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2020-08-04 09:47:00

中尊寺 ちゅうそんじ

西磐井郡平泉町平泉衣関202

0191-46-2211

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平泉文化の中心地、中尊寺は、今からおよそ千百年以上前、仁明天皇の御代(八五○)天台宗第三代の座主となられた、慈覚大師が、みちのく巡錫中にこの地の清らかさに感激し、自ら仏像を刻み、お寺を開きました。貞観元年(八五五)清和天皇より中尊寺の号を賜り、長治二年(一一○五)堀川天皇の勅により、藤原清衡が堂宇の再建に着手、天治三年(一一二六)に、完成致しました。二一年の歳月を費して、堂塔四十余り、僧坊三百を建て、勅願所を定めました。叉、二代基衡は中尊寺をしのぐ規模の毛越寺を建立、更に三代秀衡は毛越寺を完成させると共に、宇治の平等院を模した無量光院を建立し、「みちのくの京」として、東北の政治、文化の中心となり、平泉文化として一時代を画する藤原三代百年の栄華を築きました。移り変る歴史と共に、叉、頼朝の兵火によって建物の殆どを失い、残された貴重な文化財、国宝三千点に、その文化の偉大さを知るのみとなりました。 *金色堂:「五月(さみだれ)の 降り残してや 光堂」。芭蕉の句でも名高い金色堂は、天任二年(一一○九)初代清衡が十六年の年月をかけて完成した阿弥陀堂で、全て黒漆で厚く塗り、その上に金箔を重ねた金色さんぜんたる精巧さは、平安末期の美術、工芸の粋を集めたものです。現在でも、第一級の美術、工芸の極致といわれ、内陣には有名な七宝壮厳の巻柱を立て、十二の仏様を蒔き絵とした豪華なものです。中央須弥壇には清衡、その左右に基衡、秀衡の遺体がミイラとなって納められております。四本の巻柱に囲まれた内陣には、阿弥陀如来像、阿弥陀三尊、六地蔵など、寄木造り十一体の仏像が安置され、人々を極楽浄土へ導いておられます。旧覆堂と覆堂(鞘堂・さやどう):旧覆堂は、金色堂建立から百六十年余りの後、正応元年(一二八八)に、鎌倉幕府が金色堂保護のため、金色堂をすっぽりとおおう、覆堂を建造したのです。金色堂が今日に残されましたのも、との覆堂によって、六七○年余りの間、荒廃から守り抜かれたからです。現在の覆堂は、金色堂が再び修復の必要にせまられたため、昭和三七年からの解体修理のあと、四三年に、防湿・防温など、近代の技術を駆使して完成したものです。このため旧覆堂は、大金堂跡近くに移築されています。鎌倉時代の建造物として、重要文化財に指定されており、堂の裏手に「五月雨の 降り残してや 光堂」の、芭蕉の句碑があります。 経蔵:経蔵は、天治三年(一一二六)一切経を収蔵するために、清衡が、伽藍の一部として建立致しました。当時は二階造りでしたが、野火により上部を失い、現在は一階だけになっております。三代秀衡が奉納した一切経三部は、当初は二万巻あったといわれていますが、現在は、二七三九巻が残されております。堂に納められた一切経は、美術的価値も高く、経箱は一部を堂に残し、讃衡蔵(さんこうぞう)に移されています。 讃衡蔵(さんこうぞう):中尊寺、一山十七ヶ院の、国宝、仏像、美術工芸品などが収蔵されている所です。文化財保護の目的から、昭和三十年に完成した鉄筋コンクリート造りの建物です。 大金堂跡:中尊寺の本堂のあった処で、三間四面、本堂から左右に二二間の廻廊がつき、堂の内部に丈六皆金色の釈迦三尊各一体に、脇士仏の像が配置されておりました。(建武四年(一三三七)焼失) 武蔵坊弁慶の墓:参道、入口広場に、弁慶松といわれる松の大木があり、その下に高さ六十セソチほどの五輪塔があります。それが弁慶の墓といわれています。その傍に「色かへぬ 松のあるしや 武蔵坊」素鳥と刻んだ碑があります。 弁慶堂:東の物見展望台の左に八幡堂、弁慶堂、薬師堂があります。弁慶堂は文政十一年(一八二八)に再建されたもので、本尊は愛宕尊です。堂内にに安置されている像は、弁慶衣川立往生の等身木造で知られております。 勧進帳:平家の手を逃れ、鞍馬山から平泉に下り、秀衡に手厚くもてなされて、幸せな少年時代を送った牛若丸が、二二歳の時、兄頼朝が兵をおこしたのを聞きつけ、秀衡の軍勢をひきつれ、頼朝の陣にかけつけたのでした。やがて源平合戦となり、義経の名は日増に高まり、うたがい深い頼朝と仲違いとなり、京都や鎌倉に身のおきどころのなくなった義経公は、再び安住の地を求めてみちのくに下り、義経公二度目の東下りとなりました。この途中、加賀の国(石川県)安宅の関を越えようとした時、有名な「勧進帳」のお話がおきたのです。山伏姿に身をやつした義経主従一行は、安宅の関にさしかふりますと、関守役の富樫左ヱ門が、「あいや暫く、山伏姿の義経主従が、人目をさけてみちのくへ落ちのびるとの事、みつけし者は、早速めしとれとの御誼議」目ざとい左ヱ門に見つけられてしまいました。とれを聞くや弁慶は、もっていた金剛杖をふりあげて、強力姿の義経を打ちつけ、義経公でない証しにと、涙をかくして主君を打ち続けました。これをじっと見て左ヱ門、「疑いは晴れた、早々に退散いたせ」と、弁慶と知りながら、弁慶の心に感じ、見逃したのでした。とれが歌舞伎十八番中の「勧進帳」として、今でも人気のある出し物になっております。こうして平泉まで落ちのびて行った義経公を、秀衡は再び喜んで迎え、自分の館のそばの、高館に屋敷を与え、住まわせたのでした。秀衡がこの世を去ると、頼朝の詮議はきびしくな、り、四代目泰衡は幕府の威力をおそれ、義経討伐を引きうけ、高館に兵を差し向け、義経は三一歳の生涯を平泉に終えたのでした。