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2020-08-15 10:17:00

孝子慶玉の碑 こうしけいぎょくのひ

鶴岡市湯温海甲

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慶玉は正徳二年(一七一二)、貧しい百姓の子として生れましたが、一八才の時、眼病にかかり、手当に必要なお金もないままに、遂に失明してしまいました。それから間もなく、年老いた両親が病気にかかり、一家はどん底につき落されてししまったのです。親孝行の慶玉は、目もみえないのに、昼は山で木を切り、夜はワラジをつくって働いていましたが、今でも伝えられていることにこんな話があります。ある時、病床の父が鯛を食べたいといいましたので、村中探しましたが、冬のためどこにもなく、何とか父を喜ばせたいと、三里もある越後まで鯛を買いに行き、やっと一尾買い買求めに帰り、ワラの包みを開けたら、入っているはずの鯛がありません。途中で落したとわかると、疲れた足をひきずりみえない眼で、雪の夜道を引き返したといいます。手さぐりで約一里、凍りついた手に、鯛を探しあてた時は、両手で鯛を胸にあて、うれし涙にくれたといいます。この孝行話は、当時全庄内に広がり、当時の庄内藩主、酒井公は慶玉の孝を讃え、お米三○俵を与えました。慶玉は天明五年(一七八五)十一月、七四才で亡くなっています。