき、桃雪が馬で送ってくれました。その時、手綱をとっていた馬子が短冊を所望したので、芭蕉はその男の

大田原城跡  大田原市城山

大田原資清が、天文十四年(一五四五)に築いた平山城の大田原城です。いまでは土塁が残るだけですが、廃藩置県までの三二七年間

法輪寺  大田原市佐良土

貞観二年(八六○=平安時代)慈覚大師の開創と伝えられる古刹で、境内には本堂、大日堂天狗堂があります。天狗堂内には日本一と

玉藻稲荷神社  大田原市蜂巣

篠原にある玉藻神社も芭蕉ゆかりの地として知られたところです。この神社は玉藻の前に化けた、那須野ケ原の九尾の狐の伝説にちなむ

黒羽城跡  大田原市前田

黒羽城は天正三年(一五七五=室町時代)に大関高増によって築かれた山城の跡です。現在はその本丸、二ノ丸、北城跡や土塁などが

芭蕉の館  大田原市前田

黒羽城跡のふもとには芭蕉の館がひっそりとたたずんでいます。松尾芭蕉が”奥の細道”を旅した時、この黒羽に一番長く滞在(二週間)し

那須神社  大田原市南金丸

神仏分離以前の姿を残しており、この神社には楼門がついています。神社の起源は大変ふるく、仁徳天皇の頃(二九○~三九九)までに

光真寺  大田原市山の手

曹洞宗十四年(一五四五=室町時代)に、大田原資清が菩提寺として建てた寺で、境内には八代晴清以下の墓塔があります。また、地蔵

上侍塚古墳・下侍塚古墳  大田原市湯津上

湯津上村湯津上地区には五世紀ごろの三基の前方後方墳があります。このうちの上・下の侍塚古墳の二基は、江戸時代の元禄五年

思川の伝説  小山市

思川の近くに貧しいながらも心豊かな仲の良い夫婦が住んでおりました。ある年のこと、妻が病気になり、永いこと床に伏しておりました。

 

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長岡百穴古墳

 

