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2020-07-31 09:28:00

金沢公園 かなざわこうえん

横手市金沢中野

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公園は桜やツツジの名所で、金沢の柵跡は在地豪族清原氏の居館で、後三年の役の古戦場でかつての戦いの史跡が数多く残されています。全山七○ヘクタールの柵跡を公園にして、山頂の本丸まで自動車道となっています。(正面の山は御獄山七四四メートル、黒森山七六三メートルです。)現在はわずかに本丸と二の丸跡などに柱穴跡が残り、兵糧倉跡からは焼米も発見されています。二の丸跡にある八幡神社は、藤原清衡が義家の命によって寛治七年(一○九三)、石清水八幡宮を勧請して創建したもので、本殿の内陣は創建以来のものといわれ、社宝には神馬の銅像などがあります。その他公園入り口近くの丘には、鎌倉権五郎景正の功名塚があり、片目カジカがいるという厨川などの史跡があります。柵とは:古代、東北の辺境に置かれた城塞を柵という。多くの場合、中央政権が夷蝦に対する備えとして造られた。 鎌倉権五郎景正功名塚と厨川:後三年の役で活躍した源義家の家臣鎌倉景正は、わずか一六歳で従軍し、鳥海の柵を攻撃した時、右の眼を射られてもその矢をぬかずに射返して、敵をたおしたといわれ、勇名をはせました。同僚の三浦為次がその矢をぬいてやろうとしましたが、どうしてもぬけないので、景正の額に足をかけてぬこうとしたところ、景正はいきなり小刀で下から為次を刺そうとしました。驚いた為次がわけを聞くと「弓矢で死ぬは武士の本望、生きながら面を足で踏まれるは武士にとって最大の侮辱、それゆえ汝を殺して自分も死ぬきだ。」と答えたので、為次はおのれの無礼を心よりわび、膝をつき矢をぬいて厨川の水で右目の傷を洗ってやりました。それ以来、厨川には、片目のカジカがすむようになったといわれています。また、義家は景正の手柄に対して、褒美として、景正が討ちとった敵の死体を集めて葬らせたのが”功名塚”といわれています。