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2020-08-03 14:15:00

戸(へ)の地名 へのちめい

岩手県北部から青森県東部にかけて、一戸から九戸という、番号のついた地名が残されておりますが、これは、今から約八百年ほど前の、総合開発の名残りともいえます。平泉で栄華を極めた藤原清衡も、始めは苗字がなかったのだそうですが、この地方の良馬と砂金を、京都の藤原氏に送って、藤原という苗字を貰ったといわれています。何時の時代もワイロはあったようです。藤原氏は、牧場の管理や、新しい土地開発に一ツの制度を設け、二男、三男、囚人を、これらの土地に送りました。台地と台地の間に小さな柵を設け、これを、「柵(さく)の戸(と)」と書いて、「キのへ」と読むと記録に残っております。一ツの柵の中は、牧場、山林、畑地、水田等を含んだ広大なもので、「一の部(べ)、二の部は南の門、三の門、四の部、五の部を西の門、六の部、七の部を北の門、八の部、九の部を東の門となす」と、古い書物にも残っております。いわゆる、「九ヶ部四門制」(ここのつの部(べ)と四つの門)であり、これを更に確立させたのが、甲斐の国(山梨県)の牧監(牧場の監者)であった、南部氏であるといわれています。