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2020-08-17 11:36:00

最上徳内誕生の地 もがみとくないせいたんち

村山市楯岡

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徳内は宝暦五年(一七五五)にここで生れ、蝦夷探検の功績をみ書とめられ、天保七年(一八三六)に江戸でなくなりました。

*最上徳内:楯岡が生んだ最上徳内は、甑岳(こしきだけ)の頂きで「里はまだ 夜深し富士の 初日影」とよんでおります。最上徳内は、宝暦五年(一七五五)楯岡新町で百姓甚助の子として生まれ、幼名を元吉といいました。寛政十年(一七九八)北海道から千島のウルツプ島、エトロう島に近藤重蔵と共に上陸、「大日本恵登呂府」の標柱を建て、領土権をあきらかにしました。徳内はその働きざかりを北海道と千島の研究にささげたのですが、日本海洋学界の恩人、ドイツのシーポルト博士は、一八世紀におけるもっとも傑出せる日本探検家」とほめたたえております。楯岡の新町に生まれた徳内は、煙草の行商をしながら学んだといわれます。その後二十七歳で江戸へのぼり医学、数学を学び、特に天文測量に熱意をそぞぎ、天明五年(一七八五)三一歳の時はじめて最上徳内と名乗りました。また、村山市にはこの他、幕末俳壇の雄、高梨一具、積雪寒冷地法生みの親、松岡俊三代議士、抗酸菌病研究の第一人者、海老名敏明博士、美術界では、小松均画伯などなかなかたいした人物を出しています。