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2020-08-13 22:29:00

酒田市 さかたし

現在の市内は、最上川の北側にありますが、旧市内は最上川の南側で、宮ノ浦と呼ばれている所です。今から八○○年以上前、はじめて宮ノ浦に住みついた人達は、岩手県平泉で栄華をほこった藤原一族といわれ、約三○○年くらい続きましたが、そこは土地が低く、最上川がたびたび洪水をおこすので、今から四八○年程前に最上最上川の北側にあたる今のところに移ったのでした。その後、信州の松代から庄内藩主として移った、酒井侯がこの地方をおさめ、農業政策に力をそそぎました。叉、寛文十二年(一六七二)に、河村瑞軒がこの地を訪れて、瑞軒蔵といわれるお米の倉庫をたてて、西廻り航路を開きました。それまでは江戸へお米を運ぶのに、一年もかかったものが、わずか三ヶ月に短縮されたといわれます。庄内でとれるお米は、ほとんど酒田市内の倉庫に集められ、船や鉄道を利用して全国へ送られました。このように交通の要所に当っていた所から、酒田は幕府米の積出港として栄え、江戸、大阪はもちろん四国、九州からも千石船が訪れるようになり、酒田の名は庄内米の名と共に、全国的に知られるようになりました。

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酒田市は、昭和八年に市政がしかれ、昭和二十九年の町村合併で、山形市に次いで山形県で二番目の都市です。酒田市は庄内平野の真中を流れる最上川の河口に発達した町です。山形県でただ一つの海の玄関、酒田港を持ち、昔から、物資の集散地として栄えてきました。その広さは、南の端から北の端まで、バスで約三○分、東西は、酒田港から船で二時間もかかる、日本海の孤島、「飛島」も加え、その面積はざっと、一七四平方キロもあります。このように、途方もなく広い酒田市内には、海あり、川あり、砂丘あり、二六万石のたんぼありで、酒田市は文字通り、大田園都市でもあります。酒田(さかた)は今でこそ、お酒の酒という字と、田園の田の字の、一寸欲張った二つの字を並べて、酒田とよんでいますが、昔は砂の字と新潟の潟という字を並べて、砂潟(さかた)とよんだり、又狭いという字と新潟の潟をくっつけて、狭潟ともいつておりました。このように、昔の名前からもわかるように、酒田の町は、最上川が運んできた砂と、強いシベリアの季節風が、海辺から吹き上げた砂とで、出来た砂原の上の町です。昔は、最上川と新井田川の川べりに、家屋敷が立ち並び、そのまわりは、うねうねと続く砂丘地で、絶えず洪水や、風にとばされてくる砂におびやかされた町でした。その砂も今では、緑の影濃い黒松の砂防林で防がれ、鳥海山から直ぐ日本海に流れ下る、庄内特有のあばれ川も、提防を作り、ダムをきずき、植林を続けた多くの先覚者達の努力で、おとなしくおさまりました。そして庄内平野は、平和で豊かな、お米一三○万石の里となり、酒田市は海陸両方の交通にめぐまれて、米の集散地、又工業地帯として、まずはめでたく、「お酒の酒と、田園の酒田」となったわけです。酒田が町らしく、まとまるようになったのは、今から八○○年以上も前の、文治年間といわれています。文治年間と申しますと、源頼朝が弟義経を奥州の平泉で討たせ、ついに奥州の藤原秀衡一族を、ほろぼした時で、その秀衡の妹、徳尼公が、三六人の家来に守られて、宮の浦という所に逃れ、住みついたのが、酒田の町のはじまりといわれております。宮の浦は、今の港と、最上川を中にはさんだ、向う岸にありますが、昔の酒田はそこで四○○年余り続き、戸数も一千戸程でした。しかし、宮の浦は土地が低く、度々洪水にみまわれましたので、今から四五○年程前に、最上川の北岸に移ったのです。その後、酒井候が庄内藩主として、信州松代から移ってこられ、農業政策に力を注ぐようになりますと、酒田の港は幕府米の、積出港として栄え、江戸、大阪はもとより、四国、九州からも千石船が訪れるようにたり、酒田の名は、庄内米の名と共に、全国に知られるようになりました。市内の見どころとしては、亀ヶ崎城跡(現在県立酒田東高校が建つ)、大地主として全国的に知られていた、本間家本宅や本間家の別荘だった「本間美術館」、忠海上人、円明海上人の即身仏(ミイラ)が安置されている「海向寺」があります。このように古い物と新しい物が同居している酒田ですが、昭和五十一年十月の、”酒田大火”以後、区画整理が整いました。