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2020-08-05 09:20:00

盛岡について もりおか

天正十八年(一五九○)三戸に居城していた南部信直は、豊臣秀吉の小田原征伐に参加したため、糠部・閉伊・岩手・志和・稗貫・和賀・鹿角の七郡の所領を安堵されました。翌年起きた九戸の乱を鎮圧すると、三戸城から九戸城にうつり、さらに北上川の水運を利用した交通の要衝であり、その流域が穀倉地帯である、不来方(こずかた)の地に城を築きさはじめました。そしてその地の名を盛岡とあらため同時に城下町の建設もすすめました。県都盛岡のはじまりです。江戸時代には盛岡藩十万石(文化五年、一八○八年には二十万石に加増)の城下町として、また北上川の舟運の河港として栄えました。

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岩手県の県庁所在地盛岡は、県のほぼ中心に位置し、中心部は北上川、雫石川、中津川の合流点付近にあり、北に岩手山(二○四)を仰ぎ、緑の多い落ち着いた街です。南部氏の城下町として発展し、今も盛岡城跡や上ノ橋、紺屋町付近に昔を偲ばせる風情が残っております。東北新幹線、東北自動車道の開通で活気づき、十和田、八幡平、陸中海岸などへの基地として重要な奥東北の表玄関となっています。叉、東北本線や、さらに田沢湖線、山田線の始発駅にもなっています。

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「三ヶ月の丸くなるまで南部領」と、うたわれて、その領地の広さを誇った南部氏、歴代二十万石の城下町であった盛岡市は、みちのく京都と並び称される、昔ながらの情緒を色濃く留めた県都です。慶長年間(一五九六‐~一六一五)に、南部氏二十六代信直が不来方城(盛岡城)を築城、六十年の歳月をかけて、築城、と共に城下町を形成して藩政を布きました。「盛り上り、栄える岡」の願いをこめて、文禄二年(一五九三)に盛岡の地名が生まれました。市街地の北西に、奥羽山脈の主峰、岩手山(二○一四m)を望み、東南部は緑の丘陵地帯に囲まれ、北上川が南流し、東西から中津川と雫石川が合流して市街地を貫流しています。盛岡城は、その三筋の合流点を天然の要塞として築城されたものです。城下町盛岡は、元和年間(一六一五~二四)に五の家型の構想で町づくりがすすめられ、城を中心に、北側に武家屋敷、その外側に商人町や職人町を置き、城下二十三町の区画を定めました。現在は、中央通り、本町通り、大通りと区画整理され、城下町の名残りを見る事は少くなりましたが、旧職人町に、肴町、材木町、紺屋町などの町名が残っております。市内には史跡、名勝が多く、盛岡城跡(岩手公園)、桜の名所高松の池、裁判所構内にあります石割桜、樹令約三百三十年以上、幹囲り三・九メートルの木が、周囲約二十二メートルの大きな花崗岩の丸石の割れ目に生えています。そして、石川啄木の歌碑、報恩寺の五百羅漢、擬宝珠のある上の橋、美術館など見どころが多く、我が国最大の民間牧場、小岩井農場や、繋温泉も近くにあります。伝統行事には、南部駒の産地にふさわしい、チャグチャグ馬ッ子、さんさ踊りで賑わう夏まつり、盆行事の舟ッ子流し、秋の八幡宮例大祭、秋も深まり、冬仕度に気忙しくなると、厳冬の裸まつりと続きます。「不来方(こずかた)のお城」と共に四百年近く歩んできた盛岡は、交通機関の発達と共に、十和田八幡平、陸中海岸、両国立公園の観光中継地としても脚光をあび、奥東北への表玄関都市として発展しております。