小山市  

小山の町が築かれたのは、平安末期といわれ、藤原秀郷の子孫の小山四郎政光が、思川の近くに小山城を築いたのがはじめと伝えます

桑絹町  小山市

その名の通り昔から桑苗の産地として知られる所で、又、絹織物の生産がさかんな町です。ここで織られるつむぎ織は、おとなりの結城市

太平山  小山市

山の高さは三四三メートルで、大して高い山ではありませんが、頂上からの眺めは素晴らしく、地元では「陸の松島」とよんでおり、

千駄塚古墳  小山市千駄塚

古墳は、二段式円墳で、基壇の上に円錐型に土をもり上げ、基段の高さ五メートル、円錐型の部分の高さが七メートルあります。その両方

千駄塚の伝説  小山市千駄塚

昔、この地に「牧の長者」という大変な財産家がおり、家宝の掛軸が御自慢でした。その掛軸は白い鶏の画が書かれており、不思議なことに

鹿沼市  

古くは押原郷とよばれ、黒川と大芦川の流れる沼地の多い所でした。沼の周囲に茂るカヤが多く、近くの人々はこの地をカヤ沼とよぶように

磨墨ケ渕  鹿沼市

今から八百年以上前の昔、鎌倉時代に大変泳ぎの上手な馬がおり、その名を磨墨といいました。ある年、源氏の家臣・梶原景季がこの馬

二股山  鹿沼市

山の頂上が二つにわかれておりますのでこの名があります。山には雹除の神様がお祀りされております。雷と雹の被害が多いこの栃木

鈴木石橋生誕地  鹿沼市石橋町

徳川末期の漢学者で石橋町の生まれです。鈴木石橋は宝暦四年(一七五四)石橋町に生れ、漢学を学び、この鹿沼に私塾・麗沢之舎を

前日光県立自然公園  鹿沼市今宮町

鹿沼市の北西部にある石裂(おざく)山や横根岳、夕日岳などの足尾山地を中心とする自然公園です。その広さは鹿沼、足尾、粟野町の

御殿山公園・鹿沼城  鹿沼市今宮町

御殿山公園は、四六○年以上前に壬生から移った壬生氏が鹿沼城を築いた所で、大永三年(一五二三)から十年の歳月をかけ、天文元年

鹿沼今宮神社  鹿沼市今宮町

今から二八○年以上前の昔、日光の二荒山神社の神をこの鹿沼に分祀したもので、その後、鹿沼城完成の折に、城のまもりとして現在の

加蘇山神社  鹿沼市上久我

石裂(おざく)山の山腹には加蘇山神社があります。御祭神は磐裂命(いわさきのみこと)、根裂命ねさきのみこと)、武甕槌雄命

深山巴の宿  鹿沼市草久

深山巴の宿は、今から一二○○年以上前の昔に、勝道上人が修業なされた霊場で、勝道上人は巴の宿で修行された後.日光二荒山

金剛山金剛寺  鹿沼市草久

御本堂への石段の登り口にある立像は、勝道上人です。このお寺は、真言宗醍醐派に属し、古峰ヶ原金剛教会とよばれ、不動明王を祀り

古峰ケ原の伝説  鹿沼市草久

古峰ケ原の古峰神社は天狗信仰のお山で、そ古峰ケ原の古峰神社は天狗信仰のお山で、その信者は関東から奥州一円と言われます

古峰神社  鹿沼市草久

古峰神社の御祭神は日本武尊で、その由来は、今から凡そ一千数百年の昔、日本武尊に仕えた藤原隼人が、尊の御威徳を慕いつつ

鹿沼自然盆栽公園  鹿沼市下沢

園内は、サツキを中心とした各種盆栽の展示場や、ナラ、クヌギなどの雑木林、一○○○種にのぼる山野草の大群落地帯、ミズバショウ

鹿沼市引田  

古くから大麻の栽培がさかんでしたが、今日では、ほとんど作られておりません。昔の鹿沼地方は大麻づくりが大変さかんで、その製品は

「足尾」という地名  上都賀郡足尾町

一般にいわれているのに”ねずみの話”があります。むかし、「勝道上人」が日光の寺にいたとき、あるとき一ぴきの”ねずみ”が、粟や

足尾町  上都賀郡

渡良瀬川の源流足尾町は江戸時代より、銅山の町として栄えてきたところです。慶長十五年(一六一○)に発見された足尾銅山は、明治

塩原町関谷  

塩原町関谷は、大変古くから開けた集落です。それは、今から八○○年以上前も昔のことで、第八一代・安徳天皇の頃

白旗城跡  黒羽町余瀬字白旗

余瀬地区は関街道の粟野宿といったところで、奥羽街道に併行した脇往還でした。その昔、奥羽の討伐に来た源頼義・義家父子らの軍勢が

佐野市  

栃木県の南西部にあたる佐野市は、古くは渡良瀬川の左岸にあるところから、”左の野”左野と呼ばれていました。佐野は古い歴史を持つ

鉢の木  佐野市

能の名曲に「鉢の木」という謡曲があります。この物語は、或る雪の夜、上野(こうずけ)の国佐野の里に住む、源左エ門常世の貧しい

三毳山・万葉歌碑  佐野市

「志(し)も津けぬ美可母の山の小楢(こなら)の寿(す) まぐわし児ろは誰(た)が笥(たけ)か持たむ」の万葉歌碑がたてられており、

田中正造  佐野市小中町

佐野市小中町には、県の史跡、田中正造の生家があります。正造は天保一二年(一八四一)に庄屋の家に生まれ、明治一三年に栃木

沼の原の伝説  塩谷郡片岡村

昔、塩谷郡の片岡の在に、箭中(やなか)太郎兵衛という若者がおりました。太郎兵衛は大変働き者で、両親を亡くしてから一人で家を守って

肘の内  塩谷郡塩谷町

この地名は、ディラン坊が肘をついた所と言い伝えがあり、また鬼怒川を少し下った所には、、ディラン坊の足跡といわれる沼も残り

高勝寺  下都賀郡岩舟町

宝亀八年(七七七)に建立された岩舟山高勝寺は、岩舟山の頂山にあり、唐金の作りの延命地蔵尊を本尊としています。現在では縁結び

慈覚大師誕生の地  下都賀郡岩舟町

幼名を丹仁といい、比叡山延暦寺の第三代座主になった人です。大師九歳の時に大慈寺にあずけられ、僧広智のもとで修業し、数年で

国分寺町小金井  下都賀郡国分寺町

この町の小金井には国の史蹟に指定される、小金井の一里塚が残っており、江戸から二十二番目(八八キロメートル)の一里塚で、

金売吉次の墓  下都賀郡壬生町

金売吉次は平安時代の末のこと、鞍馬山時代以来の牛若丸のちの源義経を平泉まで案内したと伝えられる奥州平泉のおもに金をあつか

開雲寺  下野市石橋

真言宗智山派に属する寺で、徳川時代の元和・寛永年間に日光東照宮が完成しますと、江戸から日光社参の将軍家の休憩所となり、

下野国分寺跡  下野市国分寺

国分寺は、今から一二四○年以上宇前の天平十一年(七四一)に、聖武天皇の勅願により建立されたお寺で、て統日本国内を仏教思想に

薬師寺跡  下野市薬師寺

下野の薬師寺跡です。現在は、南河内町の一部にある安国寺の境内になっておりますが、かつての下野薬師寺は日本三戒壇院の一つに

関の明神  白河市白坂

芭蕉の”奥の細道”の出発点にあたり、県境にあることから地元では境の明神とも呼び、古くは奥州街道を旅する人の安全を守る神と

奥白根山・五色沼  栃木県と群馬県の境

標高二五七八メートルで、栃木県と群馬県の境にある活火山です。日光の山々の中では一番高く、那須火山帯に属しており、別名を日光白

大中寺七不思議  栃木市大平町

・東山一口拍子木 ・根なしの藤 ・油坂 ・不断のかまど ・馬首の井戸 ・不開(あかず)の雪隠(せっちん) ・枕返しの間

渡良瀬遊水池・足尾銅山事件  栃木市藤岡町

渡良瀬川沿岸の農民たちは、洪水のたびに足尾銅山から流れ出る鉱毒のために、長い間生活をむしばまれ、おびやかされてきました

 

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足尾銅山廃工場

 

