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2020-08-08 20:25:00

片倉小十郎景綱・重長・景長 かたくらこじゅうろう

置賜郡下長井庄宮村(現長井市)

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初代片倉小十郎景綱は、出羽国置賜郡下長井庄宮村(現長井市)で、米沢八幡社の神官景重の子として生まれました。景綱が伊達輝宗(政宗の父)に見出され、徒小姓(かちこしょう)として梵天丸(後の政宗)につけられたのは十九歳のときでした。終生政宗につかえ、度々合戦に参戦し、良き参謀として政宗の厚い信頼を得ることになり、伊達成実と並んで政宗の股肱(ここう)(漢字の意味はももとひじをさし、それが転じて、手足となって働く、君主がもつともたよりとすべき家臣のことをさします)の臣の一人として知られた存在です。景綱の功績として今に伝えられているのが、強大な武力でせまってきた豊臣秀吉の圧力に対して、政宗に小田原参陣の時期の遅れを説いて、伊達家百年の大計のため、一時の恥を忍ばねばならないと、”不戦降伏の方策”をもって決断をうながしました。そこで政宗は秀吉との対決も辞さず、とした伊達成実らの抗戦論をしりぞけ、景綱の和平の道を受け入れ、小田原へ参陣降伏いたしました。片倉小十郎景綱の智将ぶりは豊臣秀吉、徳川家康からも高い評価を得た、伊達家随一の名参謀として、今に語りつがれています。また、二代片倉小十郎重長は、徳川幕府の存亡をかけた大阪夏の陣で、大阪方の強豪・真田隊と激しい戦いをくりひろげ、また片山道明寺の合戦では、お芝居や講談で知られた後藤又兵衛を討ち取り、「鬼の小十郎」の名を広く知らしめました。この後、大阪方真田幸村の息女阿梅は、縁あって重長の後室になっています。重長には、子供は喜佐という娘が一人だけであったので、喜佐の長子(一番ははじめの子、孫にあたる)を跡継といたしましたのが、のちの三代片倉小十郎景長です。仙台藩をゆるがした「寛文事件」、世に「伊達騒動」といわれるお家騒動がおこり、まかり間違えばお家取りつぶしという危機に際し、国家老として幼い殿様・亀千代(のちの綱村)につき従い、伊達六十二万石を救いました。後世、この伊達騒動を題材に「伽羅先代萩」の名で人形浄瑠璃や歌舞伎講談で取りあげられ、近いところでは、山本周五郎の小説「縦ノ木は残った」で良く知られるようになりました。