旅先の歴史ものがたり・山形

山形には、知られざる物語があります。

町や村などの成り立ち、


その町や村にこそ他の地域には見られない物語があります。


「面白い感動話」「歴史や伝統」「男の女の哀しい物語」


「地域ならではの温泉の由来」「歴史的な神社仏閣」


「歴史上活躍した人物の横顔」「哀れな城跡や址」


「町や村、施設の命名縁起」「山形ならではの特産物」


「国指定の国宝・重要文化財」など。


 
旅に出たら、単なる物見遊山ではなく、こうした地域を代表する人間物語


を訪ねてみたいものです。


旅のその先に……新しい発見が。


それこそが「旅の醍醐味」ではないでしょうか。

 

 

樹氷蔵王.jpg

 

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山形県

  

月山  

月山は昔から信仰の山として名高く、かつて山を訪ねた芭蕉も「雲の峰 いくつくずれて 月の山」と、詠んでいます。標高一九七九メート

月山と芭蕉

元禄二年三月二十七日、門人の曽良をつれて、旅に出た芭蕉は、六月三日清川で最上川と別れ、手向(とうげ)に着いたのは夕方でした。

出羽三山とミイラ

昭和三五年七月五日、早稲田、新潟、東北の三大学がミイラ学術調査を、合同で行いました。我国には、岩手県平泉の中尊寺の、藤原三代

出羽路の芭蕉

庄内地方は旅に生き、旅にうたい、旅先で倒れた、松尾芭蕉にゆかりの深い土地です。元禄二年の昔、芭蕉が門人の曾良をつれて

ねず喰岩・古戦場  

高さ約一七メートル、岩の表面が、まるでねずみに咬まれたような穴が数えきれない程あいているので、この名があります。このねず喰い岩

フルーツ王国・山形

恵まれた気候と風土から、ミカン以外ならなんでもとれる、果物生産量全国一を誇るのが山形県です。それでは代表的なフルーツを

伝説・蛇のむこ入り

ある夕暮れ、藤吾という炭焼きの家に、美しい娘がたずねて来て、「私は阿古屋と申すものです。初夢にあなたのお嫁になる夢をみました」

最上川

「さみだれを 集めて 早し 最上川」。芭蕉の句で知られる最上川は、日本三大急流の一つで、長さ二一六キロ、福島県の境から流れ米沢

最上川舟下り

最上川舟下りのコースは、古口の戸沢藩舟番所の乗船場から、下流の草薙温泉までの十二キロのコースをいいます。一般には

最上峡・文人たち

古口を後に、庄内の清川までおよそ十二キロの間は、美しい最上川の流れの中でも、最もすぐれたところでへ数々の歌にも詠われ、

山形の産物

山形県の産物は何といってもお米が一番ですが、蔵王の裾野ではホップの栽培も盛んです。そのほかの産物に干し柿があります。干柿

山伏の話

高く澄み切った秋空に、「プオーオー」と鳴るホラ貝の音は、庄内に住む人々の胸の中に、日一日と深まっていく秋を、しみじみ感じさせてくれます。

朴地蔵尊  

朴地蔵尊は、笹谷街道の名所として昔から親しまれ、信仰されてきました。笹谷街道歴史は古く、今から一○五○年余り前の「延喜式」に

大鳥川と大鳥池

大鳥川は朝日連峰の中にある以東岳の麓、大鳥池を源とするものです。大鳥池は大烏川の上流が、山崩れによってせきとめられて出来たも

金沢八幡神社

「水の奥氷室尋ぬる柳かな」の芭蕉の句碑があります。芭蕉は、鳴子から出羽路に足をむけられ、大石田から舟で最上川を下ったように、

蔵王連峰と樹氷

「おどろける 火はおさまりて みちのくの 蔵王の山は さやかにそびゆる」と、歌人、斎藤茂吉氏が詠んでいます。蔵王は、山形県、

 