鬼怒川 栃木県と福島県の県境

鬼怒川は、栃木県と福島県の県境の山間部に源を発し、途中湯西川、男鹿川、大谷川などの支流を合して関東平野を南下し、茨城県

烏山城下町  那須烏山

烏山で城下町らしい屋敷のおもかげの残るところは、中央一丁目の十四軒町通りから、それに平行する泉渓寺通りの中ほどにある

烏山の簗漁  那須烏山

関東一の鮎の川として人気があるのが那珂川で、鮎の解禁日ともなれば、大公望たちが「友釣り」「どぶ釣り」と競い合う姿がみられます

烏山和紙   那須烏山

烏山の手漉き和紙の歴史は古く、遠く奈良時代までさかのぼるといわれています。鎌倉時代の建保年間(一二一三〜一八)に、那須氏が

伝説「蛇姫様」  那須烏山

その昔、下野国烏山三万石の城主大久保忠胤に、才色兼備の誉れ高い、阿志賀姫(小説の琴姫のモデル)がおりました。姫はとくに

八雲神社  那須烏山

今から四百余年前の昔、戦国時代の永禄三年(一五六○)のことです。全国的に飢謹にみまわれ、烏山地方に疫病が流行したことが

山あげ祭  那須烏山

山あげ祭りは永禄三年(一五六○)、疫病などの災厄をのぞくため、城主那須資胤が八雲神社を建立し、そのときの余興として奉納したの

烏山城跡  那須烏山市城山

江戸時代享保十年(一七二五)、大久保常春が城主となってから、廃藩置県が行なわれるまで大久保氏が七代にわたってその居城と

太平寺  那須烏山市滝

明治維新までの一五○年間、藩主をつとめた大久保家の菩提寺です。延暦二十二年(八○八)、坂上田村麻呂が蝦夷討伐のとき、戦勝を祈願して

龍門の滝  那須烏山市滝

幅は六十五メートル、高さ約二○メートルの大滝で、滝の中段には女釜・男釜と呼ばれる浸食穴があいています。滝つぽの展望台から

天性寺  那須烏山市南

天性寺は那須氏の菩提寺で、明応九年(室町時代・一五○○)、天耕和尚の開山と伝えられています。那須高資(たかすえ)はこの寺

那須五岳  那須郡

茶臼岳に向って右に並ぶのが朝日岳一九○三メートル)で、三本槍ヶ岳(一九一六・九メートル)は、茶臼岳と朝日岳の後になります。

那須の山々  那須郡

大昔は、この那須の山々も、那須野ヶ原も、深いふかい海の底でした。それは、新生代第一二紀時代という太古のことで、その頃海に棲んでいた

小川町  那須郡

小川町は那珂川の河岸台地にのびやかに広がり、数多くの古墳や史跡があちらこちらにみられ、すでに縄文時代中期から発展し               

那須八幡塚古墳  那須郡小川町

那珂川の中流域は那須国の中心であったことから大形の古墳や注意すべき古墳が多数あります。その一つ那須八幡塚古墳は前方

烏山町  那須郡

烏山・大久保藩三万石の古い城下町は、「平家物語」の扇の的で有名な那須余一の後裔である那須氏ゆかりの地でもありました。遠く

黒羽町  那須郡

黒羽町は大雄寺や雲厳寺の古刹、それに松尾芭蕉の”奥の細道”でも知られた、しずかなたたずまいをみせる城下町です。大関氏

浄法寺廃寺  那須郡那珂川町

官衙跡の北三五○メートルのところに浄法寺廃寺跡がありますが、この寺は白鳳期の瓦を出土する古い寺のあとで、伽藍配置や規模など

馬頭温泉郷  那須郡那珂川町

馬頭には、那珂川の上流にそって、小口の湯、広瀬の湯、美玉の湯という三十八度の冷泉が湧き出ています。那珂川での釣や山菜とりを楽しむ

駒形大塚古墳  那須郡那珂川町

全長六○・五メートルです。小川町小川にある前方後方墳の駒形大塚古墳からも、考古学上貴重な、画文帯四獣鏡(がもんたいしじゅうきょう)

