インフォメーション

2020-08-03 22:28:00

鮭と農民 しゃけとのうみん

津軽石川

--------------------------

昔から津軽石川ぞいに住む農民たちは、この川からとれる鮭を冬の生活の糧としておりましたが、藩政時代に南部藩が、この鮭を独占しようとしたことがあります。農民たちは鮭を取り上げられては生活の糧を失うことになりますので嘆願書を出しましたところ、川の途中に竹の簗(やな)を作り、そこをこえてのぼった鮭だけ、村人が獲ってもよいことになったのです。ところが藩の役人は、次第に簗の間を狭くし、鮭がのぼれないようにしてしまいました。たまたま天候が悪く、実りの少ない年があつて村人たちは一尾の鮭も獲れず困っておりました。この時見張りに来たのが、後藤又兵衛という若い武士でした。又兵衛は村人たちの嘆願に耳をかたむけ、何とかして村人たちを救いたいと考えましたが、藩の徒はどうしようもありません。ある日、川を見まわっていた又兵衛は、一尾の鮭が簗をくぐり出したのを見て、この簗の目を大きくすれば百姓たちが救われると思い、しかしそうすれば自分が簗破りの大罪人として死罪を問われることになります。又兵衛はそれでも村人を救おうと決心し、夜中に川へ行き、簗の竹を抜いて鮭を上流に放してやりました。やがてこのことが又兵衛の行なったことだと知った村人は、又兵衛を神様のようにあがめましたが、又兵衛は藩によび返され、死罪の宣告を受けました。又兵衛は死にのぞんで「私一人が死ぬのは何でもないが、村人に一尾の鮭も与えないのは正道ではない。ぜひ簗の目を寛大にしてほしい。さもなくば以後、津軽石川を鮭が通らないようになるであろう」と息を引きとりました。ところが又兵衛の死後、藩ではますます簗の目を厳重にしたのでした。すると不思議にもその年から、おびただしい漁獲高のあった津軽石川の鮭の姿が見られなくなったばかりでなく、鮭の監督に来る役人にも次々と不幸が重なりました。藩は今さらのように又兵衛の言葉を思い、深く反省してわら人形を川の岸辺に立て、厚く又兵術の霊を弔い、簗の目をゆるめたそうです。それからは、ふたたび鮭が津軽石川に姿を見せるようになったと言うことです。津軽石川の鮭の人工孵化は、明治三十八年から始められております。