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2020-08-05 09:25:00

厨川柵跡・天昌寺 くりやがわさくあと・てんしょうじ

盛岡市安倍館町・盛岡市天昌寺町

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天昌寺付近一帯が、前九年の役(永承六年。一○五一〜康平五年.一○六二)のとき、安倍貞任の最後の拠点となった厨川柵のあったところです。奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手)を支配していた俘囚の長安倍頼良の子貞任(さだとう)は、天喜五年(一○五七)、源義家軍に果敢に抵抗し、同年十一月壊滅的な打撃をあたえました。しかし康平五年(一○六二)九月、源頼義は出羽山北の俘囚の長清原氏を味方にひきいれ形勢を逆転しました。衣川柵、鳥海柵、黒沢尻柵をつぎつぎに落とし、安倍氏の最後の拠点厨川柵を二万の大軍で包囲し、攻撃しました。貞任軍は空堀に剣を逆さに立て、鉄菱をまき、石を投げ、熱湯をあびせよく奮戦します。攻めあぐんだ頼義軍は、民家を壊して空堀を埋め、その上に萱草を山と積んで火を放ちました。こうして紅蓮の炎につつまれて厨川柵は落ち、貞任は、その子千世童子とともに戦死し、安倍氏は滅び、前九年の役は終わりました。このとき平泉王国の創始者藤原清衡の父で安倍頼時の娘婿、藤原経清も惨殺されています。昭和三十二年の発掘で柵列や楼跡、寄せ手を悩ませた鉄菱などが発見されています。衣川柵が源氏・清原軍に落とされ、貞任が落ちていくのを見つけて義家は「衣のたては ほころびにけり」とよびかけます。振り返った貞任は、「年を経し 糸のみだれの 苦しさに」と応じたというのはこの時の話です。