烏海山

山形と秋田の県境にそびえ、海抜二二三七米、東北一の高さを誇り、長くすそをひいたその姿は、出羽富士の名で親しまれております

越後街道  

越後街道は、米沢盆地と日本海側との連絡道路としてつくられたもので、全長一七三km、現在の国道一一三号線になっています。

大朝日岳

標高一八七○メートルの大朝日岳で、山形・新潟の県境にあたります。日本海側からみると朝日が山の尖端を照らすところから朝日

奥羽山

海抜七六六メートルの奥羽山で、山形と宮城の県境をなしています。湯殿山修験の作物の神、おはやま神を祀ったところから、

吹浦の十六羅漢岩  飽海郡遊佐町

昔から、吹浦の海岸には、海からも川からも犠牲者が流れつきました。慶応年間、この吹浦の海禅寺の住職、大法寛海という

湯の田鉱泉  飽海郡遊佐町

昔、酒田の玉木金右エ門という人が、ここに浴場を開いた事がありましたが、その頃は場所が今の所よりも低かったので、波にあらわ

アマハゲ  飽海郡遊佐町

この地方には、アマハゲという行事があります。冬の間、何もしないでこたつにばかり入っていると、足に火ダコができますが、これ

吹浦の鬼  飽海郡遊佐町

今から二三〇年以上前の天明五年、橘南渓という医者がこのあたり(吹浦・旧道)を通りかかりました。はじめての通のうえ、海に

吹浦遺跡  飽海郡遊佐町

吹浦の町の奥には堂屋台地があります。古代人の住んだ洞窟の遺跡があり、昭和二八年に県の文化財に指定されました。

大物忌神社  飽海郡遊佐町

鳥海山は奈良時代以前から時々火山活動をしていました。村人は何か悪い事があると噴火して、嫌な事が起こるぞ、と知らせて

遊佐町藤崎  飽海郡遊佐町

今から約二五○年以上前、佐藤藤蔵という二八歳の青年が、酒田からこの町に移りました。その頃、このあたりは見わたすかぎりの

清水前古墳群  置賜郡高畠町

古墳時代後期に造られたもので、平地に築いた横穴式古墳で、ここから須恵器・刀子・鉄釘など、わずかながら出土しています。

尾花沢  尾花沢市

昔から越後高田(新潟県)、飛騨の高山(岐阜県)と共に、日本三雪の一つと言われ、冬の積雪量は三、四米にも及び、家の建て方も

尾花沢の地名由来

尾花沢の地名の起りをたずねますと、アイヌ語のオベネから来たという説と、十九代允恭天皇の御代、村人が狩猟税として、鷲や鷹

尾花沢と芭蕉  尾花沢市

「尾花沢にて清風と言う者を尋ぬ。彼は富めるものなれども志いやしからず、都にも折々通いて、さすがに旅の情を知りたれば、

銀山温泉  花沢市

銀山温泉はかつ延沢銀山と呼ばれた幕府の御用鉱山でした。「出羽の銀山 裸でいても 金や宝は 掘り次第 金が欲しけりや

御所神社・順徳上皇  尾花沢市正厳

丹生川の上流にそって登ってまいりますと、御所山がありますが(一五○二メートルで船形山とひいう)承久の乱で佐渡ヶ島に流され、

猿羽根峠  花沢市と最上郡との間にある峠

猿羽根山は、海抜二○○米たらず(一七八)、最上、庄内の重要な関門であり、叉陸奥の多賀城から出羽、秋田の雄勝を結ぶ重要

新庄節・哀歌  花沢市と最上郡

貧しさにたえかねた老婆が、愛しい娘を馬場町の郭へ売り、訪ねて行くという悲しい話をもりこんだ歌です。明治元年、戊辰の役の時、新庄戸沢藩

名木沢  尾花沢市名木沢

名木沢から毒沢、堀の内とかけて、猿羽根山を中心にした一帯は、亜炭の産出が多かったところです。名木沢は、最上川にそった集落

御田の神  上山市

御田の神とは農耕の神様のことで、水の豊かな湿地帯に住むと伝えられ、春は野に、秋には山に帰り、豊かな恵みを授けて下さると

掛入石  上山市

この辺りは上杉藩と最上藩の境になっておりましたので、番所が設けられ、通行人の監視に当った所です。穏密や手形なしで通らな

上山市

松平氏三万石の城下町として栄えた所で、山形市と並んで蔵王国定公園の玄関口になっております。蔵王山を間近に仰ぎ、市域

須川  上山市

須川は全長四七キロの最上川の支流で、上流は宮川とよぱれ蓬沢山(九七五メートル)に源を発しています。蔵王川や、蔵王温泉

石曽根  上山市石曽根

石曽根は、山形名産干柿の産地です。野山に初霜がおりる頃、柿の実が見事に色づきます、と、柿もぎ、皮むきと、人々は干柿作りに

小倉集落  上山市小倉

昔は小倉姓を名乗る木地師が多く住み、ロクロを用いてお盆やお椀を作っておりました。こうした人達が仕事の間に作ったのが、

木地屋  上山市小倉

木地屋のおこりは平安の初めの文徳天皇の頃といわれます。天皇には二人の皇子があり、弟の惟仁親王が天皇の位につかれたため

土矢倉古墳群  上山市金谷

蔵王エコーライン入口にあたる金谷の土矢倉地区に、士矢倉古墳群があります。標高一八○メートルの地点にあり、四方を水田でかこまれた

甲石  上山市金谷

甲石の地名は昔、八幡太郎義家が東北征伐の折にこの地を通り、道端の石に「兜」を脱いで休みました。この時、義家の「兜」の跡が石に残った

浄光寺  上山市軽井沢

浄光寺は、上山城主・松平氏の菩提寺で上山温泉の発見者月秀上人が開いたお寺です。境内には月秀上人のお墓もあります。庭園は

明治天皇行在所  上山市北町

みゆき公園内には明治天皇行在所が昭和五七年三月に復元完成しました。行在所は明治一四年に明治天皇が東北、北海道、御巡幸の際

斎藤茂吉記念館  上山市北町弁天

斎藤茂吉記念館は、近代文学史上に大きな業績を残した茂吉氏を偲んで建てられました。生家からは蔵王連峰を一望でき、只今はみゆき公園と

三吉山 上山市金生

頂上には三吉神社が祀られており、旧正月の元朝詣りの時の提灯行列は見事です。金瓶に生まれた斎藤茂吉は、幼い頃を想い出して

観音滝   上山市蔵王

観音滝は蔵王川の上流、仙人沢にあります。落差はおよそ六○メートルの大滝です。新緑のころも良いのですが、何といっても

仙人沢遊歩道   上山市蔵王

仙人沢は蔵王川の上流にある渓谷で、霧のかかりやすい場所です。渓流に沿って、お清水まで四・八キロの遊歩道があります。

上山温泉   上山市新湯

上山は明治維新まで松平氏三万石の城下町でした。昭和二九年に五ヶ村を合併して観光田園都市をスローガンに新市として発足した所です。温泉の発見

高野集落   上山市高野

昔、弘法大師がこの地に高野山と同じようなお寺を建てようと、千の沢を探しましたがどうしても九十九沢しか見つけられませんでした。

高松集落  上山市高松

高松集落 は、麻布紙という和紙の産地です。麻布紙はウルシをこす時に使われる上質の紙で、日本では奈良県の吉野とこの高松だけ

高松山光明院  上山市高松

最上三十三観音、第十一番目の札所、高松山光明院です。本尊は行基上人の作と伝えられる聖観音です。今からおよそ一三○○年ほ

中山城址  上山市中山

徳川時代の中山は最上と米沢との藩境になっておりました。中山城が築かれましたのは、今から四○○年以上前の永禄・元亀の頃です。

葉山  上山市葉山

葉山(標高一四{ハニメートル)は、古くから修験道の霊場として知られ、出羽三山のひとつに数えられていたときもあり、修験道場大円院

お清水ロ  上山市坊平

蔵王が女人禁制であったころ、女性はこの地から山頂を遥拝して下ったといいます。清水の湧き出すところがあり、お清水口

阿部、クラーク碑  上山市坊平

蔵王開発にその身を捧げた英国人故ウイリアム・クラーク氏と、日本人・阿部虎次氏の慰霊顕彰碑です。クラーク氏はBOACの東京

弁天平  上山市坊平

標高一四○○メートルの弁天平から、観音滝や仙人沢一帯にかけての紅葉は見事です。冬は美しい樹氷の林を見ることができます。

高楯城祉  上山市松山

虚空蔵山頂上に斯波満長(斯波兼頼の孫)が築いた、高楯城の跡があります。このお城について、こんな話がございます。高楯城最後

栗川稲荷社  上山市松山

栗川稲荷は元禄一○年、松平氏が上山藩主になった折、旧領地から移したものです。祭神は豊受大神で、霊験あらたかな

春雨庵  上山市松山

春雨庵は、江戸時代に紫衣事件で上山に配流された沢庵禅師が住んだ庵です。「最上川 早瀬に月も流されて しばし浮世に 

上山城  上山市元城内

上山城は、上山市が城の形をした郷土博物館として建てたもので、上山城址の月岡公園内にある昭和のお城です。上山城は初め虚空蔵山に

月岡公園  上山市元城内

月岡公園は上山藩主の居城であった月岡城二の丸を公園としたもので、現在は四層の天守閣が復元されています。街の中央高台

大石田町繁栄と没落  北村山郡

最上川を利用して、山形特産紅花や米か運ばれ、江戸、大阪の物産がこの流れをさかのぼった頃は、最大の港町として栄えました

大石田町  北村山郡大石田町

大石田町は最上川を利用して、山形特産紅花や米が運ばれ、江戸、大阪の物産がこの流れをさかのぼった頃は、最大の港町として

災難除け地蔵  蔵王山頂

災難除け地蔵は、ロープウェイ蔵王山頂駅のすぐ近くにあります。今では、山岳観光道路やロープウェイで蔵王登山も簡単にできる

寒河江市・ストーンサークル

鎌倉時代に大江広元の長男親広が、承久の乱に後鳥羽上皇に味方して戦いに敗れ、逃げてここに城を築いて以来の城下町です。広元

寒河江市

寒河江市は、西に月山、東に蔵王の山並みを望み、南部の平地には寒河江川が流れ、東の端で最上川に合流しています。雪の多い地帯で

さくらんぼ  寒河江市

寒河江市、河北町、東根市一帯は果樹栽培の盛んな所で、日本一の生産高を誇るサクランボや、洋ナシ、柿、りんご、もも、ぶどうなどすべて

慈恩寺  寒河江市慈恩寺

慈恩寺はおよそ一二五○年以上前に、バラモン僧正が勅令によって開かれたものです。徳川時代には、二八○○石余りの御朱印を

 

 

 

 

 

 

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雪の銀山温泉 

 

白岩  寒河江市白岩

白岩は昔、出羽三山にお参りをする道者を泊める宿屋が、軒を連ね六十里街道の宿場として栄えたところです。両側に見られる家々

種まき桜  寒河江市白岩

種まき桜の名の起りは、昔、八幡太郎義家が安部貞任と宗任とを討伐した頃、この辺りは太郎松人と言う賊がはびこり、貞任と

臥龍橋  寒河江市本町

寒河江駅の近くに、昭和二十七年に発見された寒河江温泉があります。市内の繊維会社が工業用の井戸を掘ったところ、温泉が湧き出

長岡山・八幡神社  寒河江市八幡町

九月十五日の八幡神社の祭礼には、古式ゆたかに流鏑馬(やぶさめ)が行われますが、この流鏑馬は秋の農家の取入れとは非常に関係

赤川 酒田市

長さ七○キロ、庄内平野の南半分をうるおしている赤川です。この川の上流に、荒沢ダムができるまでは、水害で年平均一億四千万円の

赤川の由来  酒田市

この川は発音の通り、アカイ川と書きます。この名前についてはっきりした由来はありませんが、焚語の方で、「仏様にあげる水」を「アカ)」

酒田市

酒田市は、昭和八年に市政がしかれ、昭和二十九年の町村合併で、山形市に次いで山形県で二番目の都市です。酒田市は庄内平野の真中を

酒田の大金持  

昔、酒田に大金持がおりました。「この国がどんなに広くとも、わしのような金持は二人とおるまい」と口ぐせのようにいばるのも無理もなく、

酒田のことば  酒田市

山形県といえば、ズーズー弁の本場のようですが、酒田はズーズー弁でなくてノーノー弁です。「しての、きんのの、朝の、起ぎての、ご飯たべでの、

酒田の地名由来

酒田は昔は砂という字に新潟の潟を書いて「砂潟」とよんだり、狭い潟とかいて「狭潟」とよんでいました。それは、昔、酒田は最上川が

城下町の酒田

酒田のお城は亀ヶ崎城と呼ばれておりましたが現在、城跡は酒田東高校になっています。亀ヶ崎城は最上氏のお城で、はじめは

本間家  酒田市

〃酒田といえば本間様〃といわれるくらい、酒田の本間様は有名です。江戸時代から知られた大金持で「本間様にはおよびもないが、せめてなり

本間美術館 酒田市

本間家の別荘だったところで、質素で有名な本間家にしては、珍らしくお金をかけたお邸です。今から二〇○年以上前の文化一○年に

土門拳記念館  酒田市飯森山

世界的に有名なカメラマン、土門拳記念館があります。この記念館は昭和五十八年十月に開館しカメラマン個人の写真館としては、

南州神社  酒田市飯森山

昭和五十一年に庄内南州会が創建した、南州神社です。この南州会は、西郷隆盛(南州)を尊敬する人々の会で、神社には南州公

黒森歌舞伎  酒田市黒森

鎮守の森、日枝神社がありますが、毎年二月十五日と十七日に、芝居が行われる所です。この町の人々によって、演ぜられる黒森芝居は

山居倉庫  酒田市山居町

新井田川畔に建つ、ひときわ大きな建物が「山居倉庫」といわれる米蔵です。これは明治二十六年(一八九三)、酒田米穀取引所の

国分寺跡  酒田市城輪

国分寺は天平十三年、(七四三)聖武天皇の命令によって、国府付近の景色の良い場所に建てられたもので、僧寺と尼寺の二つの寺が

飛島  酒田市飛島

島は周囲約八キロで、長方形に近い形をしており、一番高いところが六五メートル(高森山)大部分が五○メートル前後の平らな台地に

飛島の伝説  酒田市飛島

昔の記録に、飛島には今の名前の他に、分れ島、とど島、鬼ケ島、都島、渡島等、一○近くも呼び名があり、その一つ一つに面白いいわれが

浜中  酒田市浜中

この村は、明治になってから、酒田と鶴岡の人々か、ここで市を開いたことから、出きた村と言われております。この浜中は飛砂で

両羽橋  酒田市東両羽町

昔はこの最上川を境に酒田方面を羽後の国、鶴岡の方を羽前の国といっておりましたので、羽前、羽後を結ぶこの橋を両羽橋と名付けました。

日和山公園  酒田市南新町

日和山(ひよりやま)というのは、この酒田だけではなく新潟市や石巻市、下関市などの海ぞいに発達した町には大抵あります。昔、

薬師桜  白鷹町高玉

瑞龍院門前近くの小さな薬師堂の境内に、坂上田村麻呂手植との伝説が残る薬師桜があります。エドヒガソ桜の古木で、目通り幹回り

新庄市の伝統産業 

①新庄焼き:あまり人には知られていませんが、最上の風士が守り育てた、伝統工芸や、文化遺産がここ、新庄に残されています。

新庄市  

新庄市は、元和八年(一六二二)、戸沢政盛公が常陸国松岡(茨城県)から、真室川六万八千石に移封されましたが、その後、

新庄祭  新庄市

新庄まつりは八月二十四日、二十五日、二十六日の三日間にわたって行なわれる盛大なお祭りで、山形市の山形祭(義光祭)、庄内の

陣ケ森  新庄市金沢

天正十六年春、宮城県の中央部を治めていた大崎家十二代義隆の関心を得ようと、家来同志の争いが起こり、やがて義逢と

史跡一里塚  新庄市鳥越

この一里塚は、今から三五○年以上前、徳川幕府が出来てから、大久保石見守長安に依って、国中の道路が測定された時造られた

鳥越  新庄市鳥越

源平はなやかな寿永の昔、源義経が兄頼朝の怒りにふれ、奥州平泉に落ちて行く物語は義経びいきの人ばかりではなく、もののあわれ

鳥越八幡神社  新庄市鳥越

昔、鳥越の楯のあった所で寛永元年(一六二四)、鳥越六郎左ヱ門茂宣が鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の御神体をお移しして、守り神としたのが