那須官衙跡  那須郡那珂川町

那珂川と箒(ほうき)川との合流点付近の小川町梅曽(うめそ)に国の史跡の那須官衙跡があります。昭和四十二年におこなわれた発掘調査で

那須八幡塚古墳  那須郡那珂川町

富士山古墳の北、一○○メートルほどのところにあるのが那須八幡塚古墳です。この古墳は全長六○・五メートルの前方後方墳で昭和二十八年

吉田温泉神社古墳  那須郡那珂川町

吉田温泉神社古墳は前方後方墳で、鉄のおのや土師器が出土しており、四世紀代の古墳として知られています。平成二年の発掘調査により

唐の御所横穴古墳  那須郡那珂川町

北向田・和見・小口地区は、古代の横穴古墳が数多く見られるところです。ここにあるのは唐の御所と呼ばれる横穴古墳で国の史跡に指定されて

健武山神社  那須郡那珂川町

武茂川の流れに沿って、杉やケヤキにかこまれた森の中にひっそり建つのは健武山神社です。「続日本紀」によりますと、この神社周辺で砂金が

小砂焼  那須郡那珂川町

小砂地区では、栃木県の特産一○○選にあげられている焼物小砂焼がつくられています。安政元年(一八五四)良質の陶土に目をつけた水戸

馬頭町  那須郡那珂川町

馬頭町は、那珂川が町の西側をながれ、町の大部分は八溝山地の台地の上にあります。街として形がととのったのは、鎌倉時代が終ろうとする頃

乾徳寺  那須郡那珂川町

曹洞宗の竜沢山乾徳寺です。明応八年(一四九九=室町時代)、武茂兼綱が一族の守護寺として建てたのがこの寺で、本堂裏の墓地に武茂氏の

馬頭院  那須郡那珂川町

真言宗智山派です。乾徳寺と境内をとなり合わせるように町名の由来となった馬頭院があります。馬頭院は建保五年(一二一七=鎌倉時代)、

静神社  那須郡那珂川町

馬頭院と乾徳寺の間に静神社がありますが、ここは武茂(むも)城跡の一部で、木立のなかに土塁と堀跡をみることができます。隣りに建つ

神田城跡  那須郡那珂川町

神田城は、那須氏の始祖となった那須権守藤原貞信が平安時代の後期、寛治三年(一○八九)に築城したものといわれています。貞信は以後

鷲子山神社  那須郡那珂川町

栃木県と茨城県の県境にあるのは高さ四○三メートルの鷲子山で、山頂には鷲子山神社があります。社伝によれば、大同二年(八○七・平安時代

那須御用邸  那須郡那須町

那須御用邸は、大正十四年(一九二五)に建てられました。今は亡き昭和天皇は、植物学者であらせられたので、この那須の御用邸を大そう気に入

那須町  那須郡

鎌倉時代の初めより那須一族によって治められていたところで、旧陸羽街道(現国道二九四号線)ぞいに昔の面影をとどめています。那須

遊行柳  那須郡那須町

芦野温泉神社の鳥居前にある柳の木は、”遊行柳”といい、謡曲「遊行柳」でしられ、西行法師もこの地で歌をよんだといわれています。芭蕉

三森家住宅  那須郡那須町

江戸時代中期の建物で名主と問屋をかねていた旧家です。昭和四十三年に主屋と長屋門が国の重要文化財に指定されました。

専称寺  那須郡那須町

ここは鎌倉時代の延応元年(一二三九)に伊王野資長が築いた伊王野城がありましたが、寛永十年(一六三三=江戸時代)に伊王野氏が断絶しては

北温泉  那須郡那須町

北温泉は、余笹川に沿い、三方を山に囲まれた温泉で、その発見は古く、元禄九年といわれ、泉質は単純泉で五○度〜五五度のお湯が余笹川

九尾の狐  那須郡那須町

殺生石にまつわる九尾の狐の伝説です。昔、イソドに斑足王(ばんそくおう)という王様がおりました。その夫人に白面金毛九尾の狐が乗り

教伝地蔵  那須郡那須町

教伝石は高さ二・五メートル、横巾六メートルもある大石で、石の上には石仏と碑が乗っています。昔、教伝という年若い僧がおりました。

 

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那須連峰

 

