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2020-08-14 15:11:00

羽黒山 はぐろさん

鶴岡市

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羽黒山は出羽三山信仰の中心地です。羽黒山は推古天皇の御代、第三二代崇峻天皇の第一皇子、蜂子皇子によって開かれました。蜂子皇子は、都をのがれて海路はるばる出羽国由良に上陸しそして三本足の烏にみちびかれて、羽黒山についたといわれております。当時の知識人であり文化人であった蜂子皇子は、人々の苦しみを救い、農耕の道を教え、産業をおこし、人々を教えみちびいたのでした。皇子修業の跡は弟子の弘俊が伝え、のちに、役の行者が山にこもり、羽黒修験道を確立したと伝えられております。鎌倉時代のはじめ、源頼朝は奥州征伐の時、羽黒山に戦勝を祈願し、藤原氏を滅ぼしたあとそのお礼に麓に黄金堂を建てました。これは現在、重要文化財に指定されております。鎌倉時代の蒙古襲来の時、幕府は敵国撲滅を祈願し、その時、大鐘を寄進し、これが今羽黒山頂にあるつり鐘です。この当時、出羽三山の勢力は隆盛をきわめ、衆徒八千といい、この地方では絶対の権力をもち、武力も強大であったということです。江戸時代になって、庄内を平定した最上義光は、羽黒山に千五百石を寄進し本堂を修造するなど保護しました。このころ戦国争乱の影響をうけて出羽三山もめまぐるしく変わり、秩序も乱れておりましたが、羽黒山中興の祖といわれる天宥(てんゆう)が別当職について、三山の統一の振興をはかり、それまでの真言宗を天台宗に改めたのです。今に残る天然記念物の杉並木もこの時代に植えられたものです。泰平の続いた江戸時代には、伊勢詣りや金毘羅詣りなど神社仏閣の参拝が流行しましたが、出羽三山も羽黒山伏によってその信仰が植えつけられ、一生に一度は必ず三山御山がけをするものと考えられます。男子は十五歳になると必ず三山参りをし、お山参りをしない者は一人前として通用しなかったものでした。明治維新の神仏分離の時、山内の三十三坊のお寺は、ほとんど取りこわされ、多くの宝物も焼かれてしまい、三山神社として再出発したのです。修験道は廃止になりましたが、羽黒修験道のいろいろな行事は神社の祭事やそのほかの行事の中に残されております。

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羽黒山は、月山表登山道の北に連なる丘陵で、山頂に伊底波祖(いではそ)を祀る出羽神社(羽黒山神社)があります。月山と湯殿山は、冬季の積雪により、登拝が困難なため、羽黒山に三山祖社の合祭殿(がっさいでん)があり、毎年七月十五日に、三山の例祭が同時にここで行なわれます。三山神社の合祭殿は、文化十年(一八一一)に庄内藩主、酒井忠器が起工いたしまして、文政三年(一八一八)に完成した入母屋造りの、立派な建築で、中央に月山神、右に羽黒山神、左に湯殿山神を祀ってあります。