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2020-08-17 09:49:00

庄内について しょうないについて

東田川郡庄内町

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庄内といえばお米の国、そして美人の国です。庄内地方は、鶴岡と酒田の二市と東田川、西田川、飽海の三郡で、庄内平野の米の産高は二十数万トンで、山形県の三分の一以上を占める産出量です。庄内平野に米づくりを広めたのは、今からおよそ一三七○年前、出羽三山を開いた第三二代崇峻天皇の皇子、峰子(はちこ)皇子であると伝えられています。江戸時代には米の増産と改良に力を入れましたが、なかなか思うように事ははこばす、明治のはじめ頃は、一石一斗が反当収量だったといいますから、”働けど働けどわが暮し楽にならざり”といったところでした。ですから明治二十年頃には、地主を中心に米の増産への関心が急に高まってきて、耕作技術改善で真先にとり入れたのは、「馬」で耕すことでした。それまでは牛馬は、荷物を運搬するだけのもので、「耕田に使うとバチが当る」と言われてきました。地主の中でも酒田の豪農、本間家で競耕会を開き、集った者には酒や魚をふるまい、優秀なものには賞品を出したほどで、「馬耕をしないものには田を貸さない」「馬を買うものには一頭につき二五○円の営農資金を十年賦で貸す」といった力の入れ方でしたから、だんだんと馬で耕す者が増え、その人達で置賜、村山地方へどんどん雇われて、広めたものですから、馬や牛で耕やして、能率をあげる方法が、とられるようになりました。 

*農作業をしている女性の中に黒い布で顔をつつんでいる人ですが、顔のおおいを”ハンコタンナ”といいます。「ハンコ」とは半分、又は半端という意味で、「タンナ」は半分の帯ということです。藍染めの木綿の幅四センチ、長さ一五○センチほどの細長い帯状のもの、これを額と鼻にまきつけ、目だけ出して頭には手拭をかぶります。このようなハンコタンナが使われるようになったことについてこんな伝説があります。昔、庄内に大変女好きな殿様がいて、野良で働いている美しい女を見ては、だれかれの区別なくお城につれていってしまうので、これに困った庄内の人達はおばとの顔が見えないように、黒い布ですっぽりと包んでしまったということです。しかしこれはこじつけで、実際は直接労働に役立つものとして考えられたものです。一日中、田や畑で働く女の人達が、日焼けしたり虫にさされたり、稲の穂先で傷つけたりしないように、叉、汗どめに、冬には吹雪やアラレを防ぐために、顔を包んだものです。