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2020-08-08 13:37:00

伊達騒動・寛文事件 だてそうどう

江戸時代前期、仙台藩に起こった御家騒動を一般には伊達騒動といいますが、仙台藩では寛文事件とよんでいます。この事件に材をとって芝居にしたのが有名な「伽羅(めいぼく)先代萩」です。万治三年(一六六○)、幕府は伊達綱宗に、江戸小石川堀の普請のさいの不行跡のかどで、逼塞(江戸時代の刑罰の一つ。武士や僧侶に科せられたもので、門を閉じ昼間の出入りを禁じられた)を命じ、同時に、二歳の亀千代(のちの綱村)に家督を相続させ、叔父伊達兵部宗勝(政宗十男)と庶兄田村右京宗良に後見を命じました。兵部は奉行原田甲斐らをかかえて内政をかため、一門の反対勢力をおさえ、斬罪・切腹十七人をふくむ百二十人を処罰し、権勢をふるっていました。おりから伊達安芸宗重(涌谷一万石)は伊達式部宗倫(登米一万七千石)と知行地の境界紛争をつづけ、兵部の裁定に不満をもっていました。寛文十年(一六七○)、式部宗倫が亡くなりました。兵部宗勝に謀殺されたとか兵部宗勝邸で食べた酒肴で食中毒をおこしたなどとさまざまな噂が立ちましたが、式部宗倫の死を機に安芸は幕府に、兵部と原田甲斐は法をおかしていると上訴しました。翌十一年(一六七一)幕府の審理がはじまり、一二月二十七日大老酒井忠清邸で突然甲斐が安芸を斬殺、甲斐もまた斬死しました。幕府は兵部を土佐松平にあずけ、田村右京を閉門(逼塞より重く、門を閉じ、昼夜とも出入リを禁じた刑)、甲斐の四人の子を切腹に処し、孫を殺し、亀千代の後見を解きました。これが事件のあらましで、かってはお家乗つ取り説や中心臣逆臣説がいわれ、山本周五郎の小説『縦の木は残った』は原田甲斐忠臣説をとつていますが、いまは兵部たちの進歩勢力と一門門閥の保守勢力の抗争の中で起こった事件とされています。