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2020-08-17 09:48:00

庄内とお米 しょうないとおこめ

東田川郡庄内町

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庄内平野は北に鳥海山国定公園、東には出羽三山、南は磐梯朝日国立公園と三方山にかこまれ、西は日本海に面しています。南北八○キロ、面積二二四○平方キロの平野です。その真中を最上川と赤川がゆっくりと流れ、庄内平野の中心都市は最上川の河口に発達した酒田市と、赤川の近くに発達した城下町が鶴岡市です。庄内は百万石の米どころとよくいわれます。庄内に米づくりをひろめたのは、今からおよそ一三八○年以上前、出羽三山を開いた第三二代崇峻天皇の第一皇子、峰子皇子であると伝えられます。下って江戸時代の初め、酒井忠勝が鶴岡に移ってから代々、米の増産と改良に力を入れ、「庄内の酒井は お米の殿様 秋田の佐竹は 林の殿様 岩手の南部は 馬の殿様」と奥羽の三殿様に数えられた程、代々の酒井公は庄内米に理解が深く、山居倉庫として知られている、米倉庫も酒井家が建てたものです。一方、農民達も土地改善、灌漑水路の開発、品種の改良に力を入れ、青龍寺川堰、中川堰など三○余りの堰を造りあげ、今の庄内平野の美田のもとをきずいたのです。もう一人、忘れてならない人に、「河村瑞賢」がおります。 

*河村瑞賢:今から二九○年以上前、それまで一年以上もかかって江戸に運んでいた、庄内米をわずか三月で運べるようにした人です。瑞軒は、それまで酒田から敦賀(福井県)までは船、敦賀から琵琶湖の岸までは牛や馬、そして又琵琶湖を船で渡し、江戸大阪まで、牛や馬で運んでいたのを、酒田から船で下関、瀬戸内海を通って、江戸まで庄内米を運ぶ「西廻りの航路」を開いたのです。明治になってからも馬で耕す技術をとり入れるなど、耕作技術の改善、品種の改良に力を注ぎ、農業経営の近代化、労働の機械化、生活水準の向上につとめました。生誕地は三重県度会郡南伊勢町東宮です。