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2020-08-03 14:34:00

一関城跡 いちのせきじょうせき

一関市釣山

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一関城跡は現在は釣山公園とよばれ、市民の憩いの場所になっています。この城跡は、平安時代の中ごろ奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫。紫波。岩手)を支配した安倍氏の一族、磐井五郎家任のきずいた城といわれます。当時は、この一関を南の関門として、安倍一族が、朝廷に反乱をおこしたときの砦でした。前九年の役では、朝廷から差しむけられた源頼義と、奥州の豪族清原武則が、協力して安倍氏と戦い、この一関は破られました。安倍氏なきあとは、奥州平定に功績のあった、奥州藤原三代の城となり、つづいて葛西氏が支配-)た城でしたが、豊臣秀吉の天下統一後は、伊達氏の支城としてながく栄えました。世は伊達藩時代に移り、一関城には政宗の十男の伊達宗勝がはいり、俗に「一関様」とよばれるほどの権勢をほしいままにしましたが、伊達騒動の中心人物として失脚し、その後天和二年(一六八二)田村建顕を三万石の領主として迎え、これは幕末までつづきました。田村家は、奥州征伐で有名な坂上田村麻呂の子孫といわれ、また伊達政宗の奥方、陽徳院の生家にもあたる家柄でした。延暦のむかし、奥州征伐に活躍した田村麻呂の子孫が、統一後の奥州を治めるという、まことに皮肉なめぐりあわせでした。中心臣蔵で知られる赤穂の城主、浅野匠頭長矩が、江戸城中の松の廊下で刃傷事件をおこしたおり、この田村家の江戸屋敷に、匠頭の身柄が預けられ、匠頭はその屋敷内の庭で、切腹して果てました。