新庄沼田城跡  新庄市堀端町

新庄沼田城跡は桜の名所として名高い最上公園となり、本丸跡には藩祖、戸沢政盛をまつる戸沢神社と戸沢家の氏神天満宮が建って

八向山  新庄市升形

断崖絶壁の岩山は、海抜二○六メートルの八向山です。その昔、合海志摩守のお城のあった山です。中腹には、義経記に記されている、

最上川の伝説  新庄市本合海

本合海(もとあいかい)の部落の近くに、笛吹き沼と呼ばれる大きな沼があります。その笛吹沼に住む、美しい沼の精が、ある日沼のほとりで

本合海  新庄市本合海

この村は最上川の東側にあって、明治の中頃までは、庄内と内陸を結ぶ要所として栄えた所です。義経、弁慶一行が奥州平泉へのがれる時

新庄温泉  新庄市本合海

石油を堀ろうとした時、多くの天然ガスと共にわき出たのが、この温泉の始まりで、温度は四五度、泉質は東北で唯一のブロームヨードを

弘安六年大日板碑  高畠町

竹森山(二八一・九メートル)に白髭神社をおまつりしています。参道入口の鳥居の右側に石碑がたっていますが、これは山形県の文化財に

資福寺・伊達正宗  高畠町夏茂

資福寺は、今から約七○○年ほど前に建てられた古い寺で、伊達家の菩提寺でした。天正一八年(一五九○)伊達政宗が秀吉の命によって

板焼麩  鶴岡市

鶴岡は板焼麩で知られていますが、麩と言っても、種類は三百余りもあるそうで、この板焼麩は庄内地方独特なものであり、全国的に

絵ローソク  鶴岡市

鶴岡の総ローソクは、今から二〇〇年以上前、市内上肴町、村川重兵エという人が、ローソクに草花の絵を書き、当時の将軍徳川家に

寒河江温泉  寒河江市本町

寒河江駅の近くに、昭和二十七年に発見された寒河江温泉があります。市内の繊維会社が工業用の井戸を掘ったところ、温泉が湧き出しました。初めは

大鳥居  鶴岡市

高さ二○・一メートル、巾一四・四、真中の柱は、大人が六人でやっと手がまわる程の太い柱です。鳥居というのは昔、神様にお供えし

庄内平野   鶴岡市

庄内と言えばお米の国、そして新潟、秋田とならぶ美人の国です。この庄内平野は北に国定公園、鳥海山がそびえ、東に出羽山地が横たわり

白山とだだちゃ豆  鶴岡市

庄内の良質枝豆「だだちゃ豆」の産地です。この地方で九月十五日の豆名月、陰暦七月二十六日の六夜待、八月六日の眠り流したど

鶴岡市  

昔は大宝寺と呼ばれ、鎌倉時代にこのあたりを統一していた武藤氏が築いた大宝寺城を中心にできあがった城下町です。戦国時代には

出張坂・出張坂城  鶴岡市

半島のように、平野に突き出ているあたりは、出張坂といわれ、先端が俗に豆腐山といわれております。この出張坂に、今から四五○年前

羽黒山   鶴岡市

羽黒山は、月山表登山道の北に連なる丘陵で、山頂に伊底波祖(いではそ)を祀る出羽神社(羽黒山神社)があります。月山と湯殿山は

八斗島  鶴岡市

昔は「御法度」という字を書いたそうです。昔島の周囲にまんまくを張りめぐらし、お殿様が釣をなさいました。お供の人以外は、

藤島町  鶴岡市

藤島は室町時代、土佐林氏の本拠として発展した城下町で、土佐林氏の滅亡後は、武藤、上杉、最上氏と領主が変わりましたが、

摩耶山  鶴岡市

摩耶山は高さ一○一九メートル、朝日連峯の最北端に位置しておりますが昔は信仰の山として、多くの登山者を迎えた山で、今では磐梯

八乙女の伝説  鶴岡市

今からおよ一四○○年以上の昔、羽黒山の開祖、峰子皇子が蘇我氏の暴力を逃れて、この地の沖合にさしかかった所、美しい八人の乙女

金峯山  鶴岡市青龍寺

金峰山(四五八、六メートル)が開かれた時代は、はっきり致しませんが、一説では、奈良時代に修験道をあみ出したと言われる、役(えん)

温海温泉  鶴岡市温海

「あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ  芭蕉」。温海は、浜温海と湯温海に別れておりますが、海辺に立並んだ浜温海から、温海川の

塩俵岩・天然記念物   鶴岡市温海

何万とも数知れぬ塩俵を、きれいに積み重ねたようにたっております。これは長年の間海水浸蝕によって出来上った玄武岩の珍らしい現象

暮坪  鶴岡市温海暮坪

お正月に、いっさい門松を立てないという、風習のある暮坪です。二千年の昔、エゾ征伐にきた武内宿弥(たけのうちすくね)とエゾ軍が

須恵器のかま跡  鶴岡市大字荒沢

荒沢集落から大きなかま跡が発見されています。専門家の調べでは、平安朝時代に、須恵器という土器を造っていた、かま跡である事が

大日坊・即身仏  鶴岡市大網

大網には平安時代の初め、天長二年(八二五)弘法大師の開基と伝えられる、湯殿山竜水寺金剛院大日坊があります。真言宗

注連寺  鶴岡市大網

湯殿山真言四力寺の一つ注連寺です。注連寺も弘法大師の開基と伝えられ、ここにも鉄門海上人の即身仏が安置されております。鉄門海上人

酒屋の町  鶴岡市大山

何の印象もつかめない平凡な町です。ところがとの小さな町、一度・味をしめれば二度と旅立ちをしたくない、と言う方にとっては大変な魅

大山町  鶴岡市大山

300年程前(享保六年)には、五○軒の酒やが並んでいたといわれ、町ぐるみの酒屋というわけです。明治一七年の大火で四○軒の

軍艦水  鶴岡市大山

「軍艦水」といわれる清水があります。加茂の沖を通る軍艦がよく、飲料水に積み込みましたので、「軍艦水」と言われるようになったのです。

椙尾神社と犬祭り  鶴岡市大山

昔、この椙尾神社の裏山に化物が住み、毎年まつりの五月五日に、村の美しい娘を「人身御供」として差し出さなければならず、村の人を

石敢当  鶴岡市大山

石敢当は中国から伝わった信仰といわれ、道路のつきあたりに立てて、道中の安全を祈る石建碑です。九州地方には沢山あるそうですが

十五里ケ原の戦  鶴岡市大山

天正十六年、今から四○○年以上前、豊臣秀吉の時代の事です。それまで武藤義興という武将か、この荘内を治めておりましたが、

乞食法師  鶴岡市金沢

「金の沢」と書いて金沢と読みますが、海に迫った絶壁の、僅かな空地にたちならんでいる漁村です。ここを通りますと、海際に積みあげられて

高館山  鶴岡市金沢

高館山は海抜二七三メートルで、山頂からは庄内平野はもとより、出羽三山、鳥海山、日本海、加茂そして飛島、粟島、佐渡ヶ島と

六所神社  鶴岡市上藤島

この神社は藤島に国府が置かれた時代の古い社であるといわれ、月山神社、大物忌(おおものい)神社、小物忌神社、伊出波神社、

港町  鶴岡市加茂

山間から海辺に続く台地に発達した、港町です。両側の家を見ておりますと判りますが、台地の方には小さな普通の民家が建ち並び、海に近ずく

黒川能  鶴岡市黒川

黒川の集落に歌舞伎と共に、日本伝承芸術の一つとして、世界に知られている能楽・黒川能があります。この黒川能は、今から六五○年以上前の

波渡岬   鶴岡市堅苔沢

庄内海岸の中では、一番景色の素晴らしい所です。波渡岬燈台の近くに、記念碑があります。昭和二十六年に、貞明皇后がお休みに

住吉神社  鶴岡市小岩川

総面積五、六○○坪という境内は、全山「モチの木におおわれ、その鬱蒼たる中に、拝殿があります。今から九八○年以上前、

小波渡  鶴岡市小波渡

小波渡は、庄内浜の漁村のうちでも、一番古くおよそ八○○年以上前の、文治五年に開かれた集落です。この集落はよほど元気のいい人達

母狩山   鶴岡市砂谷

母狩山(七五一メートル)は、「母を狩る山」と書きます。昔、安部貞任という豪族が、行方不明になった母親を探しまわり、ようやくこの山で

本住寺・加藤清正  鶴岡市三光町

鶴岡は、九州熊本の城主加藤清正とも、ゆかりの深い所です。鶴岡市内に本住寺というお寺があり、その境内に清正の奥方正応院と、

善宝寺・地獄岩  鶴岡市下川

この辺りの人達は地獄岩と呼んでいます。岩のうしろの方に、海の水を青黒くた入えた深い切れこみがあり、磯釣りの場所としては恵まれた

善宝寺  鶴岡市下川

善宝寺は、曹洞宗の本山、鶴見の総持寺の直系で、曹洞宗の中でも指おりの寺です。約一○五○年以上前、妙達上人の開基と伝えられ、 

ケヤキ姉妹  鶴岡市大岩川

大岩川には、ケヤキ姉妹という変った風習があります。ケヤキとは、契約がなまったもので、女の子だけの習慣です。毎年大晦日仁なりますと、

お酒のみの話・本鏡寺   鶴岡市大東町

「虎は死んで皮を残す、人は死んで名を残す」という言葉があります。この言葉の通り、生涯に名を残した偉人も沢山おりますが、広い世間のこ

田麦俣   鶴岡市田麦俣

ぼつかりと開けた山峡の村で、その昔は六十里越街道の宿駅で、庄内藩の山守が住みついたためできた集落で、本家は代々渋谷家を

六十里越街道  鶴岡市田麦俣

六十里越街道と呼ばれるこの道は、庄内と内陸を結ぶ一番近い道として、さまざまな人達に利用されておりました。六十里越えという

湯殿山神社   鶴岡市田麦俣

湯殿山は、月山の西南腹の一部で、梵字川の川蝕によって出来た峡谷です。ここに大山祇命を祭神とする、湯殿神社があり、五穀豊穣、家内安全の守り

湯殿山  

出羽三山の一つ湯殿山は、海抜一五○四メートルの山で、その中腹、一一○○メートルの所に出羽三山の奥の院、湯殿山神社があります。

清水の森山  鶴岡市中清水

うぬうねとした三つの峰は、森山といって、いろいろな人生を終えた人が亡くなった時、その魂が、家やお墓には入らず、あの森山に集る

森山の信仰   鶴岡市中清水

森山の開山は、名僧行基上人が大施餓鬼供養をやったのが始まりと言われ、大変な信仰を集めておりました。その後、貞観時代に慈覚大師

鼠ヶ関港  鶴岡市鼠ヶ関

鼠ケ関港は、昔から行き交う船の、安息所として知られていました。弁天島、みかの島、よいあみ鳥等、一連の島によって、天然の防波提と

鼠ヶ関灯台  鶴岡市鼠ヶ関

大正十四年、弁天島の南西附近につくられたのが、鼠ヶ関灯台のはじまりです。当初は六角形の白塗の木造でしたが、白塗コンクリートの円柱

鼠ヶ関の関所跡   鶴岡市鼠ヶ関

福島県の白河関、勿来関と共に奥羽三関の一つです。今から約一三○○年以上前、孝徳天皇の白雉四年(七五四)羽越国境、鼠噛(ねずがみ)

弁天島   鶴岡市鼠ヶ関

三瀬から鼠ヶ関までの海岸は、玄武岩のおもしろい形をつくっておりますが、鼠ヶ関の弁天島と、由良の白山島とは、南北およそ八三メートル

鼠ヶ関  鶴岡市の南西部

新潟県と山形県の県境、国境の小さな町です。山形県でも数少ない漁港の一つで、海と山にはさまれて生活する、細長い漁師町です

大鳥居  鶴岡市羽黒町

「鳥居」という名前ですが、これは昔神様にお供えした鶏の止り木という意味で、それがだんだん発達して、黒木鳥居や島木鳥居などと

影見川  鶴岡市羽黒町

修験道が盛んだった頃、修験者は一度は必ずこの川に、自分の姿を映してみたといわれております。「影見川」という名前は、

柴苑寺跡  鶴岡市羽黒町

建坪約七○○坪、柴苑寺というお寺がたっていた跡です。寛文時代(一六六一~一六七二)に五十代の別当、天宥が建てた寺院ですが、

 

月山神社.jpg

 

月山神社

 

