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2020-07-25 22:12:00

弘前城跡史 ひろさきじょうせきし

青森県弘前市下白銀町1

0172-33-8739

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弘前城は、戦国時代に豊臣秀吉から藩祖と認められた津軽為信が築城の計画をたて、二代藩主信枚が、慶長十六年(一六一一)に完成致しました。それ以来、十万石の津軽家本城として十二代、二百六十年の間、代々の藩主が住んだ所です。城の形態は、三重の堀を巡らした平山城で、東西約六百三十メートル、南北約千メートル、面積約、四十八万平方メートル、皇居の約半分、日比谷公園の約三倍に当ります。其の中に、追手門をはじめ、楼門が五ツ、三ツの櫓、天守閣を加え、計九ツの重要文化財があります。城跡は、明治二十七年に弘前公園として市民に開放されて以来、多くの人達の憩いの場となっています。桜の木は、明治十五年(一八八一一)に菊地楯衛が、千本を二の丸と西の郭に植えたのがはじまりで、明治二十七年からは、地元の人々の奉仕によって植えられ、それが今日では大木になり、「桜の古城」として全国的に有名になっています。 *追手門(国重文):三の丸追手門です。城の表玄関になります。築城時には搦手門(裏門)でしたが、四代藩主信政の時に追手門(おいてもん)となりました。それは、寛文五年(一六六五)から、碇ヶ関街道を参勤路としたためという事です。屋根に鯱(しゃち)をのせ、上層の白壁に鉄砲狭間をつけております。間口五間、高さ、十一メートル六七センチ。 *杉の大橋:この辺り一帯は三の丸で、架っている橋、杉の大橋です。昔は下馬札が立てられ、馬で来た者はここで馬を降り、本丸まで歩いて通りました。 *辰巳(東)の櫓(やぐら):(国重文財)慶長十六年(一六一一)の築造です。城跡の内には、この櫓を含めて三棟残っておりますが、全て三層三階からなっています。二の丸南門(国重文):大きさは追手門とほぼ同じです。雪国のためか、城門としては少し高く、軒の線が直線的な事に特徴がありますが、雪のすべりを良くするためなのでしょうか。未申(ひつじさる)の櫓(国重文):十二支の名前も全て、方角を表わしております。両側に並んでいるのは桜の木で、園内にはおよそ五千本の桜が植えられており、染井吉野、山桜、枝垂桜などが、妍(けん)を競います。下乗橋:小ぶりながらスタイルは仲を良く、特に満開の桜の花越しに仰ぐ天守閣の眺めは、豪華なものです。下乗橋では駕篭で来た人も必ずここで降り、本丸へは歩いて入りました。 *鶴の松:鶴の姿に似ているところからこの名がついています。亀の石:本丸の入口にこれを配しましたのは、鶴は千年亀は万年といわれるように、この城がいつまでも栄えるようにとの意味がこめられております。 *天守閣(国重文):独立式天守で、一、二層に切妻破風をつけ、矢狭間、石おとしをつけた古い形式で、小さいながらも風格があります。天守は初め、本丸南西隅につくられた五層のものでしたが、築城十六年後の寛永四年(一六一一七)に落雷で焼失してしまいました。その後、天守閣を造って城の警備を固める事は、徳川幕府に対してはばかられ、暫はそのままになっておりましたが、九代藩主の時、北方警備の功によって十万石に昇格したのを機に、文化七年(一八一○)隅櫓を改造するかたちで届けをだし、こっそりと築いたものです。ですから、城の四隅を固めるはずの櫓が、弘前城には三ツしかなく、当然あるべき戊亥の櫓は、この天守が兼ねているわけです。高さ約十六メートル、広さ百六平方メートル四千両の工費をかけて造られました。内部は、弘前城史料館として、一般に開放されております。 *鷹揚園(おうようえん):大正天皇が皇太子時代の、明治四十一年、弘前へおいでになった時、公園が美しい事をほめられ、「鷹揚園」と命名されました。藩政時代の建築が、これほど数多く残されているところは、他にあまり例をみない貴重な遣構といわれます。 *本丸跡:この広々とした本丸跡は一万五千百八十二平方メートル、畳を敷くと、九千二百畳位になります。又、本丸からは、西に眺められる岩木山が、まことに美しい事も、つとに知られます。 *岩木山は高さ千六百二十五メートル、それほど高い山ではありませんが、津軽平野の真中に、長く裾をひく姿は美しく、「岩木お山は良い姿、津軽娘は見て育つ」と昔から歌われ、津軽に生れた人々の心の故里になっております。 *丑寅の櫓(本丸跡を背にして):櫓は、矢の倉とも書いて、字の通り、武器を入れていた所で、城内から敵をうつための備えでもあったのです。 *護国神社:丑寅櫓を右に見て坂を下ると、護国神社で、旧八師団管区の戦死者を祀ってあります。その右手の広場は陸上競技場で、この辺り一帯が四の丸(北の郭・くるわ))です。まっすぐ進むと、北の郭北門(国重文)(亀甲門)に出ます。 *北の郭北門(国重文)(亀甲門):この門は、藩祖為信が攻略した、大光寺城の門を移したと伝えられ、柱などに古い矢傷があり、城門のなかで一番古いものです。参勤交代の路が藩政成立期には、西海岸経由であったところから、この門は追手門であったと考えられております。又、この門は他の門より一回り大きく、屋根に反りがあり、ゆるい曲線を描いています。(間口六間、総高十二メートル七十センチ。)江戸時代以降の老松の緑が白壁に映妻え、枝振りも美しい姿を、今も濠にうつして、弘前城は昔を偲ばせてくれます。雪深い東北に、二百六十余年という歴史の中に、このように多くの文化遺産を持つ城下町は、全国でも珍しいそうです。