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2020-08-05 09:52:00

石川啄木・生誕地 いしかわたくぼくせいたんち

盛岡市玉山区日戸古屋敷71

019-685-2520

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岩手が生んだ薄幸の詩人”石川啄木”は、姫神山の麓、玉山村の常光寺というお寺で産声をあげました。「渋民村」は啄木の故郷と全国的に知られている地名ですが、町村合併により残念ですが消えてしまいました。この地に生れた啄木は、名を一(はじめ)といい、少年時代を宝徳寺で過し、中学の頃、文学に関心を深めて上京、与謝野鉄幹に学び、詩集”あこがれ”を刊行しました。「わが恋を はじめて友にうち明けし 夜のことなど 思い出づる日」。盛岡で堀合節子と結婚、故郷、渋民村で代用教員として教鞭をとりました。当時としては、革新的な思想の持主であった啄本は、校長の教育方針と意見があわず、高学年生を集めてストライキを決行し、そのため免職となり教壇を去りました。此の時二十一歳です。「かにかくに 渋民村は恋しかり 思ひ出の山 思ひ出の川」。学校からも渋民村からも追われ、北海道各地を転々と歩き、再び上京いたしました。「石をもて 追わるるごとく故里を いでし悲しみ 消ゆる時なし」。北海道の啄木は、函館や釧路に住み、商工会議所の職員、小学校の代用教員、函館日々新聞の記者と、転々と職をかえて生活をしていました。不幸なことに明治四十年八月の大火に会い「函館の かの焼跡を去りし夜の 心残りを 今に残しつ」。僅か四ヶ月余りで北海道を去り、上京したのが二十三歳の夏でした。朝日新聞の校正係として生活を得、小説家を志して出版したのですが世評は芳しくなく、そのいきづまりを歌と評論に求めました。それが従来の短歌に一大改革をもたらした、「一握の砂」「悲しき玩具」評論の、「食うべき詩」などです。ほどなく社会思想に近ずき、そこに人生の目標を見たのですが、いつしか病に蝕ぱまれ、病苦と貧困の極みにありながら、新しい明日を夢に描きながら、明治四十五年四月十三日、二十七歳の若さで薄幸の生涯を閉じました。「新しき 明白の来るを 信ずという 自分の言葉に 嘘はなけれど」「東海の 小島の磯の 白砂に われなきぬれて かにとたわむる」 「友がみな 我よりえらく見ゆる時 花を買いきて妻としたしむ」 「たわむれに 母を背負いてそのあまり かるきに泣きて三歩あゆまず」 「働けど働けどなお我が暮し らくにならざり じっと手を見る」 「ふるさとの山に向いて云う事なし ふるさとの山はありがたきかな」。