おぱこの伝説  鶴岡市羽黒町

左右に続く百万石の穀倉地帯の、ここ庄内の里は、見渡す限り短冊型に整地された、水田です。紅のたすきに菅の笠、昔ながらの庄内おぱこが

黄金堂  鶴岡市羽黒町

七七四年の昔、源頼朝がかつて三代の栄華を誇った奥州平泉の藤原氏を攻め亡した時、戦いに勝ったお礼としてこのお堂を建て、羽黒山に    

羽黒の大鐘  鶴岡市羽黒町

羽黒山上にある大きな鐘は、約七一○年以上前、蒙古軍撃退を祈るため、鎌倉将軍家から奉納されたもので、直径約一・七メートル、高さ約二、八

油こぼしの坂  鶴岡市羽黒町

羽黒の参道(随神門から登る杉並木の参道)の石段は、二、四四六段あり一の坂、二の坂、三の坂の三つに分れております。この二の坂

修験道・出羽三山 鶴岡市羽黒町

修験道というのは、日本古来の古い宗教ですが、余り一般の人には知られていないようです。羽黒山と山伏は密接な関係があり、この修験道の

出羽三山  鶴岡市羽黒町

東北地方の霊山として名高い出羽三山は、月山を中心に、羽黒山、湯殿山の総称です。九州の英彦山、紀州の熊野と並び称される名山

蝦夷館公園  鶴岡市羽黒町

古代民族が住んでいたあとです。「東北の祖先は蝦夷で、蝦夷はアイヌ人種である」と、今まで信じられてきましたが、これは正しくない

宿坊(出羽三山) 鶴岡市羽黒町

三山詣りの信者達をとめる家で昔は三三六軒もあったそうです。宿坊は昔から、関東、東北の各地に「霞」と呼ばれる、特定のなわばりの

修験道  鶴岡市羽黒町

羽黒山は、「修験道」という、特殊の宗教で栄えた所です。修験道とは、日本特有の古い宗教です。修験道は人里遠く離れたけわしい山の中に

須賀滝  鶴岡市羽黒町

五十代別当天宥が、承応三年(一六五四)、水呑沢から二里の間、水を引いて、祓川の懸崖に落した滝で、その付近は「かじか」の

手向  鶴岡市羽黒町

手向は、羽黒山のふもとにある、細長い町並みで、道路に沿って両側に、旅館や、宿坊が並ぶ門前町でした。ここには、天然記念物

峰中堂  鶴岡市羽黒町

ここは、羽黒派修験に伝わる数々の荒行をする所で、毎年、八朔祭りが近ずきますと、八月二十六日から一週間、信者達がお堂にこもって

お竹大日如来堂  鶴岡市羽黒町

昔、手向集落にお竹という子供がおりました。お竹は、親の徳右エ門夫婦が、湯殿山の大日如来に願をかけてさづかった子供です。

荒沢寺  鶴岡市羽黒町

このお寺は、明治元年の神仏分離以前には、羽黒山の奥の院にもたっていた事がある、女人禁制のお寺です。およそ一三○○年前

三神合祭殿  鶴岡市羽黒町

この社殿は、度々火災にあっておりますが、今の建物は文政元年(一八一八)に、七五代の別当、覚諄(かくじゅん)が再建したものです。

斎舘  鶴岡市羽黒町

元禄十一年(一六九八)の再建で、もとは華蔵院といっていました。三先達といって、羽黒山の宿老の座った寺でしたたが

早田  鶴岡市早田

ここには集落の人々が大変誇りにしている、慶玉(けいぎょく)という親孝行な人の石碑があります。今から約三○○年以上前、この早田に生れた

鶴岡城祉  鶴岡市馬場町

昔、大宝寺城とよばれ、武藤氏四○○年の居城でしたが最上義光が武藤氏に代って、庄内地方を治めるようになってから、鶴岡城と

藤島城  鶴岡市藤島

藤島城は、本丸内にある庄内農高の裏を流れる、藤島川を自然の外ぼりにした城で、いつ頃築かれたのかは、はっきりしておりません。

文下  鶴岡市文下

文章の文という字と、上下の下という字をかいて、ほうだしと呼ぶ、変った名前の集落です。ほうだしという地名が生れた由来について、

天沢寺   鶴岡市丸岡町

戦国時代、六十里越街道を見張る、三つの砦があったところです。当時の侍大将の名を伝えて、丸岡、備前、鳥飼の集落名が残って

因幡堰  鶴岡市馬渡道東

慶長六年八月(一六○一年)、徳川家康から庄内三郡を与えられた山形藩主、最上義光は家来の新関因幡守久正に藤島城を与えました。

笠取峠  鶴岡市三瀬

昔、この峠を通る旅人達が、あまり景色がすばらしいので、かぶっている笠をとって眺めたことから、笠取峠という名がついた、といわれています

三瀬  鶴岡市三瀬

三瀬は約一二○○年前、出羽国府の進歩につれ北進して来た、移民の舟つき場として発達し、三つの瀬があったので地名に友なったと

気比神社  鶴岡市三瀬

この神社は今からおよそ一二五○年以上前、越前の国(福井県)から、百軒程の家がここに移ってきました時、一緒に敦賀の気比神社を

温海温泉  鶴岡市湯温海甲

温海温泉は、温海岳を背景仁、三方を緑の山々にかこまれ、温海川の清流にのぞんだ静かな温泉です。「なさけ温海の 七色かわる 

孝子慶玉の碑  鶴岡市湯温海甲

慶玉は正徳二年(一七一二)、貧しい百姓の子として生れましたが、一八才の時、眼病にかかり、手当に必要なお金もないままに、遂に失明して

湯田川温泉  鶴岡市湯田川

金峯山の麓にあって三方山に囲まれた、静かな温泉で、庄内の奥座敷といわれております。昔から庄内の三楽境(湯の浜、温海)と

湯の浜温泉  鶴岡市湯野浜

昔から会津の東山温泉、最上の上山温泉と並んで、東北の三楽郷の一つに数えられて参りました。湯の浜は、町の南に弱食塩泉、

香頭ヶ浜  鶴岡市由良字楮

昔、この浜辺に、仏像の頭が流れついたということから、「香る頭の浜」と書いて「こうずの浜」と呼んでいた事から、「香頭ヶ浜」

天童  天童市

天童は、将棋の駒と温泉の町として知られます。東に舞鶴山、西に月山の姿を仰ぎ、県都山形市に隣接し、市域に国道一三号線、

天童の将棋駒  天童市

全国に出まわる将棋駒の九五パーセントは天童で作られており、将棋駒は天童の代名詞にもなっているほどです。その駒作りは、

舞鶴公園  天童市大字天童

四月下旬、咲きほこる染井吉野の下で、将棋供養祭と人間将棋が開催されます。人間将棋は、江戸時代に藩主が腰元、小姓たちを

天童温泉  天童市鎌田

天童温泉は、明治十九年潅概用水の確保のため、鎌田原に掘抜井戸を掘ったところ、ぬい湯が湧き出しました。その後、同四十二年に

萩野戸  天童市上荻野戸

昔、慈覚大師が山寺を開いた時、お供の弟子達が開いた村と伝えられます。大師が仏像を背負った弟子とともにこの辺りに休まれ、美しい土地に

雨呼山  天童市貫津

雨呼山(標高九○一ハメートル)は、大同年間、今から一三○○年程前、山の中腹が爆発して、大きな穴ができました。その後、この附

雨呼山の伝説  天童市貫津

昔、ジャガラモガラの近くに大きな沼があり、年を経た一匹の竜が住んでおりました。ある年、天童の仏向寺の一向上人が貫津の東漸寺で

貫津  天童市貫津

貫津には目かくしの松の伝説があります。天正の頃、天童城主・天童頼久は、最上義光に攻められてのがれる途中、かたわらの松の大木

若松観音  天童市山元

奈良時代の和銅元年(西暦708年)に行基菩薩が開山した霊場、花笠音頭で知られる、鈴立山若松寺です。最上三十三カ所第一番札所

鳥海山  

つり鐘型をした二つの火山が肩を並べてかさなりあい、その姿は横手盆地から眺めると、富士山によく似ているところから「秋田富士」とか

 

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出羽三山神社

 

鳥海山伝説  山形県と秋田県に跨がる

大昔のこと、大きな鳥が、左の翼に二つの卵をかかえ、右の翼に一つの卵をかかえ、雲の彼方から飛んできて、羽前(山形)と羽後(秋田)

鳥海山物語  

昔、鳥海山が富士山と背くらべをし「ずい分いろいろな山があるが、見わたしたところ、わしより高い山はないようだ」と日本海を足もとに

朝日連峰  山形県と新潟県の県境

鷲が巣山の向うの山形県にかけて一帯の山々は、国立公園の朝日連峰で高さ一、八七○メートルの大朝日岳を中心に、西朝日岳

吾妻連峰  山形県と福島県の県境

吾妻連峰は山形と福島の県境にそびえる山なみです。那須火山系に属し、そのなかでも最も広い火山群で、東吾妻、中吾妻、西吾妻と、

黒獅子舞  長井市

長井市の伝統芸能に「黒獅子舞」があります。平安時代に起源をもつ、勇壮華麗な黒獅子の舞が、毎年五月二十五日に、総宮神社か

長井紬と白鷹紬  長井市・西置賜郡

長井市から白鷹町にかけての一帯に、絹織物の一つ手織り紬の伝統的な工芸品「長井紬」が伝えられています。下長井地方は天正年間

やませ蔵美術館  長井市あら町

江戸時代中期の享保年間(一七一六〜三五)から、長井紬の問屋を営んできた山清(旧家竹田清五郎家)が、明治時代に建てた五棟の土蔵を利用して、

長井市 

長井市は、市内を流れる最上川とその支流野川と白川の清流に恵まれた、長井盆地の中心の町です。今から四五○○年以前に、先人が住みついて

今泉  長井市今泉

今泉は古くから交通の要衝であるばかりでなく、東西置賜地方の境界の地でもあり、米沢付近を上長井郷、長井を中心に下長井郷とい

伊佐沢の久保桜  長井市上伊佐沢

伊佐沢の久保桜は、樹齢五○○年の名木で、国の天然記念物になっています。目通りの幹回り八・一メートル、高さ十六メートルのエドヒ

縄文の森(長者屋敷遺跡)長井市草岡

朝日山麓の東にはり出した台地上に、長者屋敷遺跡があります。昭和五十二年から五十六年(一九七七〜八一)にかけての発掘調査  

白つつじ公園  長井市神明町

面積は約二万平方メートルで、約三○○○本の琉球種の白ツッジが、五月中旬から六月上旬にかけて、雪のように一面に咲きみだれます。

長沼孝三彫塑館  長井市十日町

長井市出身の現代具象彫刻家、長沼孝三の作品を展示する長沼孝三彫塑館です。昭和六年に日展の前身である、帝国美術院展に

はぎ公園  長井市成田

あやめ公園の北側、野川をへだてたところにあるのが、あやめ公園の外園ともいわれています「はぎ公園」です。はぎ公園は

祝瓶山  長井市平野

長井市と小国町との境にそびえる山が、標高一四一七メートルの祝瓶山で、古くから修験道の山として知られ、役小角(えんのおずぬ)