駒止の滝  那須郡那須町

駒止の滝の名は、黒羽藩主・大関氏が愛馬に乗ってこのあたりまで登ってきたとき、あまりに周囲の景色がすばらしいので

殺生石  那須郡那須町

賓の河原の一隅、左の奥、山裾に殺生石があります。九尾の狐の伝説で知られる殺生石は、黒い輝石安山岩で、付近一帯には

大丸温泉  那須郡那須町

標高一三○○メートルの高所にあり、白戸川をせき止めた露天風呂に人気があり、別名を川の湯とよばれます。この温泉は、今から

高雄温泉  那須郡那須町

高雄温泉は、南月山や黒尾谷山の那須五峰をひかえ、標高一一○○メートルの地にある展望の良い温泉場です。付近には、紅葉の滝

茶臼岳  那須郡那須町

標高一九一七メートルあり、茶臼岳を中心に、三本槍ケ岳、朝日岳、南月山、黒尾谷山がつらなり、この五つを那須五峰と呼びます

那須温泉郷  那須郡那須町

那須温泉は、那須岳の中腹にひらけており、湯本、高雄、弁天、大丸、北、板室、三斗小屋など、古くからある那須七湯と、新しくひらか

那須見立神社  那須郡那須町

那須温泉を発見した狩野三郎行広を祀っております。那須温泉の由来にある温泉神社は、この見立神社の続きにあり、松尾芭蕉も奥

弁天温泉  那須郡那須町

苦戸(にがと)川に沿う静かな山の出湯で、那須十一湯の一つに数えられ、無色透明な五五度のお湯が苦戸川にあふれでて、天然の温

盲蛇石伝説  那須郡那須町

賽の河原に残る伝説です。昔、那須温泉に五左衛門という年老いた湯守がおりました。毎年、毎年春から冬の初めまで行人の湯や鹿の

八幡温泉  那須郡那須町

春はれんげ、山つつじ、どうだんつつじの大群落が見事で、五月中旬から六ロ刀上旬にかけて、この付近一帯は紅一色に染まり、お湯の

喰初寺  那須郡那須町

新那須温泉の入口には、日蓮宗の喰初寺があります。今から七三○年以上前の昔、文永二年(一二六五)の春のことです。日蓮上人は

南ケ丘牧場  那須郡那須町

那須山麓には、観光牧場が沢山ありますが、そのなかでも有名な牧場の一つです。ここには、ガンジー種の乳牛を始め、馬の放牧や緬羊

雲照寺(那須大師) 那須郡西那須野町

明治の高僧雲照律師がひらいた雲照寺が烏ガ森の西にあります。この寺は明治二十年、那須開拓団の精神的なよりどころとして建てられ

湯津上村  那須郡

那珂川流域一帯を八溝県立自然公園に指定されている湯津上村は、古代には那須国の中心地と思われるところで、数多くの遺跡や

蟇石園地  那須塩原市

形が蟇(がま)がえる似ているため、この名があります。一名を送り迎え石と呼び、温泉に見えるお客様をお迎えし、お帰りのお見送り

烏ガ森公園  那須塩原市

標高二八○メートル余りの小高い丘にあります。頂上には烏ガ森神社がまつられ、那須野ガ原や那須連山を一望することができ、広い

塩原街道  那須塩原市

徳川時代以前から利用されて来た道です。なかでも、徳川時代には福島県会津地方と、下野(栃木県)の太田原や、黒羽、そして氏家の

塩原七不思議  那須塩原市

1.逆さ杉:大杉二本天然記念物  2.冬の蓼(たで):源三窟付近の山中に散在  3.一夜竹:八幡神社にあり、一夜にて若竹となる

那須疎水  那須塩原市

那須野ヶ原は、徳川のころから幾度か開墾のための水路の開発が計画されました。しかし、火山礫のつもる荒地で、水路の工事も思うよう

那須野ケ原  那須塩原市

平均標高は五○○メートルほどです。昔は大変な荒地で、冬は雪が多く、風も強く、作物といえばヒエか粟ぐらいしか出来ない所でした。

須野ガ原と那須疎水  那須塩原市

西那須野駅前からの道は塩原街道です。この塩原街道は那須岳の麓にひらける那須野ガ原を横断する道で、昔は不毛の原野といわ

板室温泉  那須塩原市

古くより下野(栃木県)の薬湯として知られる板室温泉は、今から九○○年以上前に発見された古い温泉場で、お湯は三七度〜四六度と

沼ッ原湿原  那須塩原市

この湿原は、那須五峰の一つ、南月山や白笹山などの西側中腹にひらける湿原で、板室温泉からも登山コースがあります。高山植物の

塩原城跡  那須塩原市

箒川の奥に、上塩原の要害という所があります。この要害には、かつて塩原城があり、塩原の名のおこりとなった塩原氏の居城でした。

材木岩  那須塩原市

この材木岩には、弘法大師にまつわる伝説があります。弘法大師がこの眺めのよいところに一夜の中にお堂を建てようと沢山の材木を

塩原温泉   那須塩原市

塩原温泉は、高原山の北の麓を流れる箒川(ほうきかわ)の渓流と、岩間を縫って落ちる数条の滝、そして、いたる所に湧く温泉に恵まれ

白羽坂  那須塩原市

小説・金色夜叉の一節に「白羽坂をこえてより、回顧(みかえり)橋に三○尺の飛瀑を踏みて、山中の景は初めて奇なり。これより行きて

稚児ヶ渕  那須塩原市塩原

昔、美しい稚児が、新しく召された稚児のため、仕える僧の寵愛を失ない、淋しさのあまりこの洲に身を投げたので、稚児ヶ渕と呼ばれる

天狗岩  那須塩原市塩原

「白倉山」を天狗岩とよんでおります。この岩の頂上には、昔得体の知れぬ怪物がすんでいて、通行人をなやましたので、里人達は

左靭の険  那須塩原市塩原

靭(うつぼ)とは入れる道具の事をいいます。白雲洞のこの辺りは、明治十七年に白雲洞が出来る以前は細い道を通るほかなく、雪の日

源三窟  那須塩原市塩原

鍾乳洞で洞窟の中には有綱(ありつな)神社があります。昔、源三位頼政の孫に当る、伊豆冠者田代有綱が鎌倉との戦いに破れて、こ

高尾塚  那須塩原市塩原

江戸吉原のおいらんで知られた、三浦屋の二代目万治高尾は、この塩原で生れました。万治高尾が亡くなってから一五○年の後に

清琴楼  那須塩原市塩原

この宿は、尾崎紅葉が金色夜叉を執筆した旅館です。明治三十二年の夏、尾崎紅葉は金色夜叉を書き上げるため、この塩原温泉の畑

妙雲寺  那須塩原市塩原

妙雲寺は、平重盛の乳母妙雲尼が壇の浦の戦いにやぶれたため源氏に追われこの地に逃げのび、重盛が信心していた釈迦像を祀った

大山巌元帥の墓所  那須塩原市下永田

那須野を愛した、薩摩(鹿児島)出身の軍人で、日露戦争に満州軍総司令官として出征した大山巌元帥のお墓があります。明治十四年

乃木神社  那須塩原市石林

日露戦争で活躍した陸軍大将乃木希典をまつる神社です。乃木夫妻は明治二十四年(一八九一)、親戚から譲りうけたこの地に別邸を

黒磯市箭坪  

箭坪という地名については、弓の名手・那須与一宗隆に由来した話が残っています。昔、この地は、二本杉とよばれており、大きな二本の

千本松農場  那須塩原市千本松

この那須野ヶ原には沢山の牧場や農場があますが、この千本松農場もその一つです。不毛の地と言われた那須野ヶ原に那須疎水が開削

千本松牧場  那須塩原市千本松

牧場にはたくさんの赤松が自生し、ホルスタイソ種がのんびりと草をはむ姿がみられます。その中にゴルフ場、テニスコート、釣堀などが

逆杉と八幡宮  那須塩原市中塩原

八幡宮境内に逆さ杉がありますが、今からおよそ九○○年以上の昔(一○五一〜六二)前九年の役の折、源頼義親子がここに立ち寄り

 

茶臼岳.jpg

 

茶臼岳

 

