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2020-08-05 09:48:00

石川啄木記念館 いしかわたくぼくきねんかん

盛岡市玉山区渋民渋民9

019-683-2315

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昭和六十一年五月に啄木生誕百年を記念して、すでにあった記念館のすぐそばに新築されたものです。少年時代、詩人としての出発、代用教員時代、北海道漂泊時代、東京時代に分けて展示されています。*石川啄木:明治十九年、南岩手郡日戸村(現岩手郡玉山村)に生れました。学齢より一年早く渋民小学校に入学、首席で卒業し神童の名を得ました。盛岡尋常高等小学校、盛岡中学校へと進み、ここで金田一京助を知り、彼の指導で与謝野鉄幹の創立した東京新詩社の社友になり、「明星」を愛読しました。あと半年で卒業というときに中学を退学し、上京しました。時に十八歳でした。翌年「明星」に「愁調」と題する長詩を発表、二十歳には処女詩集「あこがれ」を出版し、天才詩人の名をほしいままにしました。しかしその年父が失職、啄木は堀合節子と結婚、盛岡市雌子小路に新居を構えましたが二人だけの甘い生活とはいかず、四畳半と八畳の二間に母と新妻に妹をくわえた五人の借家住まいが始まります。結婚の翌年母校渋民小学校の代用教員になりました。教壇に立ちながら「雲は天才である」「面影」「葬列」などの小説を書き、旺盛な創作意欲を見せていましたが、父親の宝徳寺復帰運動が失敗に終わり、また代用教員になって一年後、校長排斥運動をやって盛岡にはいられなくなり、函館にわたります。以来札幌、小樽、釧路と転々とし、明治四十一年啄木二十三歳の春上京し、創作生活に入ります。「烏影」「赤痢」「足跡」「病院の窓」など多くの小説を書きましたが、世に認められず、失意の生活を送り、しかしその苦しい生活の中で生み出した短歌が歌壇一に新風を吹きこみました。のちに「一握の砂」「悲しき玩具」としてまとめられています。貧困と孤独にあえぐ啄木は明治四十三年の大逆事件をきっかけに社会主義思想に人生の指標を見いだし、「時代閉塞の現状」などのすぐれた評論を発表して行きます。しかし病苦と貧困はつのり、明治四十五年三月七日、母が肺結核で死去し、四月十三日には啄木が小石川久堅町で父、妻、若山牧水にみとられながら薄幸の生涯をとじました。時に二十七歳、母と同じ肺結核でした。翌年五月五日、妻節子が肺結核のため啄木を追いかけるように他界しました。