総宮神社  長井市横町

縁起によりますと、延暦年間(七八二〜八○六)、坂上田村麻呂の創建と伝えられ、室町時代後期の文禄二年(一五九三)、米沢城主

馬頭観音堂  長井市横町

総宮神社の拝殿の東隣にあるのが、遍照寺の馬頭観音堂です。堂の中には木造馬頭観世音菩薩立像が祀られ、一九八センチの

遍照寺  長井市横町

遍照寺は行基によって開かれたといわれていますが、創建年代は明らかではありません。寺は次第に衰退したものの、室町時代初期の

あやめ公園  長井市横町

長井といえばアヤメと、今では全国に知られた観光名所のあやめ公園は、約三万三○○○平方メートルの敷地に、およそ五○○種

ハンコタンナ  山形県など東北地方南部

黒いものを頭からすっぽりかぶり、目だけしか見えないあのかぶり物は、女性だけがつけているもので、ハンコタンナというかぶり物です。

赤湯  南陽市

赤湯は大変古くからひらけた所で、このあたりから高畠町にかけては、古代文化の遺跡がたくさん発見されています。ここ赤湯は

赤湯温泉  南陽市

赤湯温泉は開湯九○○余年の歴史をもち、古くから湯の町、として栄え、老舗旅館が建ち並んでいます。温泉街の裏手には、桜と紅葉の

南陽市

南陽市は山形県の南部にあって、米沢盆地の北の端に位置しています。市の北の端には信仰の山として知られた白鷹山がそびえ、

赤湯ぶどう  南陽市赤湯

川樋(かわとい)から赤湯、宮内にかけて「赤湯ぶどう」の産地です。ぶどう栽培が始まったのは、今から二五○年以上前の享保の頃

赤湯名物  南陽市赤湯

ブドウや洋梨はもちろんですが、白竜湖からとれる鮒を材料にした「むくれぶな」とよばれる魚料理があります。これは、鮒を背開きに

白竜湖  南陽市赤湯

東西三五○メートル、南北三○○メートルの小さな湖で、湖の面積はおよそ一・一平方キロ深さは一二メートルの浅い湖ですが、

白竜湖の伝説  南陽市赤湯

ず-と、ずーと昔のこと、置賜地方は大干ばつに見舞われました。農家の人達は毎日、毎日天をあおいで、雨を待っていました

烏帽子山公園  南陽市赤湯

桜と紅葉の名所、烏帽子山公園です。五万平方メートルの園内には、日本桜の名所百選に選ばれた烏帽子山千本桜があり、

東正寺  南陽市赤湯

八幡宮の北側にある曹洞宗の東正寺は、鎌倉時代の「永仁二年(一二九四)」の年号が刻まれた磨崖板碑があることで有名です。

結城記念館  南陽市赤湯

赤湯温泉街のほぼ中央部に結城記念館があります。結城記念館は、赤湯出身の財政家・結城豊太朗(一八七七〜一九五一)が、私設図書館

夕鶴の里  南陽市漆山

漆山地区にある鶴布山珍蔵寺に伝わる「鶴女房」、という話をもとに作られた民話が「鶴の恩返し」です。この民話や、伝統的な機織りを

吉田橋  南陽市大字小岩沢

吉田橋は、明治一四年の明治天皇東北巡幸の際に架けられた橋です。明治九年に山形県の初代県令となった三島通雇(正しくはみちつねという)