木ノ葉化石園 那須塩原市

塩原温泉の入口、関谷から中塩原にかけて、貝化石や植物化石が発見されます。貝化石というのは、地質年代から言います

常盤ガ丘  那須塩原市

西那須野駅の南約二キロにある”二つ室”には、「常盤ヶ丘」というところがあります。ここは那須野ガ原の開拓に着手した印南丈作

木ノ俣地蔵の伝説  那須塩原市百村

昔、この那須地方を治めていた那須三郎宗重は、尊い地蔵尊を見つけ大切にしておりました。その後、この地蔵尊は奥州に渡

三斗小屋温泉  那須塩原市百村

三斗小屋温泉は、一四五○メートルの高所にある温泉で、江戸時代の文化、文政の頃から湯治客が訪ずれた古い温泉です。

湯宮伝説  那須塩原市

蛇尾(さび)川の上流に黒磯市の湯宮(ゆぐう)があります。ここには弘法大師にまつわる伝説が残っております。昔、諸国巡錫の弘法大師が

新湯温泉  那須塩原市湯本

この温泉は、塩原富士と言われる硫黄山の中腹にある火口に、谷の水を注いでお湯を湧かしているのです。硫黄泉のため、お風呂は木材で

那須疎水記念碑と開墾記念碑  那須野ガ原

那須野ガ原の開拓にあたった人々の功績を永久に伝えるために、町民が中心となって造られたのが那須疎水記念碑と開墾記念碑です。

川治温泉  日光市

川治温泉は、今から二七○年以上昔に発見された温泉です。それは徳川時代の享保八年(一七二三)のことでした。この地を流れる男鹿川上流

含満ケ淵  日光市

今から一○○年以上前の昔、日光の男体山をきわめた勝道上人が通られた道すじと伝えられる所です。勝道上人が日光に入られた道筋は、

平家の落人部落  日光市

栃木県の塩谷郡の一部にあり、県の北西部に位置して、西は群馬県に、北西は福島県と境をなす村です。古くより平家の落人部落として知られ

黒髪平  日光市

海抜一七○○メートルほどで、イロハ坂の中では最も展望の良い所です。はるか遠くに目を移しますと、関東平野が広々とのぞまれ、その中ほどに

鶏頂山神社  日光市

鶏頂山頂の神社には猿田彦命が祀られており、毎年旧暦の四月八日にお祭りが行われます。この神社は昔から、川治や高原部落の鎮守様で、

高原開拓集落  日光市

釈迦岳の近くには、一三○○年以上前の昔から人々が住んでいました。その後、万治年間(一六五九)といいますから今からおよそ三○○年

上野島  日光市

中禅寺湖の中ほどの小さな島が上野島です。中禅寺湖では唯一の島で、周囲は百メートルの小さな島です。島には勝道上人の分骨と、天海僧上の

丹勢山  日光市

男体山に向って右に続く低い山は丹勢山です。海抜は一四八二メートルあり、野生猿の棲息地として知られます。なお、この丹勢山には大きな風穴

中禅寺湖  日光市

中禅寺湖は標高一.二七一メートルの高所にある湖で、周囲二三・六メートルの細長い湖です。明治のころには幸の湖とも呼ばれましたが

男体山  日光市

男体山は、海抜二四八四メートルあり、日光連山の中では最も姿の美しい山として知られ、昔は山岳信仰の霊地として修験者以外寄せつけ

日光について

日光の歴史は大変古く、千二百年以上昔にさかのぼります。天平神護二年(七六六)に栃木県生れの僧・勝道(しょうどう)上人が男体山の

日光の杉並木  

日光の杉並木は、今から三五○年以上前、日光東照宮御造営の折に植えられました。その当時、各地の大名達は、高値な品々を競て東照宮

藤原町小原・平家の落人  日光市

街道のところどころに人里が見られその名も優しい大原、小原、藤原と、京都郊外をしのぱせる地名が見られます。鬼怒川や湯西川、そして

八汐の話  日光市

藤原町(現:日光市)は平家落人の里として知られるところです。「八汐おどりは 落人おどり 遠い平家の 昔から昔から」今からおよそ八○○

湯の湖  日光市

周囲三キロ、深さ一二メートルの小さな湖ですが、海抜一、四七八メートルの地点に、日光連山を写し、静まりかえった湖は、雑音に明け暮れ

竜王峡  日光市

大きな岩の問を流れ下る虹見の滝を始め、流れをさかのぼる三キロメートルの散策道も設けられております。途中には竪琴の滝や、白竜ヶ渕、

日光江戸村  日光市 柄倉

一五万平方メートルの敷地内に、江戸時代の風俗文化をとり入れた街なみが再現し、村内には、関所や街道、そして宿場町、武家屋敷

上三依一里塚  日光市・那須塩原市

上三依の一里塚は、会津西街道と尾頭峠越えの旧塩原街道の追分に置かれた一里塚でした。天和三年(一六八三)の日光大地震により、

 

今市  日光市

日光国立公園の表玄関に当る街で、徳川時代は日光街道の宿場町として賑わい、日光街道を中心に、例幣使街道や日光西街道の集まる

 

お線香の話  日光市今市

今市周辺はお線香づくりがさかんです。お線香には、蚊とり線香や、お仏壇に、ともすお線香など、いろいろありますが、この辺りで作られる

二宮水田  日光市今市

この辺りには二宮尊徳の指導によって引かれた宝木用水が流れており、その用水が引かれた事によって水田を開くことが出来た所なのです

追分地蔵  日光市今市

大変大きな地蔵菩薩像で、日光に向ってお坐りになられ、その高さは三メートルもあります。ここは日光例幣使街道と、この日光街道が岐れる

日光円蔵の墓  日光市今市

回向庵境内には、国定忠治の小説や浪曲でおなじみの日光の円蔵の墓があります。「名月赤城山」で活躍した忠治と共に赤城山にこもり、

如来寺・二宮尊徳の墓  日光市今市

如来寺は、およそ四五○年以上の歴史あるお寺で、日光東照宮の時に、三代将軍家光が境内の一部に館を建て将軍家日光社参の折の休息所

会津西街道  日光市今市から福島

福島県の会津若松と関東地方を結ぶ重要な街道でした。街道としての歴史は古く、すでに鎌倉時代から利用されており、明徳五年(一三九

 

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平家の落人部落・湯西川温泉

 

