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2020-08-13 09:57:00

出羽路の芭蕉 でわじのばしょう

庄内地方は旅に生き、旅にうたい、旅先で倒れた、松尾芭蕉にゆかりの深い土地です。元禄二年の昔、芭蕉が門人の曾良をつれて、江戸深川の六間掘りの草庵からみちのくの、行脚の一歩を印したのは、晩春の旧三月二十七日のことです。それから日光から白河の関を越え、松島に来て日本一の風光をほめたたえ、叉平泉では「夏草や兵(つわもの)どのが夢のあと」の句を残し、宮城県鳴子から尿前の関を越え、山形県最上郡最上町の、堺田部落にたどりついたのは、元禄二年の五月十五日、芭蕉がはじめて、出羽の国に足を、とどめた最初の日です。「のみ虱(しらみ) 馬の尿(しと)する 枕もと」この句をはじめに、山刃伐(なたぎり)、尾花沢、山寺と出羽路をたどった芭蕉は「五月雨を 集めて早し 最上川」の句で始った最上川下りで、庄内への第一歩をふみ入れたのです。最上川は熊本県の球磨川と共に、日本三急流の一つに数えられておりますが、降り続く五月雨で、あふれた濁流のすさまじさに、芭蕉がどんなに肝をひやしたか、奥の細道を読みましても、うかがわれる程です。それでも本合海から、川舟に乗る頃には雨も上り、雲間からは初夏の日射しが、一杯に注いでおりました。山鳥や鶯のさえずりが川面を渡り、青葉若葉の影を映して、落ちる白糸の滝に、旅のつかれも、しばしば忘れた事でしょう。六月三日、清川で最上川と別れ、手向(とうげ)に着いたのは夕方でした。手向の俳人、呂丸の案内でたどる杉の参道は冷気あたりに満ちく浮世のざわめきを離れた境内には、寺々の読経の声と赦川のせせらぎの音だけが、静かに流れておりました。「涼しさや ほの三日月の 羽黒山」すべりがちな石段を、ゆっくり登る芭蕉の姿を、中天から忍びこんだ三日月が、そっと包んでいてくれたのでしょう。その夜芭蕉は、羽黒山南谷の紫苑寺に泊り、五七代別当代会覚阿闇利のもてなしを受けております。「ありがたや 雪をかほらす 南谷」修験者の声のこだまする月夜の南谷(みなみだに)に立った芭蕉は、何を考え、何を感じたのでしようか。六月六日、二日間も降り続いた雨は、やっと晴れいよいよ月山に登ることになりました。月山は、芭蕉の登った山では一番高い山、白衣に身を固め、宝冠をかむり締めをかけ、強力に導かれながら登った四六歳の芭蕉の姿が、目に浮ぶようです。「息絶え身 こごえて頂上に至れば 日没して 月顕る」真赤にそまりながらくずれ、青白い月を映して、おし寄せる雲の海の月山で、芭蕉は静かに夜明けを待っております。「雲の峰 幾つ崩れて 月の山」七日朝、御来仰を拝んだ芭蕉は、湯殿山に下りました。「語られぬ 湯殿にぬらす 快哉(たもとかな)」。出羽三山の奥の院、湯殿山の御神体は、今でも写真もとってはいけないことになっております。時代錯誤、と批判する前に、やはり大切にしなければならない、宗教人の感情なのでしょう。湯殿山から再び月山を通って、羽黒山に着いた芭蕉が、鶴岡に出たのは六月十日、五月雨のけむる日でした。肌まで雨にぬれながら、長山重行の家に着いた芭蕉は、三山登山の疲れが出た上にお腹をこわして、すっかり弱っておりました。それをみた主も風流の人、念入りに作ったおかゆに民田なすのゆでたのをそえて出しました。このあっさりした味に芭蕉は非常に喜んで「珍らしや 山を出羽の 初なすび」とよんでおります。その後、雨の中を酒田に着いた芭蕉は、十五日、篠つく雨と飛び砂に悩みながら、象潟を訪ね再び酒田に引き返して約一週間酒田の俳人と遊び、二十五日に越後路さして行脚の旅を続ております。月を越して七月に入れば、七夕も間近です。越後路を急ぐ芭蕉の頭上には、今までの雨を忘れたように、夜空には銀河が浮んでいたことでしょう。「荒海や 佐渡に横たう 天の河」