大橋集落  南陽市大橋

大橋は、今では静かな農村ですが、昔は最上川水運の終着駅として賑わった宿場でした。明治三四年頃までは問屋の倉庫が建ち並び、

大谷地  南陽市椚塚

大昔のこと、置賜(おきたま)盆地は大きな湖だったと言われます。その名残りが白竜湖で、この辺りから高畠にかけての水田は、

竹原の板碑  南陽市竹原

竹原の竜雲院裏山には、県の文化財に指定された鎌倉時代後期の嘉暦二年(一三二七)大日板碑があります。高さは二・六メートル。

梨郷神社  南陽市竹原

この神社は、明治四十三年に地区内の四つの集落にあった五つの神社、正八幡、稲荷、宮の浦、八千尤、塩釜を合わせて祀ったものです

岩部三十三観音  南陽市中川

江戸時代の天保年間に凶作が続き、餓死する者さえ出ました。この時、川樋村の住職・金毛和尚が仏供養のために村人の協力を得て

薬師寺  南陽市二色根

南陽市二色根にある天台宗の薬師寺は、烏帽山公園の北にあって、平安時代のはじめの天安二年(八五八)、慈覚大師円仁の創建

宮内の菊祭り  南陽市宮内

宮内では、熊野大社に菊を奉納したのが菊祭りのはじまりで、県内では最も長い伝統と県内一の規模を誇っています。江戸時代後期の

熊野神社  南陽市宮内

宮内の北方、町なみを見下ろす緑豊かな丘の上にあるのが、日本三熊野の一つにかぞえられる熊野大社です。ここは県内外からの多数の

双松公園  南陽市宮内

熊野大社の隣にある双松公園は花の公園として知られています。五月はツツジ、六月は六○○○本ものバラの花、十月上旬から一ヶ日間は東北で最古

経塚山  南陽市梨郷

標高三二四メートルの経塚山です。経塚山の中腹から、明治七、八年にかけて古墳が数基発掘されました。また、経塚山

がまの湯温泉  西置賜郡飯豊町

その昔、大きなガマガエルが、山中の岩陰から湧き出ている温泉で、傷をいやしたといういい伝えがある、「がまの湯温泉」が羽前

白川ダム  西置賜郡飯豊町

昭和四十五年に着工して、五十五年に完成、総工費は約一六○億円、堤の高さは三四○m、総貯水量は約五○○○万立方メートル

飯豊町  西置賜郡

飯豊町は、飯豊連峰の麓にある、南北に細長く広がる、自然豊かな町です。町の大部分は山地で、放牧や山菜加工、木工品の生産

手ノ子  西置賜郡飯豊町

手ノ子は昭和四十一年に米坂線が開通するまでは、越後街道の宿場町として大いに栄えたところです。地名の由来も、宿場町に

米坂線萩生駅周辺  西置賜郡飯豊町

萩生駅の北西へ三kmのところにあるのが、八○○年の歴史を誇る天養寺観音堂です。五間四面の宝形造りで、白鷹町の国の重要文化財深山観音と並んで、

飯豊山麓育成牧場  西置賜郡飯豊町

広大な丘陵地帯にあるのが、飯豊山麓育成牧場です。ここ添川地区を中心に肉牛づくりが盛んで、米沢牛の原産地です。県内最大の規模を誇

小国温泉  西置賜郡小国町

昭和二十九年に開湯された新しい温泉場で、近郷からの湯治や療養に訪れる人々が多く、また飯豊山、朝日岳の登山基地として利

小国地方と馬  西置賜郡小国町

戦前までこの盆地は「最上駒」の産地として知られ「一に小国の駒、秋田南部の駄駒」と古い記録に残されています。講談でおなじみの曲垣

小国町  西置賜郡小国町

小国町は北と西を新潟県、南を福島県に囲まれ、山形県の総面積の約七・九%に当る広大な町域のほとんどを、飯豊山地や朝日山

伊佐領  西置賜郡小国町

かつて伊達藩が米沢に城を構えていた頃、伊達一族の領地だったので、”伊佐領”の地名が生まれたといわれています。伊佐とは

古四王神社と大滝温泉  西置賜郡小国町

大滝地区に、越の国の王・大彦命(おおひこのみこと)を祀った古四王神社があります。古四王神社は、新潟・山形・秋田県など日本

子易神両社  西置賜郡小国町

子易神社は、社伝によりますと、和銅五年(奈良時代の七一二年)、駿河の国周智郡の事任神社を勧請したと言います。日本

神明山公園  西置賜郡小国町

小国盆地を一望に見下ろす小高い丘で、上杉神社の分霊や忠魂碑などがあり、俗に県社山とよばれています。また、この神明山公

赤芝峡  西置賜郡小国町

朝日岳に源を発つし、新潟県をぬけて日本海へと注ぐ荒川。この荒川随一の景勝地として知られているのが赤芝峡です。急流によっ

光岳寺  西置賜郡小国町

城主上郡山氏の菩提寺であった、曹洞宗の光岳寺です。この寺には鎌倉期のものと思われる、阿弥陀三尊像が安置されています。

基督教独立学園高校  西置賜郡小国町

叶水には、全国でただ一つといわれる基督教独立学園高校があります。創設者の鈴木弼美(すけみ)氏は、標準的な学制にあきたら

玉川ぞいの温泉  西置賜郡小国町

古くから胃腸の湯として知られ、療養むきの温泉が泡ノ湯温泉です。湯の中に多量に含む炭酸ガスが胃腸病や神経痛に効能がある

アユのヤナ場と白鷹鮎まつり  西置賜郡白鷹町

白鷹町を代表する味覚に「鮎料理」があります。町内を貫く最上川では、日本有数の規模をもつヤナ場が設けられ、ヤナ公園として

白鷹山  西置賜郡白鷹町

白鷹町は、町の中央を南北に最上川が流れ、その段丘上に発達した町は、三方を朝日連峰や白鷹山などの山々にかこまれたところ

鮎貝城跡  西置賜郡白鷹町鮎貝

鮎貝駅の近くの高台に、杉木立におおわれた鮎貝城跡があります。現在の鮎貝八幡宮境内が本丸跡といわれ、土塁や堀の跡がみ

荒砥城跡  西置賜郡白鷹町

白鷹町役場の通りをへだてた北側にあって、杉木立の高台にあるのが荒砥城の跡です。平安時代中期の永長(一○九六〜九七)年

丈六地蔵尊  西置賜郡白鷹町

白鷹町役場の隣りにあるのが正念寺です。境内には、交通安全の守護仏として、広く信仰されている丈六地蔵尊があります。江戸時

称名寺  西置賜郡白鷹町

十王地区に真言宗の称名寺があります。称名寺は切支丹の信者の様子を記した切支丹文書と十字架を所蔵しています。江戸時代

高玉芝居  西置賜郡白鷹町

西高玉地区に「高玉芝居」とよぶ、庶民芸能が伝わっています。発祥はよくわかりませんが屋代郷亀岡、現在の高畠町からの伝習と

瑞龍院   西置賜郡白鷹町

薬師桜から北西にいったところ、うっそうとした杉木立にかこまれて、五五○年の歴史をもつ曹洞宗の瑞龍院があります。瑞龍院は

伝統工芸村  西置賜郡白鷹町

実渕川を渡ったところにある伝統工芸村は、懐かしい山里の雰囲気につつまれ、古い歴史を持つ深山和紙と、昭和五十年代に始ま

深山和紙  西置賜郡白鷹町

深山地区に伝わる深山和紙は、藩政時代以来の手漉き和紙で、約四○○年前から作られている楮(こうぞ)和紙で、薄黄色の色合

深山観音堂  西置賜郡白鷹町

地元では深山観音の名で親しまれているのが観音寺観音堂です。平安時代の作風を残した観音堂は、室町時代の建築とみられ、

朝日町  西村山郡

朝日町は、大朝日岳(一八七○メートル)や平岩山(一六○九メートル)の高山が西にそびえ、大朝日岳に源を発する朝日川が東西に

佐竹家住宅  西村山郡朝日町

国指定の重要文化財です。この地は江戸時代、庄内松山藩・酒井氏の飛地で、この地の大庄屋、佐竹家が支配していました。この住

大沼の浮島  西村山郡朝日町

大沼は面積三万六○○平方メートルの沼で、大小さまざまな島が浮遊する神秘の沼として、古くから広く知られていました。浮島は朝

りんご温泉  西村山郡朝日町

りんごの町だから、温泉の名も”りんご温泉”と名付けられ、内風呂と露天風呂があります。十一月中旬から五月上旬には、たくさん

豊龍神社  西村山郡朝日町

町役場の北西の小さな丘の上にあるのが豊龍神社です。周辺は豊龍公園として整備され、桜の名所として知られています。神社の

大江町  西村山郡大江町

山形盆地の西の端にある大江町は、東西に細長い町の中を、朝日連峰に源を発する月布川が流れ、町の中心にあたる左沢(あてらさわ

河北町  西村山郡河北町

以前この町の主産業といえば、下駄やサンダル、特に草履表は全国一・二を競う生産量を誇っていました。今では県の花となってい

刈上げ餅  西村山郡西川町

山形を中心とした村山地方には、秋、その時の収穫を感謝して旧暦九月三十日に、餅をつく風習があります。明治元年、桑名の軍勢

間沢  西村山郡西川町

旧三山電鉄の終点間沢です。間沢は早くから菊の名所として知られており、この辺一帯の土地が菊の栽培に適し、長い経験をもつ

間沢義民の墓  西村山郡西川町

寛永十年十月(一六三四)、領主の幕政を幕府に訴え、処刑された義人の墓があります。元和九年七月、酒井忠勝の弟、酒井長門

三神合祭殿  西村山郡西川町

岩根沢には、古めかしい大伽藍、三神合祭殿があります。ただ今の建物は江戸時代の末(天保十二年・一八四二)にたてられたもの

六浄豆腐  西村山郡西川町

岩根沢の名物には、片倉家に伝わる六浄豆腐があります。その名の通り、つくり方は普通の豆腐と同じように作りますが、ニガリをき

長沼公園と大沼  西村山郡西川町

きれいな山の湖でながめのよい長沼公園です。長沼から更に山に入ると大沼があり、面白い物語を伝えています。寒河江川の川下

海味  西村山郡西川町

昔は三山詣りの宿場としてさかえたところで、大正十五年十二月二十三日、三山電鉄が羽前高松から開通した時の終点でもありま

寒河江ダム  西村山郡西川町

寒河江川を堰止めて造られたもので、東北で一番大きな多目的ダムです。朝日連峰を源として流れる寒河江川は、一年間に流れる水の量がおよそ

八ツ楯山  西村山郡西川町

今から九○○年以上前、東北の豪族安部貞任が、山に出丸を築いて、外敵の侵入に備えました。出丸の柵跡は

本道寺  西村山郡西川町

出羽三山の参道は、昔から七口(岩根沢、本道寺、志津、大網、手・向、肘折、清川)といわれ、七ヶ所の登山口がありますが、本道寺は

水沢義民の碑  西村山郡西川町

延享二年(一七四五)、寒河江の川筋一帯は、非常に冷害に悩まされ、翌年の種もみを、貯る事さえも出来ない有様でした。人々は何と

八聖山金山神社   西村山郡西川町

昔、弘法大師が湯殿山をひらかれる時、それに先立ってまず八聖山をひらかれ、途中稲荷大神の道案内で、無事に湯殿山へ登れたと

長登観音  西村山郡西川町

最上三十三観音第十七番目の札所で、聖武天皇の時代、紀州那智の浦に、カヤの大木が浮き出たのを用いて、行基上人が一刀三礼

獅子の口神社  西村山郡西川町

この神社は諏訪神社ですが、諸病治癒の御祈祷の後、お守として小さな獅子頭を呉れた所から、この名が出たといいます。どんな難病

大塚城祉   東置賜郡川西町

川西町の大塚には、伊達時代の大塚城祉があります。高徳寺の小高くなっているところが城祉で、松川と犬川を利用した天然の要害で

古代遺跡の町  東置賜郡高畠町

高畠町は米沢盆地の東部にあって、飯豊、朝日連峰をはるかに望み、農業を中心に、リンゴ、ブドウ、洋梨の果樹栽培と、東北地方屈指

高畠町   東置賜郡

高畠町は置賜盆地の東南部に位置しております。農工商一帯となったフルーツと遺跡の町です。町の歴史は日向洞窟や一の沢洞窟、

安久津八幡宮   東置賜郡高畠町

山形県で唯一の三重塔のある神社です。安久津八幡宮は貞観八年(八六六)に慈覚大師が、豪族・安久津磐三郎の協力を得て、阿弥陀

まほろば古の里歴史公園  東置賜郡高畠町

公園のなかには、縄文時代の堅穴式住居二棟や古代米の水田を復元し、古代の高畠集落を再現しています。また、古代の生活を体験

浜田広介記念館  東置賜郡高畠町

「泣いた赤おに」をはじめとする数々の童話で知られる作家、浜田広介は高畠町で生まれました。高畠町一本柳の生家の近くには、まほ

まほろぱ・童話の里  東置賜郡高畠町

高畠町一本柳の生家の近くには、まほろぱ・童話の里浜田広介記念館が建てられており、「りゅうの目のなみだ」「あの島のきつね」など

大聖寺(亀岡文殊堂)東置賜郡高畠町

文殊山(標高五八六メートル)の麓に亀岡という集落があります。そちらには大聖寺という古刹があり、一般に亀岡文殊堂と呼ばれて 

大立洞窟  東置賜郡高畠町

羽山から北へ三キロほど入ったところにあるのが大立遺跡です。これは大立山の山腹にある洞窟で、縄文、弥生、古墳時代にかけて、

高畠城の跡  東置賜郡高畠町

市内荒町にある高畠小学校の付近が「屋代城」あるいは「鐘が城」といわれた高畠城のあったところです。現在も三の丸の堀跡が一部

羽山古墳  東置賜郡高畠町

山は標高三○八メートルの羽山です。この山の山麓一帯から、八世紀ごろの典型的な横穴式古墳が十数基みつかり、勾玉、鉄刀、

観音岩   東置賜郡高畠町

観音岩付近は凝灰岩の山で、風雨に浸食された奇岩や洞くつ、岩陰の多い景勝地です。観音岩は、平安時代の末頃、この地方に布教

二井宿   東置賜郡高畠町

その昔は、出羽の置賜郡と陸奥の仙台領とを結ぶ、二井宿街道の宿駅になっており、米沢藩当時は、御境番所一ヶ所と、やぶ口番所が

義民高梨利右衛門の酬恩碑  東置賜郡高畠町

二井宿小学校の校庭には義民としてうやまわれている高梨利右衛門の酬恩碑が建てられています。江戸時代、屋代郷三万七千石は、

庄内平野  東田川郡

昔は一面に海水が入りこんでいましたが、奥の海岸砂丘が鳥海山のふもとにのびてゆくにつれて、湾がふさがれて潟となり、そして、

余目という地名   東田川郡余目町

この余目という地名が生れましたのは、今から九四○年以上前の治暦年間(一○六五)のことです。その頃、岩代国信夫郡、今の福島

余目町について  

南野集落は、今からおよそ四〇○年以上前の慶長十六年(一六一一)に狩川城主、北館大学が造った北館大堰が完成したとき、最上川

大師森山  東置賜郡高畠町

山の中腹に火箱岩洞窟、大師森石窟石棺があり山ぞいにある時沢、野手倉、日向、大笹生など、の地域も古代の文明が栄えていたとこ

最上川舟唄  西村山郡大江町

最上川水運のさかんだったころの船歌・酒田地方の追分と、急流最上川舟頭の掛け声を合わせて編曲したもので、強い方言で歌われる

左沢  西村山郡大江町

川船が盛んに通った昔は、”こがねぶね(小鵜飼船)”が上っておりました。ロ〃や〃カイ〃に合わせ、思い思いにうたった舟唄や追分が

余目のやや祭り  東田川郡余目町

鶴岡のばけものまつり、大山の犬まつりと並んで、変ったお祭に余目のやや祭りがあります。このやや祭りは、この町の二宮神社の年越

 

羽黒山五重塔.jpg

 

羽黒山五重塔

 