柄倉  日光市

柄倉は、サクラ草の大群落で知られ、春四月下旬から五月にかけていっせいに花をつけ、鬼怒川探勝の人々の目を楽しませます。なお、今

六題目の碑  日光市柄倉

藤原町柄倉には「六題目の碑」といわれて、南無妙法蓮華経の経の字のない大変妙な碑があります。昔、ここで船頭が船賃のことで、十二人の

大沢御殿跡  日光市大沢

大沢に置かれた将軍家の御殿は、日光社参の折に徳川将軍が休息された所でした。今日では、小さな立札がひっそりと立ち、華やかだった

川俣温泉  日光市川俣

川俣温泉は、鬼怒川の上流にひらけた静かな山里の出湯で、平家の落人がかくれ住んだ里と伝えられます。鬼怒川の水をたたえる川俣湖に

鬼怒川温泉  日光市鬼怒川

元禄元年に沼尾重平という人が鬼怒川を渡る時に、両岸の滝にお湯のわいているのを発見したもので、もとは滝の湯とか下滝温泉とよばれまし

逆川  日光市鬼怒川温泉滝

光徳沼から湯川に向って流れます。戦場ケ原より標高の高い湯川に向って流れるために「逆川」の名があります。

清滝神社  日光市清滝

昔は千手観音がお祀りされており、清滝観音とよばれて信仰を集めた所でした。清滝の千手観音は、二荒山をお開きになられた勝道上人が

霧降の滝  日光市霧降

霧降の滝は日光三名爆の一つに数えられる滝で、落差は七五メートルあります。滝は、鬼怒川の支流の一つ、板穴川が、石英斑岩の岩壁

五十里湖の成立  日光市五十里

江戸時代の始め頃、男鹿川のほとりに五十里村という小さな集落がありました。平和に明け暮れるこの里は、ある日山津波に襲われ、男鹿川

大笹牧場  日光市瀬尾

この牧場は海抜一○○○メートルから一四○○メートルの高原にひらかれた牧場で、面積三六二ヘクタールに及ぶ全国でも屈指の乳牛飼育

中禅寺・立木観音  日光市中禅寺

創建は延暦一二年(七八四)と伝えられる古いお寺で、日光開山の勝道上人が立木のまま観音像を彫んで安置したところから、一名を

金精神社  日光市と群馬県

金精神社は一名を金精さまと呼ばれ、昔から子さずけの神として信仰されております。子供に恵まれない女性が命がけでお山に登り、願かけ

霧降高原  日光市所野

日光連山の一つ赤薙山の東南斜面にひらける高原で、海抜一二三○メートルほどの高原です。高山植物の宝庫になっており、日光キスゲを

独鈷沢、弘法清水  日光市独鈷沢

弘法大師(空海)の伝説は、全国各地にありますが、この地方に残る伝説によりますと、昔、一人の旅の老僧が、この山里の部落を通りかかり

光徳牧場  日光市中宮祠

光徳牧場は三万平方メートルの小さな牧場ですが、五月から十一月にかけて放牧された牛や馬が草を食む牧歌的な風景が見られ、男体山や

戦場ケ原  日光市中宮祠

戦場ケ原は標高一四○○メートルの高所にひらける湿原と草原の地帯で、奥日光の中心をなしています。昔々、男体山が噴火して、湯川を堰

戦場ケ原の伝説  日光市中宮祠

昔々、神代の頃のことです。下野国(今の栃木県)にある男体山の神様と、上野国(今の群馬県)にある赤城山の神様が美しい中禅寺湖を

女人堂  日光市中宮祠

山岳信仰のさかんな昔は、女人禁制の地として女性の登拝は許されませんでした。そのため、女の信者はこの女人堂から上に登ることが出来

竜頭の滝  日光市中宮祠

この滝は直下型の滝ではなく、湯の湖から流れ出す湯川が男体山の溶岩の斜面をすべり落ちるもので、大岩を噛んで流れ落ちる姿が、

華厳滝  日光市中宮祠

華厳滝は日本の代表的な名爆の一つで、高さ九九メートル、幅一○メートルです。男体山の噴火による溶岩が幾重にもかさなり、その岩壁の

中禅寺  日光市中宮祠

男体山をお開きになった勝道上人が、今から千二百年以上前の延暦三年(七八四)に建立されたお寺で、その当時は二荒山神社の中宮祠

高原山  日光市藤原

標高一七九五メートルの釈迦ヶ岳を主峰として、鶏頂山、御岳山、西平岳の釈迦ヶ岳火山と、前黒山、明神岳、富士山のつらなる塩原火山を

輸王寺  日光市山内

奈良時代の末期、勝道上人が中禅寺湖畔に神宮寺を建てたのがはじまりで、のち四本竜寺、あるいは満願寺などと称し、更に維新後は

東照宮の御神体  日光市山内

日光に徳川家康を祀る東照宮が造営されると、日光社参の旅人の往来も多くなりました。明治戊辰の役(一八六八)に、日光を守るために集結

神橋  日光市山内

古くは勝道上人の日光開山にまつわる伝説から、上菅の蛇橋とよぱれていました。日光二荒山神社の建造物です。寛永十三年(一六三六)

二荒山神社中宮祠   日光市山内

二荒山神社の御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)とその妃にあたる田心姫命(たごりひめのみこと)、さらに、この二神の御子にあたられ

