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2020-08-14 14:46:00

資福寺・伊達正宗 しふくじ・だてまさむね

高畠町夏茂

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資福寺は、今から約七○○年ほど前に建てられた古い寺で、伊達家の菩提寺でした。天正一八年(一五九○)伊達政宗が秀吉の命によって岩出山に移った時に寺も一緒に移されました。「竹に雀は仙台様よ」とうたわれた伊達家は、宮城県の岩出山から仙台に移る前は米沢藩の領主でした。有名な十七代「独眼竜政宗」も米沢で生まれました。寺跡には、政宗の父の伊達家十六代輝宗と、その家来の遠藤基信それに九代・儀山公政宗とその夫人の四基のお墓があります。*伊達政宗:米沢とは縁の深い伊達政宗は、永禄一○年(一五六七)八月三日に伊達十六代輝宗の長男として米沢城に生まれました。幼名を梵天丸といい、十一歳で元服、藤次郎政宗と名を改めました。疱瘡を患って右目を失いましたので、独眼竜政宗と呼ばれたのです。天正一三年(一五八五)一八歳の時に、父親輝宗の仇にあたる畠山氏を討ち、天正一七年には葦名義広を減して会津一帯を手に入れました。この戦に勝った祝に家来の一人である伊達五郎が陣中で舞をまったのですが、その折「音もせず 葦野の夜にしぐれきて 袖にさんさと ぬれかかるらん」と詠みました。政宗はこの歌を大変気にいり、さっそく節をつけて凱旋の時に披露しました。これが宮城県の有名な民謡”さんさ時雨”の元唄となっております。政宗が二四歳になった天正一八年(一五九○)に、秀吉の小田原攻めに遅れたことが原因で秀吉の怒りをかい、翌一九年には米沢から岩出山に移されました。秀吉の死後は徳川家康と和を結び、仙台の青葉山に城を造って伊達六二万石の基礎を築いたのです。政宗は、日常は質素倹約を旨とし、いざとなると「さすがは伊達だ」といわれる程の派手なふるまいを見せて人々を驚かせました。「派手」とか、「気をはった」という言葉に使われる、「伊達」という言葉もここから生まれたといわれます。封建戦国の世にあって、国際的な感覚を持つた時の英雄・伊達政宗は、寛永一三年(一六三六)に六九歳の生涯を閉じました。