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2020-07-25 15:20:00

三本木原の開拓・新渡戸伝 さんぼんぎはらのかいたく

青森県十和田市

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三本木原は、上北郡の東部に位置する、東西四十キロ、南北三十二キロの広々とした台地です。その中心都市、三本木町は、昭和三十一年から十和田市と改称され、国立公園十和田湖への東の玄関口として発展してきました。「寒い寒いと三本木平っこ寒い、二度と行くでない三本木平」と、古い盆踊り唄にもありますように、昔、この辺りは人家も樹木もない荒涼とした草原で、何のさえぎるものもないこの台地を、八甲田おろしが雪をまじえ、吹き荒れていました。その荒野を開発し、更に三本木町建設の基を築きましたのが、盛岡藩士、”新渡戸伝(号は太素)と長男・十次郎の二人でした。三本木原の大部分は、十和田火山(十和田湖)の軽石まじりの火山灰で、あつくおおわれた台地で、荒れるにまかせられていた唯一の理由は、水がなかったからです。南部藩士であった新渡戸伝の父は、盛岡から本州の北の果て、今の下北郡川内町へ移住の、止むない事になりました。伝(つとう)は、禄高を取り上げられ、収入の途絶えた父や家族を養うため、下北の物産を船で江戸へ送ったり、十和田山中の木材を伐り出して(奥入瀬川を利用し、筏にする)江戸に運んだり、商人としても、事業家としてもすぐれておりました。材木商として、京、大阪、四国などにも足を運び、各地の産業を広く見聞し、ことに関墾事業の調査は熱心で、実地に知識を深めました。数年後、父も帰藩が許されました。伝は手腕を認められ、南部藩の勘定奉行に任命され、千八百四十年、北上川流域の開拓に成功いたしましたので、かねてから心にとめておりました三本木原開拓事業に、一大決心をもってのりだしたのです。時に伝六十三歳です。十和田湖から流れ出る奥入瀬川から、トンネルを掘って用水路に水を引こうと考えた伝は、安政二年(一八五五)この工事に着手しました。当時は測量機械もなく工事は困難をきわめましたが、四年九ヶ月の辛苦の後、安政六年(一八五九)五月四日、奥入瀬の清流は、とうとうと三本木原にそそぎました。この事が南部十五代藩主利剛公(としひさこう)の耳に入り、稲生川と命名されました。この事業にあたりましたのは、新渡戸伝の他、息子の十次郎、孫の七郎の三代です。更に昭和十二年、国営の事業として取り上げられてから、原野の開拓と水路の拡張が進み、昭和三十五年に完成し、不毛の地とまで云われた三本木原も、現在のように豊かに稔る耕地となりました。ただ今では用水路としての稲生川が、十和田市駅前を通って太平洋岸まで、延々、五十キロメートルに及んでおります。上水完成の五月四日を中心に、太素祭(たいそさい)が行われています。