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2020-07-30 21:56:00

八郎潟干拓 はちろうがたかんたく

南秋田郡大潟村

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八郎潟は東西十二キロ、南北二十七キロ、周囲八十二キロ、面積二万二千ヘクタールあり、わが国では琵琶湖(滋賀県)につぐ大きな湖でした。一番深いところでも五メートルしかなく、そのうえ湖底がたいらでよく肥えた土地でしたから、八郎潟の水を干して水田や畑を作ろうという計画は、江戸時代の末ごろから考えられてきました。しかしかつてない大がかりな干拓事業だけに、技術面や資金面から実施は無理だとされてきました。しかし第二次世界大戦後の深刻な食糧不足から、一九五二年(昭和二十七年)に、国家事業として干拓が計画されました。五四年(同二十九年)、オランダのヤンセン教授が来日して調査し、干拓可能と発表され、五七年(同三十二年)いよいよ世紀の大事業に手をそめることになり、干拓工事は八郎潟のまわりに堤防をきずくことからはじまりました。やわらかなヘドロ層に堤防をつくることはたいへんな難工事で、総延長百キロの堤防工事を完成するのに、五年もかかりました。堤防が完成し、一九六一年(同三十六年)排水がはじまります。湖底が現れるまで九ケ月、完全に排水するのに二年半かかりました。こうして干拓工事は終わり、一九六四年(同三十九年)九月十五ひ、干陸(かんりく)式がおこなわれ、新しく生まれた土地は大きな潟の村、大潟村と名づけらつれました。