坐子石  日光市山内

朱塗の大鳥居は二荒山神社の大鳥居で、鳥居の右下の囲いが坐子石です。昔、二荒山神社が女人禁制のころ、そのおきてを破って登拝

平家落人の里  日光市湯西川

湯西川温泉は、山にかこまれた静かな温泉郷です。そしてここは、平家落人の里としても知られています。壇の浦の戦に敗れた平家の残党は

湯西川温泉  日光市湯西川

平家の隠れ里といわれる湯西川温泉は、男鹿川の支流、湯西川の源流に近い谷間に二○軒あまりの宿と、露天風呂、共同浴場がひっそりと

湯西川温泉・伴久旅館  日光市湯西川

温泉は平家落人の子孫によって発見されたといわれ、現在でも伴久旅館には平家に関する遣品が保存されております。裏日光の湯西川温泉

奥日光湯元温泉  日光市湯元

この湯元温泉は、今から一、二○○年以上前、日光を開山した勝道上人に主って開かれたもので、日光の一番奥にあって金精峠、三つケ岳

日光湯元温泉  日光市湯元

この温泉は今から一二○○年以上前の昔、勝道上人が発見されたと伝えられ、近在の人々の湯治場としてしたしまれて来た温泉です。温

日光国立公園  

古くより、「日光見ずして結構と言う勿れ」と、その美しさをたたえられる日光は、昭和九年に我が国四番目の国立公園の指定を受けた所です

青木繁  芳賀郡芳賀町

芳賀町は、明治時代の洋画家・青木繁ゆかりの地です。青木繁は明治の中ばから末にかけて活躍した洋画家で、代表作には房総の漁の風景

風戸古墳  芳賀郡益子町

県の史跡に指定された風戸塚古墳が残されています。山林のなかにある円形古墳で、完全な墳形を残していることで知られています。

西明寺  芳賀郡益子町

高館山の中腹にあり、坂東三十三ヶ寺の第二十番の札所にあたります。お寺がひらかれたのは天平九年(七三七)で、僧・行基が十一面

地蔵院  芳賀郡益子町

建久五年(一一九四)、宇都宮・左衛門慰朝綱の建立したお寺で、宇都宮氏の菩提寺です。大正五年(一九一六)尾羽寺の阿弥陀堂を移して

芳賀富士  芳賀郡益子町

茂木町と益子町の境にある山は、標高二七一・七メー‐トルの芳賀富士で大平山ともいいます。芳賀富士の中腹には、カシの林につつまれた

益子砥園祭  芳賀郡益子町

益子町には毎年七月二十三日から二十五日にかけておこなわれる奇祭”益子祇園祭”が知らています。この祭りは、江戸時代後期の嘉永六年

益子町  芳賀郡

古く中世の頃は益子氏の城下町でしたが、その後、製材、米、たばこの産地として栄えて来ました。この地に陶芸が盛んになったのは、それほ

綱神社 芳賀郡益子町

現在の地蔵院本堂のすぐ近くには、綱神社と大倉神社があります。綱神社は宇都宮朝綱が建久五年(一一九四)土佐(高知県)に

地蔵院  芳賀郡益子町

高館の城跡の東にあるのが大羽の里と呼ばれるところで、そこには宇都宮氏累代の菩提寺や墓があります。地蔵院は宇都宮の三代城主

円通寺  芳賀郡益子町

室町時代の初期、応永九年(一四〇二)に良栄上人によって開かれたのが浄土宗大沢山虎渓院円通寺です。良栄は、ここに大沢文庫と

入定塚古墳  芳賀郡益子町

円通寺の裏山には、県の史跡入定塚古墳があります。古墳は前方後円墳で、後円部は前方の部分よりやや低く、墳形は完全に保たれています。

小宅古墳群と亀岡八幡宮  芳賀郡益子町

亀岡八幡宮の境内には県指定の史跡小宅古墳群があります。八幡宮の東西の丘陵上に十八基の古墳群がみられへうち五基が前方後円墳

陶器市  芳賀郡益子町

益子の陶器の歴史は、大変古く、窯跡から推定して奈良時代までさかのぼるといわれ、江戸時代末期の嘉永六年(一八五三)に大塚啓三郎が

陶芸の森  芳賀郡益子町

周囲をアカマッの林に囲まれ、一・七キロメートルの自然歩道があり、天体観測所や展望台などがあり、国民保養セソター‐は気軽に利用で

陶芸メッセ・益子  芳賀郡益子町

益子焼の歴史や資料、作品を紹介しているのが”陶芸メッセ・益子”です。園内には町の重要文化財にもなっている浜田庄司氏の旧宅も保存

益子城跡  芳賀郡益子町

益子城は平安時代中期の康平年間(一○五八〜六四)、紀権守正隆・後の益子氏が築城したものです。およそ五○○年間、益子氏の本拠と

益子陣屋跡と観音寺  芳賀郡益子町

江戸時代に入ると黒羽藩は益子に五○○○石の飛地をもっていて、そこを管理するために地方役人の出張陣屋(今でいう支店のようなもの)を

浜田庄司  芳賀郡益子町

浜田庄司は明治二十七年(一八九四)に東京に生まれ、昭和五十三年、八十四歳でなくなりました。昭和三十年に重要無形文化財保持者

益子参考館  芳賀郡益子町

益子焼を芸術の域にまで引上げた陶芸家・故浜田庄司氏の屋敷内に建てられた民芸館です。入口の長屋門を入ると、大谷石造りの古い石の倉

地蔵院  芳賀郡益子町

高館の城跡の東にあるのが大羽の里と呼ばれるところで、そこには宇都宮氏累代の菩提寺や墓があります。地蔵院は宇都宮の三代城主

鶏足寺  芳賀郡益子町

鹿島神社前を入って行くと、お灸の寺として知られた曹洞宗の鶏足寺があります。室町時代(戦国時代)の永正三年(一五○六)益子家宗の創建

鎌倉山  芳賀郡茂木町

九石(さざらいし)地区には高さ二○○メートルほどの鎌倉山があります。那珂川を望む山頂からはU字形にカーブする那珂川や対岸の牧野

馬門の滝  芳賀郡茂木町

茂木町馬門に逆川に架かる馬門の滝があります。そのあたりから烏山町にかけて、那珂川県立自然公園になっており、面積は約三○キロ

荒橿神社  芳賀郡茂木町

桔梗城跡の東側は荒橿の森と呼ばれ、そこには大同元年(八○六)に造られたといわれる延喜式内社の荒橿神社があります。銅板ぶきの屋根

桔梗城跡・城山公園  芳賀郡茂木町

かっての茂木氏の居城で桔梗城ともよばれていましたが、その跡は現在城山公園となっています。城跡には、本丸跡や二の丸跡、千人溜り

能持院  芳賀郡茂木町

城山公園の東北にあるのは、細川家の菩提所能持院です。これはもともと、鎌倉初期に茂木三郎知基が城の鬼門(東北)除けに建立した曹洞

千本城跡  芳賀郡茂木町

通称”城山”と呼ばれています。那須家ゆかりの須藤千本家が、自然の地の利をいかして築づいた山城で、鎌倉時代建久四年(一一九三)に

茂木町  芳賀郡

茂木町は栃木県の一番東にあって、茨城県と境をなす町です。鎌倉時代に宇都宮氏の一族八田知基が桔梗城を築き茂木氏を名のって治めて

那珂川  北部那須郡

那珂川は那須火山に源を発し、栃木県・茨城県を流れくだり、末は那珂湊で太平洋にそそいでいます。利根川に次ぐ北関東の代表的な川で、

真岡市  

鬼怒川と小貝川にはさまれ、街なかの五行川をはさんで古い城下町の姿をとどめています。真岡に城が築かれたのは鎌倉時代のことですが

真岡木綿  真岡市

真岡は徳川時代から綿花の栽培がさかんで、その綿から糸をつむぎ、晒木綿が織られました。木綿でありながら絹のような手ざわり、肌ざわりで

高田専修寺  真岡市高田

このお寺は、親鸞上人が嘉禄二年(一二二六)に、真岡の城主大内国時の援助で、関東に浄土真宗を弘めるために、道場として建てられ

矢板市  

江戸時代には、日光西街道の継合問屋が置かれ、日光街道の合の宿として栄えた町です。街の東には八溝山塊が横たわり、北に那須連峰へ

結城市  

結城市は、藤姓小山家から分かれた結城朝光が、鎌倉時代にこの地に城を築き、城下町として栄えさせたところです。栃木県小市内には、

 

 

 

 

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湯西川温泉

 

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龍王峡