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2020-10-31 22:21:00

箱根裏関所跡 はこねうらせきしょあと

神奈川県足柄下郡箱根町仙石原

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江戸時代には、箱根の山をこえる街道は須雲川ぞいに元箱根に出る、東海道・箱根路と裏街道と、海岸ぞいをゆく熱海街道の三つがあります。

そして幕府は、箱根路には箱根町の関所、裏街道には仙石原の裏関所、熱海をまわってゆく街道には、根府川の裏関所をもうけました。

仙石原には、元和八年(一六二二)に、はじめ番所ていどの簡単な関所がつくられましたが、四年後の寛永三年(一六二六)、これを正式な関所にあらため、裏街道が、駿州や甲州に通じる、重要な道であったせいもあり、取締りを大変厳しくし、女の人が通ることは決して許さず、箱根をとえるには、東海道をゆくか、熱海から日金山をのぼって三島へぬけるしかありませんでした。

天保十一年(一八四○)、祭文読みの一行六人が、関所破りの疑いをかけられ、はりつけにされたという、悲しい話も、ここの裏関所に伝わっています。

2020-10-31 22:20:00

湯本温泉 ゆもとおんせん

神奈川県足柄下郡箱根町

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早川と須雲川の交わるところにあるこの湯本は、鎌倉時代の後期の発見とされていますが、一説では、天平十年(七三八)釈定浄坊(しゃくじょうじょうぼう)が発見したとも言われており、いずれにしても、箱根で一番古くからある温泉です。

湯本という地名も、出湯が最初に見つかったところ、つまり湯の元になったところ、という事で名付けられました。(標高一一○メートル)

2020-10-31 22:17:00

笛塚伝説 ふえづかでんせつ

神奈川県足柄下郡箱根町

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箱根の山には、数多くの伝説が秘められていますが、美しい笛の音に涙をさそわれる、笛塚の話もたいへん有名です。

寛治元年(一○八七)、陸奥守八幡太郎義家が、奥州に力のあった清原氏の内部抗争を平定するために、兵をあげた、いわゆる後三年の役の頃の話です。

義家の弟、新羅三郎義光は、京の都で、兄の苦戦を知らされ、矢も楯もたまらず、軍勢をひきいてはるばる奥州へ馬を走らせました。

途中箱根の山にさしかかった時、義光をしたつてついてきた、年の頃十歳にもみたぬ豊原時秋に、京へもどるよう命じます。

時秋は、義光にとりすがって、「今さら京へ引きかえせとはあまりなお言葉、なにとぞおとものおゆるしを…」と頼むのですが、「わしは、今度の戦では命はないものと都をあとにしたが、そなたのような若い命をちらすなど、本意ではない、これよりもどれ」。

しかし時秋は承知せず、それではと、義光は道からすこしはなれた木蔭にうちより、「そなたの父、時元殿より笙(しょう)の秘曲をさずかっておる、それをそなたにさずけよう、わしはいつ死ぬとも知れぬ身、もしそなたまで命を失えば、笙の秘曲は永遠にこの世から消えてしまおう、戦に死ぬばかりが武士ではない、都に帰り、のちのちの世にこの秘曲を伝えねばならぬ…」。

時秋、これには是非もなく帰る決心をしました。

雲間をもれる月の光が、二人の心を哀れむかのように、箱狼の山を淡く照らし出し、これが今生の別れかと、義光はやおら笙をとって吹きはじめ、妙なる笙の音は、しんとした箱根の山にしみわたるのでした。

2020-10-31 22:16:00

初花の滝 はつはなのたき

神奈川県足柄下郡箱根町

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湯坂山の中腹に、一筋の小さな滝が見えますが、初花の滝と名づけられています。

滝には、お芝居「箱根霊験記躄仇討(いざりのあだうち)」になった、次のような話がのこされています。

躄(いざり)の飯沼勝五郎と、その妻初花が、須雲川のほとりに小屋をかけ、湯治をしながらや親の仇をさがしていましたが、初花は毎日滝にうたれて、夫の病の全快を祈りました。

やがて、夫の足はいえ、親の仇も見つかり、無事本懐をとげたということです。

こうして、いつしか滝は、初花の滝とよばれるようになったそうです。

2020-10-31 22:14:00

箱根用水 はこねようすい

神奈川県足柄下郡箱根町

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江戸の昔、外輪山のちょうどむこう側にある、駿河国駿東郡深良村は、水に恵まれない、作物のできの悪い、貧しい村でした。

名主の大場源之丞は、芦ノ湖の豊かな水に目をつけてはいましたが、外輪山が深良村とのあいだに、どっかりと腰をすえ、その水の利用を絶望的にしていました。

しかし、彼は、立ちふさがった外輪山のドテッパラに穴をほるという、壮大で夢のような大胆な計画を思いつき、江戸の町人・友野与右衛門に相談をもちかけました。

箱根権現の別当快長の尽力などもあって、ようやく幕府の許可もおり、寛文六年(一六六六)駿河側からほりはじめ、つづいて芦ノ湖側からつちをたたき、四年後の寛文十年(一六七○)、延べ八三万人、七三○○両(十億円あまり)をかけて、一三四二メートルのトンネルを完成しました。

深良村は、この用水の完成で、五百町歩の田畑がうるおい、八千石の新田が開拓されたといいます。

この時以来、芦ノ湖の水は静岡県のものとされ、箱根町とのあいだで、しばしば争いがおこっています。

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