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2020-08-15 10:00:00

藤島城跡 ふじしまじょうせき

鶴岡市藤島字古楯跡

0235-64-2111

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和銅年間に藤島町平形におかれた、出羽国府の城としてつくられたもので、当初は土佐林氏が居城し、その後は武藤、上杉、最上氏など歴代領主の支城となっておりました。今では・本丸跡に建つ八幡神社の周辺に、土塁堀跡などを残すだけとなっておりますが、舟着場だったと思われる外堀から約千三百年前につくられたと推定される丸木舟が発見されております。この舟の長さは、約一一・五メートル、幅一・二メートルほどあり、巨大な杉の木をくりぬいて造ったもので、貴重な資料として中央公民館に保存されております。

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藤島城は、本丸内にある庄内農高の裏を流れる、藤島川を自然の外ぼりにした城で、いつ頃築かれたのかは、はっきりしておりません。南北朝時代、庄内の多くは南朝に味方し、当時の城主白河為県(ためかた)が後醍醐天皇の御子、護良(もりなが)親王を奉じて、北畠顕信らと旗をあげたところです。しかし、庄内の足利勢はしだいに勢力をまし、康安五年七月(一三六二)に、藤島城は落城したのです。その後いくたびか城主が変り、慶長六年八月(一六○一)徳川家康から、庄内三郡を加増された山形藩主最上義光は、家来の新関因幡守久正に、藤島城を与えたのです。その頃藤島地方は水不足のため、農村の水争いも深刻で、血で血を洗う程だったといいます。これを見た因幡守は、自分で赤川上流の、水源地を調査し、慶長八年用水堰の開発工事を始めたのです。工事はその後、酒井藩六代の忠真がひきつぎ、元禄二年に完成しました。それがいまの因幡堰で、主流の長さ一三キロ羽黒町、藤島町、三川村の水田一四七○ヘクタ-ルをうるおしております。現在、本丸跡には八幡神社の社が建っており、二の丸と三の丸跡は山形県立庄内農業高等学校の校舎と敷地になっています。