櫛引町  東田川郡

出羽三山の麓にある純農村地帯で、米と庄内柿の産地です。また、五百年あまりの伝統を持つ、農民芸能黒川能を伝える

月山神社・月山  東田川郡庄内町

月山(標高一九八○)は、出羽三山の最高峰で、鳥海火山脈の南端にある雄峰です。日本では珍らしい、

おばこの伝説  東田川郡庄内町

昔、最愛の妻を失った男が、夜な夜な裏の田圃に出ては、飛んでくる蛍に恋しい妻の面影を忍びながら、その悲しみを

月山  東田川郡庄内町

月山は、出羽三山の最高崎で、鳥海山脈の南端にある雄峰です。遠くから見ますと、牛が臥ているような形なので

庄内おばこ  東田川郡庄内町

稔の秋には、耕地整理の行きとどいた田んぼには、黄金波打つ稲田が広がりますが、これも過去から現在に渡り、数多くの人々の

庄内柿  東田川郡庄内町

背の低い木ですが、これは風が強いので枝がおれたり、花や実がすれないように、わざわざ低くしてあるのです。普通の柿の甘さ

庄内とお米  東田川郡庄内町

庄内平野は北に鳥海山国定公園、東には出羽三山、南は磐梯朝日国立公園と三方山にかこまれ、西は日本海に面しています。

庄内について  東田川郡庄内町

庄内といえばお米の国、そして美人の国です。庄内地方は、鶴岡と酒田の二市と東田川、西田川、飽海の三郡で、庄内平野の

庄内の地名  東田川郡庄内町

庄内には、坂辺新田とか、余目新田等と、新田ということばのつく地名、安倍興野、丹波興野等のコーヤのつく地名、それに

狩川城跡  東田川郡庄内町

大学堰を造られた北館大学助利長が、居城した狩川城は、只今では桜の名所、楯山公園になっています。慶長六年、最上義光の領地

清川について 東田川郡庄内町

清川は昔、「清川の津」と呼ばれ、平安時代の記録簿、延喜式によりますと、今からおよそ一三○○年も前からすでに、この集落が

清川ダシ  東田川郡庄内町

清川には、庄内百万石の大動脈「北館ぜき」「吉田ぜき」の取入れ口がありますが、それと対象的な凶作をもたらす、魔風と

光星寺  東田川郡庄内町

このお寺は今から一,○○○年前以上の、平安時代に開かれた曹洞宗のお寺です。ある時、羽黒山に住む住宝という大和尚の

戊辰戦争と清川  東田川郡立川町

明治元年四月二十三日、舟で最上川を下り腹巻岩に上陸した仙台、薩摩、長州、土佐の官軍八○○名をむかえて、庄内藩、松田甚三郎外わずか百名が、

丸木舟  東田川郡藤島町

昭和四十一年七月の末、藤島町郵便局前の地下から丸木舟が掘り出されました。長さ九メートル、中央の巾が一・二メートルという

藤島町  東田川郡

山形県の歴史は藤島町から始まったと言われます。和銅5年(七一二)にはじめて出羽国が生まれ、藤島町平形に

横山城  東田川郡三川町

横山城が築かれましたのは、今から四八○年以上前の天文年間、(一五三二)といわれ、金峰山のふもとにある櫛引村

東根温泉  東根市

明治四三年の発見で、天野又エ門という人が、潅厩用水にしようと、井戸を堀ったところ、お湯が噴きでたのがはじめです。

東根市

東根市は、山形県のほぼ中央部に位置する町で村山盆地の穀倉地帯です。かつては小田島氏が居城しておりましたが、

最上三草  東根市

昔から”最上三草”とよばれ、全国に紹介されてきたものに紅花・青苧(あおそ)・煙草があります。これらは山形地方

山形空港  東根市

以前は神町飛行場といい昭和十五年、海軍予科練の訓練用地として買収され、飛行場がつくられました。練習用の飛行機が飛んだのも、

与次郎稲荷  東根市

最上三鳥居の一つで重要文化財です。この奥に、飛脚与次郎を祀る、与次郎稲荷があります。与次郎稲荷の由来:秋田藩主佐竹義宣公に

若宮八幡神社  東根市

東根城跡の東北にある若宮八幡神社は、康平年間(一○五八~六五)に、鎌倉鶴岡八幡宮の神主三浦下野守平為澄

白水川堤の桜  東根市蟹沢

市の中央部を西に流れる白水川の堤には、約三キロに亘って四○○本余りの吉野桜が植えられています。四月から

大滝公園  東根市関山

渓谷公園で、日本七滝の一つといわれる大滝を中心に、奇岩、怪岩がそそり立ち、その間を清流が水しぶきをあげて流れくだります。

東根城跡  東根市長瀞

東根市街のほぼ中央の高台に、東根小学校がたっていますが、正平二年(一三四七)に小田島長義が築いた、東根城本丸跡

立ち道・悲話  東村山郡

山辺と長崎を結ぶ道で、「立ち道」と呼ばれます。文亀年間(一五○一~)長崎城主直正(五代)が、政略のため嫌がる姫を山辺城主

長崎城  東村山郡中山町

昔の城主の名をとって、中山町となりました。長崎城は、元中元年(一三八四)、藤原道実の流れをひくといわれる、中山

達磨寺  東村山郡中山町

達磨寺は、昔からだるまの掛軸がありましたが、それについていろいろな伝説をつくり、生達磨と言われるようになったので、お寺の

名木達磨の桜  東村山郡中山町

この町(達磨)には古い桜があります。色々な伝説を持ち、天然記念物に指定されております。昔・征夷大将軍坂上田村磨が

高橋常治  東村山郡山辺町

笹谷トンネルの掘削(砂、石などを掘り取り穴をあけること)に半生をかけた人です。昭和二十二年冬のこと、常治氏の伯父さんが

山辺町  東村山郡

山辺町は元和年間(一六一五~)の「和名抄」という本によりますと、「最上郡二十四郷あり、山辺郷その一におり、東は

葉山  村山市

海抜一四六二メートルの葉山です。奈良時代から修験道の霊場として知られ、ブナの原始林と高山植物がみられ、

村山市  

昔から、ここ村山市は北村山郡の中心として開け、米やマユ、そして草履表などの集散地として栄えてきましたが、平安時代には

小松沢観音  村山市小松沢

小松沢観音は、勅を奉じた行基上人が天平九年三月(七五八年)、一刀三礼の法によって、三体の仏像を安置し、熊野三所権現

楯山  村山市

最上光直の四男、伊予守満国が八万四千石で居城し、楯岡殿とよばれておりました。その後、元和元年(一六一五)楯岡甲斐守

楯岡  村山市

昔から、ここ村山市は北村山郡の中心として開け、米や、まゆ、そして草履表などの集散地として、栄えてきましたが、

最上徳内誕生の地  村山市楯岡

徳内は宝暦五年(一七五五)にここで生れ、蝦夷探検の功績をみ書とめられ、天保七年(一八三六)に江戸でなくなりました。

東沢公園・喜早伊右衛門  村山市

大沢、東沢、湯沢の三つの沼がありますが、中でも東沢沼は、明治九年、素封家、喜早伊右衛門がまだ二○代の頃、

雪の観音  村山市楯岡

楯岡の生んだ政治家、今はなき松岡俊三の建てられたもので、境内には、松岡俊三のリュックを背負った銅像が、昭和三十二年

林崎甚助重信生誕地  村山市林崎

我国の武道のうち、居合術の元祖をまつる「日本一社居合神社」と書いてある白い標柱が見えております。土地の人は昔から、

本飯田  村山市

慶長年間(一五九六~一六一四)に最上家の家臣、飯田播摩守は二千石に封ぜられて、袖崎に館を造りました。その後飯田家は

金山町  最上郡

ここに初めて村が開かれたのは天正年間(一五七三~九一)のことです。山形の殿様、最上義光の家老丹与惣左衛門が

竜馬山  最上郡金山町

標高五二一メートルの竜馬山です。まったくの岩山で、ふもとのスギ林のうえは数十メートルの断崖で奇岩が乱立する

谷口銀山跡  最上郡金山町

越後の国の碇屋与次兵衛が夢のお告げにより発見したもので、寛永から慶安年間(一六四八~五一)へかけて採掘された銀抗跡

薬師山  最上郡金山町

標高四三六メートルです。続日本紀の七三七年の記録には、征夷大将軍大野東人が大雪のために雄勝に行くことができず、比羅保許山

戸沢村  最上郡

幕末の頃までは、水陸両路の番所がおかれ、川を上り下りの船や、陸路を行く旅人を改めたところです。長雨が続いたりしますと、

今神温泉  最上郡戸沢村

温泉は一六度で、五月頃から十月下旬まで営業していますが、この温泉には、浴場の表面に今熊神社があり、入浴する人は、

白糸の滝  最上郡戸沢村

高さ一二○メートルで、我国の数ある大滝の内で、第六番目に数えられるもので、若葉を映し紅葉のひまひまに、落ちるさまは誠に

仙人堂  最上郡戸沢村

このお堂は奥の細道に、「白糸の滝は、青葉のひまひまに落て、仙人堂岸にのぞみてたつ」と記されている仙人堂です。源義経の従

柏沢  最上郡戸沢

この辺りは川巾も広がり、ゆったりした流れで、最上川も大河の姿を整え、まことにのどかな風景です。しかし、この辺りを舟で下った

土湯杉  最上郡戸沢村

珍しい杉で、幹を切ってもまた新しい枝がのびて、幹になるといったかわった杉です。一名、「神代杉」ともよばれ、県の天然記念物で、

小国川  最上郡舟形町

宮城県境の山々から水を集め、舟形の西で最上川に合流する、およそ六○キロの川で、香りの良い小国あゆがとれる川として

舟形町  最上郡

大昔、このあたり一帯が最上川と小国川の合流点に当っている所から川水があふれ、湖になって、先住民族が住んでいたといわれます。

猿羽根の地蔵様  最上郡舟形町

「猿羽根の地蔵様あらたな神よ 一度願えば 二度かなう」。俗に猿羽根の地蔵様とよばれておりますが、正しくは「猿羽根山、

荷渡権現  最上郡舟形町

百日咳の神様として信仰を集めている荷渡権現です。荷渡権現の名前は、最上川や小国川を舟で荷物を運ぶ頃、丁度荷上げ、荷下しを

紙すき  最上郡舟形町

福昌寺近くの長沢という家に、殿清水とよばれる清水が、こんこんとわき出ております。昔、長沢には曽我兄弟の縁者であったといわれる、

経壇原  最上郡舟形町

この地名は、昔、長沢の福昌寺が大火事にあった時、寺の経文の焼け屑をここに捨てたところから生まれた地名といわれます。

小国川のアユ  最上郡舟形町

小国川は、アユの釣場として有名で、特に長沢付近は、川の石が大きく水温がよいので、大きいアユが集まり、釣の名人佐藤垢石は

真室川町  最上郡

真室川音頭」で知られる真室川町です。真室川は戦国時代から近世初めにかけて、最上地方北部に勢力をふるった鮭延


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真室川町及位  最上郡真室川町

秋田県との境の村で、むかしはここに番所があり、慶長の初め頃より佐藤家が代々改役をつとめていたところです。    

瀬見温泉の由来  最上郡最上町

文治三年(一一八七)、源義経が平泉の藤原秀衡を頼って落ちのびる時、武蔵坊弁慶を始め一三名の家臣とともに加賀の国

月楯の弁天  最上郡最上町

小国の開拓者田沢家が持っていたという弁財天を祀った月楯大明神です。田沢氏は安芸国(広島県)の人で、                       

曲垣平九郎  最上郡最上町

寛永三馬術の一人です。寛永三馬術というのは、講談や浪曲にもその名をうたわれている曲垣平九郎、向井蔵人、築紫市兵衛

最上町  

小国郷は、天平年間に安芸の国の加茂の人(広島県)であった田沢内匠介によって開拓されたのが始まりと伝えられます。

赤倉温泉  最上郡最上町

この温泉の発見は慈覚大師とも、又は七○○年前諸国を行脚した北条時頼とも伝えられ、記録には、今からおよそ二六○年前から、人  

富沢観音  最上郡最上町

最上三十三観音の一つです。本尊は馬頭観音で、貞観五年(八六四)慈覚大師が馬頭観音を彫りお堂を立てて農民の信仰を集め、   

万騎原  最上郡最上町

今からおよそ五〇○年以上前、足利家の武将細川氏が、陸奥の国から、出羽の新庄に至るこの辺の地域を治めて、小国日向守と

大堀鉱山  最上郡最上町

この鉱山の始まりは大正七年頃といわれ、中外鉱業が買収したのは昭和二六年で、盛況時には抗道総延長六六○○メートルあり、   

堺田・芭蕉  最上郡最上町

