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2020-08-13 22:32:00

酒田の大金持 さかたのかねもち

酒田市

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昔、酒田に大金持がおりました。「この国がどんなに広くとも、わしのような金持は二人とおるまい」と口ぐせのようにいばるのも無理もなく、一日では歩きまわれないほどの、大きな屋敷をもち、ピカピカ光る家は、まるで竜宮城のようでした。ところが、ある日旅の男がやってきて、毎日火を噴き出している山や、地獄の釜のようにもえたぎっている池など、よその国の珍らしい話うをしました。すると、「なるほど、世の中は広いものだ。しかし、わしほどの金持は又とあるまい」と、金持は得意そうに申します。しばらく考えていた旅人は、「京の都ではフスマに、絵のかわりに黄金を張りつめてある家がござったが、当家ではいかがかな」といいますと、金持は「黄金かね、そんなら裏の倉庫へ行けば、くさるほどあるさ」とはいったものの、おもしろくありません。そして、何をおもったのか、「酒倉の酒をみんな流せ」と召使に命じました。見わたすかぎり並んでいる白い土蔵の中には、大きなダルがギッシリとつまり、中には黄金色をした、かぐわしいお酒が一杯入っています。召使い達は、命ぜられるままにタルをあけて、川の中へ全部流しました。流し終るのに七日七晩かかったということです。酒は小川から最上川へ流れこみ、幾日目かには川口はもちろん、田の中にまでも酒があふれました。それ以来、誰いうとなく、このあたりを酒田とよぶようになったというとです。酒田は、米の集散地として栄えた町で、明治のはじめまでは庄内はもちろん、秋田の由利米や山形の村山米なども、この酒田に運び出されておりました。そのため、お米を入れておく蔵は軒をつらねて立ち並び、明治の中頃までは「いろは蔵」として知られておりました。いろは蔵という名前は、当時、新井田(にいだ)川の川くりに、ちょうど四八の蔵が並んでいたので、いろは四八文字にちなんで、いろは四八蔵と名づけられたもので、三三○余年前の寛文年間(一六六一〜一六七三)に建てられましたが、明治二七年、庄内地方一帯をおそった大地震ため、全部つぶれてしまい、今ではそのおもかげもありません。当時の記録によりますと、大地震のあったとき、船の都合で積出しを休んでいたので、四八の蔵は米俵でいっぱいになっており、火の入った蔵は三日三晩ももえつづけたということです。