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2020-08-17 09:52:00

庄内の地名 しょうないのちめい

東田川郡庄内町

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庄内には、坂辺新田とか、余目新田等と、新田ということばのつく地名、安倍興野、丹波興野等のコーヤのつく地名、それに平京田、荒井京田と、京田のつく地名が大変多いようです。これらの地名は、集落の出来た時代によって、区別されるものです。京田とよばれる集落は庄内に一四ありますが、京田は、三つの集落では最も古く、室町時代以前に開拓された所です。この京田という地名のおこりをある人は、京の資本がはいって開拓された集落と、推定しておりますが、京田は羽黒山と関係ある村だといわれております。興野は、室町時代の末から、元和八年(一六二二)の酒井家入部以前に開拓された所で、庄内にはこの名の集落が九三あります。新田という地名は、庄内全体で九一程あり、この集落は三つの地名のうちで、最も新しく出来た所で、慶長十七年(一六一二)北館大学の手で、北館大堰が完成し、凡そ二万六千石の水田に潅澗されるように念ってから発生したもので多くは開村三○○年の祝を、昭和のはじめ頃行っております。酒井家が庄内に入部した頃は、一三万八千石、その後北館大堰、因幡堰、青龍寺川堰など、何千町歩も灌漑出来る水路が、何本も出来ますと、急に開拓が始まり、新しい集落がどんどん生れてきました。最初は川沿に集落が生れましたが、その頃は藩の役人や浪人、庄屋等が関係して開いた所が多く、又川村瑞軒が西廻り航路を開いて、庄内米を有利に販売出来るようにしてからは、商人の投資も多くなり、火山のふもとや砂丘の根まで開拓され、ついに今日のような、一望美田の庄内ができあがりました。

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王朝文化の華やかなりし平安時代、この辺りは「大泉の荘」といわれておりましたので、その荘の中ということから、庄内とよばれることになったといわれております。叉別の説によりますと、アイヌ語の「シヨウナピ」ということばがなまって庄内になったともいわれております。シヨウナビという意味は、土が積み重なって出来た土地というのだそうです。庄内平野は最上川をはじめ、たくさんか川が運んで来た土や砂が、積み重って出きた土地ですので、全くシヨウナピなわけです。