その名が示すようにこつの国の堺にできた村なので、古くからいろいろ記録に残されているところです。元禄の昔、鳴子から尿前の関を越え、

大明神山  最上郡最上町

山の中腹には、慈覚大師が祀ったといわれる、大明神が安置されております。大師は.山寺とこの山のどちらに、寺を建てようか迷った

笹森  最上郡最上町

昔、この集落にも関所がもうけられ、通行人の取締りが行なわれました。曽良の随行日記に「笹森に関所あり、新庄領関守は百姓に

隼人壇  最上郡最上町

白川の上流に法田(ほった)という集落があります。ここには隼人壇と呼ばれる三方に回り階段をもった屋敷跡があり、そこは安倍貞任の

太郎田観音  最上郡最上町

本尊は十一面観音で、高さ四二センチ(一尺四寸)ほどあり、慈覚大師の作といわれます。太郎田という地名は、田沢氏と伊豆三郎が

金洗井  山形市

今から約八○○年以上前に、宝沢村の炭焼藤太と言う人が、昔、八幡太郎が建てた山形市の鳥海、月山両所宮がひどく傷んでいるのを

千歳山  山形市

標高四七二メートルの山ですが、遠く奈良時代から、松の精と阿古耶姫(あこやひめ)とのはかない恋物語が伝えられ、歌枕「阿古耶の松」

富神山  山形市

近くの長谷堂は、出羽合戦の時、上杉氏の軍と最上軍の間で、激戦が展開された所です。その時、直江山城守が山形城を攻めようと、

山形温泉  山形市

山形温泉は、昭和二九年に発見された温泉で、湯温は四四度とさして高くはありませんが、神経痛や高血圧によく効くようです。山形県は

山形市

東に奥羽の山脈をひかえ、西には東北のアルブスとよばれる朝日連峰がつらなり、馬見ガ崎川にのぞむ、山形盆地の一部にひらけた町です

山形市十景 

観光では、樹氷と噴火口”お釜”で知られる蔵王連峰、東北の霊山”山寺”などで代表されますが、市内にも数多くの名所や旧蹟があり、

石行寺  山形市岩波

戸神山を左に見ながら山道を一三○○メートルほどのぼったところ岩波地区に、天台宗の新福山般若院石行寺があります。ここには

飯豊連峰  山形市岩波横根

横根というところは、飯豊山の登山口として知られています。飯豊山に登るコースはたくさんありますが、そのうちこの玉川口コースは、

芋煮会  山形市馬見ケ崎

食欲の秋には、馬見ヶ崎川畔で名物の芋煮会が開かれます。河原の石を積んで炉を作り、持参した大きな鍋に里芋、こんにゃく、牛肉、

馬見ケ崎の名の由来  山形市馬見ケ崎

馬見ケ崎川のもとの流れは、山形大橋の辺りから旧県庁前方面に流れていたため、山形城下は年中洪水に悩まされておりました。

中野城址  山形市大字中野

中野は斯波(最上氏)の手で室町時代初めに築かれた城下町で、近くには高櫛(たかだま)や蔵増(くらぞう)、長崎、山辺など、最上一族

山形城跡(霞城公園) 山形市霞城町

山形城は、霞の城ともいわれ、江戸時代の始めに、最上氏十一代の義光によって完成されました。戦国時代には、出羽百万石と称して繁栄

霞城の名の由来  山形市霞城町

徳川方についた最上義光は、石田軍についた会津の上杉軍に攻められましたが、関ヶ原の戦いで、徳川方の勝利に終わったことが

蔵王山神社の大鳥居  山形市上宝沢

蔵王山神社の大鳥居です。この鳥居は、明治百年記念事業として、山形市観光協会が主体となり、家内安全、交通安全、家業隆盛の

下条町  山形市

山形城下の北にあたり南の上町に対して、下条町と名づけられました。このあたりは、馬見ヶ崎川の扇状地の端にあたるため、”ドッコン水”

蔵王温泉  山形市蔵王温泉

蔵王温泉は、福島県の信夫高湯や、米沢の白布高湯と共に、奥羽三高湯の一ツに数えられる名湯です。また、蔵王スキー場の基地としても

蔵王堀田  山形市蔵王堀田

堀田集落の北の丘に神社があります。この神社は山の神とも呼ばれ、山仕事をする人達を守り、春には里に下りて田の神となって

唐松観音  山形市釈迦堂

今から九○○年以上前の昔、京都に豊玉姫という美しい姫がおりました。ある夜、夢まくらに現われた清水観音から、「都を遠く下った

炭焼藤太の伝説  山形市釈迦堂

鳥羽天皇のころ、宝沢(ほうざわ)の里に炭焼藤太という貧乏な若者がおりました。炭を焼いては山形、寒河江、白岩まで炭を売り歩

新山番所跡  山形市関沢

新山とこの先の関沢集落は、平安時代から宿場として賑わい、新山には番所、関沢には本陣が置かれました。当時は、城主の

平清水  山形市

平清水では窯業が盛んです。堂陸の小野藤次平が千歳山に石英粗面岩の風化土を発見し、伊藤藤十郎が唐津や瀬戸の流れをくんだ

笹谷の名のおこり  山形市平清水

千歳山に伝わる松の精と阿古耶姫の悲しい恋物語の中に、松の精が切られて名取川に運ばれる途中、笹谷峠で姫と別れを惜み、

松の精と阿古耶姫の伝説(万松寺)  山形市

松の精と、阿古耶姫の伝説があります。奈良時代の頃、奥州信夫(福島市)の領主・藤原豊光に阿古耶姫という美しい娘がおりました。

高原古墳  山形市高原町

県の史跡、高原古墳です。昭和二四年に発見されたときは七○~九○センチの盛土におおわれていましたが、今では斜長流紋岩六枚

小立の鳥居  山形市鳥居ヶ丘

小立の鳥居(国の重要文化財)は元木の鳥居とも言われ、石造明神鳥居で、竜山を背景に西向きに建てられています。高さ三・五メートル

花笠まつり  山形市

長い間、雪に閉じこめられる市民は、短い夏に全てを燃焼させ、夏祭りに酔います。その頂点が、八月六日、七日、八日の三日間に

 

 

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芋煮

 

光明寺  山形市七日町

七日町には、二七○年の間、この最上地方を治めた、最上一族の第一世斯波兼頼のお墓があります。兼頼が出家して開山し、

八日町  山形市

八日町は昔、出羽三山詣りの宿場として栄えた所で、八のつく日に市がたった場所です。町の名も二日町から始まり九日町を

船町  山形市

昔、この辺り村山、置賜地方一帯の産物は、最上川を利用して取引されましたが、産物は城下町として開けた山形市に一たん集め

専称寺 山形市緑町

最上義光が慶長二年に、真宗寺院を集めて専称寺に統制させ、豊臣秀次事件で先立った娘・駒姫の菩提寺としたものです。

豊臣秀次事件  山形市緑町

義光の次女で東国一の美女といわれた駒姫が、秀吉の名代として山形を訪れた秀次の目にとまり、将来の天下人に差し出されました

山寺・立石寺  山形市山寺

そそり立つ険して岩肌の山が、俗に山寺とよばれる立石寺です。山の上にお堂が見えます。「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」芭蕉の句

稲富流砲術  米沢市

温泉街の一角に、「直江城州公鉄砲鋳造の遣跡」と書かれた記念碑が建っております。米沢には、「稲富流の砲術」がうけつがれています。

上杉鷹山  米沢市

江戸時代の名君とうたわれた上杉鷹山公は、上杉十代目の殿様ですが、九州の日向、高鍋藩の秋月家から養子に来た方です。

白布  米沢市

この辺りの家は岩手県南部の曲屋のようなL字型の家が多く見られます。これは雪深い冬の生活から生まれたもので、一昔前は

白布温泉  米沢市

白布温泉は標高約九○○メートルの高原の湯で、大樽川の渓谷にのぞみ、後に西吾妻山を負い、東、西、南の三方は杉の森林に

直江山城守  米沢市

米沢の歴史で特筆されるのは、直江山城守と上杉鷹山公といわれます。山城守は藩祖・上杉謙信公につかえ、二代景勝公を助け、

米沢織  米沢市

米沢織は上杉藩十代目の殿様・上杉鷹山公が越後の国の小千谷から職人を招いて家臣達に教えたのがはじまりです。今も機屋さん

米沢牛  米沢市

米沢牛は、松阪や神戸と並ぶ牛肉のチャンピオンです。市内には牛肉専門の料理屋さんがたくさんあり、おいしい肉と地酒が旅情を

米沢市  

米沢市は山形県南部に位置し、奥羽山脈の西側に当る米沢盆地の中心都市です。徳川時代には上杉十五万石の城下町として知られました

米沢藩と会津藩  米沢市

米沢は上杉時代から会津との縁が深く、慶長三年(一五九八)には上杉景勝公が越後から会津に移り、三年後(一六○一)に米沢に

常信庵  米沢市駅前

米沢駅の近くに常信庵というお寺があります。源義経の家来に佐藤継信、忠信兄弟がおりました。その母親が尼となって梅唇と

興譲館  米沢市大字笹野

米沢藩時代の藩校”興譲館”は、安永五年(一七七六)に十代藩主・上杉治憲(鷹山)が元、細工町(現在の中央二丁目)の儒者の

繰返不動尊  米沢市大字李山

参道を入りますと、弘法大師によって開かれた繰返不動尊が祀られております。不動尊の奥には高さ一五メートルの不動滝があり

小野川温泉  米沢市小野川町‎

小野川温泉は標高三○○メートルで、大樽川の流れにのぞみ、背後に愛宕山を負った温泉です。小野小町が父をたずねる途中に

窪田  米沢市窪田町

窪田は、一口茄子の産地として有名です。窪田茄子は皮が柔かく小粒で、肉質のしまつているのが特長です。上杉景勝が会津から

黒井堰  米沢市窪田町

黒井堰は、寛政年間に造られた用水です。吾妻山を源とする松川は、この辺りの水田を潤して豊かな実りを見せてくれますが、

千眼寺  米沢市窪田町

千眼寺は色部長真が建立したお寺です。慶長六年の上杉家の米沢移城と同時に、この地に移されました。保呂羽権現堂の御本尊

笹野一刀彫  米沢市笹野

「おたかぽっぽ」の名で親しまれている米沢の民芸品「笹野一刀彫」はこの辺りで作られています。サルキリ、チヂレという独特の刀物

笹野観音堂  米沢市笹野本町

笹野観音堂は、平城天皇の大同元年(八○六)の創建と伝えられます。始めは斜平(なでら)山の中腹にありましたが、後に現在の

餐霞館跡  米沢市城南

上杉鷹山公の隠居後の住居、餐霞館跡です。昭和四五年に記念碑が建てられました。記念碑には鷹山公の胸像がはめこまれ、

舟坂峠と米沢盆地  米沢市李山

舟坂峠を登るにつれて米沢盆地がよく見渡せます。米沢盆地は大昔大きな湖だった所で、その名残りをとどめるのが赤湯の白竜湖

愛宕神社  米沢市遠山町

愛宕神社は斜平山の右、愛宕山の頂上にあり大同年間(八○六〜八一○)の創建と伝えられます。長井氏、伊達氏、蒲生氏、

藤浦洗詩碑  米沢市錦平

駐車場の奥に見える詩碑は、西吾妻スカイバレーの開通を記念して、地元の米沢新聞が建てたものです。詩人の藤浦洗氏の作詩に

花沢町  米沢市

花沢町は、上杉藩時代に下級武士が住んでいた所です。関ヶ原の戦以後、上杉家が会津一二○万石から米沢三○万石にへらされた

米沢城址(松ケ岬公園)  米沢市丸の内

米沢城は舞鶴城とか松ヶ岬城と呼ばれ、長井氏八代・伊達氏三代が居城しました。ここに初めて城が築かれましたのは、鎌倉時代

上杉記念館  米沢市丸の内

もと上杉伯爵の屋敷です。手入れのゆき届いた日本式庭園は四季折々の美しさを見せ、茶会などがもよおされます。建物は明治二九年

梓山  米沢市万世町

この辺りは古くから人が住んでいた所で、古代人の居住跡や遺跡が発見されています。梓山の地名は、昔「アズサ」の木がこの辺り

善光寺  米沢市万世町

堂森山の麓の堂森集落に善光寺があり、人々の信仰を集めております。善光寺は鎌倉時代に米沢を治めた、長井氏三代目の長井時秀

最上川  山形県

最上川は、国立公園の吾妻山を源として長井、山形、新庄と山形県を南から北につらぬいて酒田で日本海にそそぐ二一六キロの

国分寺薬師堂  山形市薬師町

薬師堂といって、出羽国の国分寺があったところです。国分寺は、聖武天皇の天平一三年に、全国を仏教によって統一した時代の

 

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最上川